世界一優しい私の主治医

【カルテ:午後】

状態: 全身の重度衰弱。極低代謝状態。

症状: 発声不能。随意的筋運動の著しい低下。

観察: 意識は清明。眼球運動による最小限のコミュニケーションを試行。

「……サナ。起きたか。無理に動かなくていい、そのまま聞いてくれ」

階段を上がる足音と共に、ククイが枕元に膝をついた。
サナは、重い瞼をゆっくりと、本当に数ミリだけ持ち上げた。言葉は出ない。けれど、その潤んだ瞳が博士の姿を捉えた瞬間に、わずかな光を宿したのをククイは見逃さなかった。

「喉が乾いただろう。唇を潤すぞ」

ククイは小さな脱脂綿に水を含ませ、サナの乾いた唇に優しく触れた。サナは、水が染み込んでいく微かな感触に、精一杯の「ありがとう」を込めて、一度だけゆっくりと瞬きをした。

「……あぁ。分かっている。ちゃんと伝わっているぞ」

ククイは、サナの力なく放り出された右手を、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。かつては握り返してくれたその手は、今はただ、博士の掌の中で羽毛のように軽く、頼りなく横たわっている。

「声が出なくても、体が動かなくても、君の『生きていたい』っていう叫びは、俺には誰よりも大きく聞こえる。……サナ、今の君は、動かないことで全力で命を繋ぎ止めているんだ。それは、アローラのどのポケモンが戦う姿よりも、尊いものだぞ」

サナの視界が、じわりと涙で滲んだ。
何もできない自分。博士を助けることも、笑顔を見せることもできない自分。そんな「無力」な自分さえも、博士は「戦っている」と認めてくれる。

「……サナ、一つだけ約束だ」

ククイは、彼女の瞳の奥を覗き込むようにして、声を落とした。

「指が動かなくなったら、瞬きで教えろ。瞬きも疲れたら、呼吸で教えろ。……俺は君の心臓の音一つ、皮膚の温もり一つから、君が何を言いたいか全部読み取ってみせる。……だから、孤独だなんて思うな。俺のカルテは、君の無言の言葉を全部書き留めるためにあるんだからな」

サナは、溢れそうになる涙を堪えるように、もう一度だけ、深く瞬きをした。
動けない体の中に閉じ込められていても、この掌の熱さと、自分を信じ切っている主治医の視線がある限り、ここが世界の果てではないことを彼女は知っていた。

『発声および随意運動の消失を確認。
しかし、眼球運動による意志疎通は維持されている。
身体的ケアを頻回に行うと共に、非言語的な「対話」を深化させる。
彼女の沈黙は「停止」ではなく、次なる回復への「蓄積」であると定義。
主治医として、彼女の微細なサインを決して見逃さないことを自らに誓う。』

窓の外では、アローラの空を飛ぶキャモメの影が、一瞬だけカーテンを横切った。
サナは博士の手の温もりに意識を委ね、言葉のない世界の中で、穏やかな安らぎの海に身を浸していた。
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