世界一優しい私の主治医
アローラの夜空を埋め尽くした大輪の光。
お腹の底まで響く大きな音と、海風に重なる歓声。サナにとって、今夜直接見た花火大会は、一生忘れられないほど美しく、心震える体験だった。
「すごかったね、博士! 海の上に花火が咲くなんて、私、初めて見た……!」
帰り道、ククイの隣を歩くサナの瞳は、まるで花火の余韻を宿したようにキラキラと輝いていた。病気になってから、これほど遠出をして、大勢の人混みの中で過ごしたのは久しぶりのことだった。
「だろ? アローラの夏は、あの花火を観ないと始まらないからな。サナに見せてやれて本当によかったぜ」
ククイもまた、少年のように眩しそうな顔で笑い、サナの歩幅に合わせてゆっくりと夜道を歩いた。
しかし、研究所の扉を開けた瞬間――サナの糸が、プツリと切れた。
冷え切った玄関の空気、そして一気に押し寄せてきた激しい疲労感。
楽しさで麻痺していた感覚が一転し、人混みの熱気や独特の匂い、大音量の振動で苛まれていた胃が一気に拒絶反応を起こした。
「ただい……っ、」
挨拶すら最後まで言えなかった。
サナの顔から一瞬で血の気が引き、その場にぐらりと崩れ落ちる。
「サナ!?」
玄関の靴を脱ごうとしていたククイが、異変に気づいて飛び寄る。
ククイの手が彼女の肩に触れるのとほぼ同時だった。
「う……っ、うぇっ……!」
耐えきれなくなったサナは、そのまま玄関の床に突っ伏し、激しく嘔吐した。
胃の中のものが容赦なく戻され、吐物と涙でサナの顔が濡れていく。
「っ……!」
ククイは息を呑んだ。
あまりにも突然の出来事。数分前まであんなに嬉しそうに笑っていた子が、目の前でボロボロと苦しそうに吐き戻している。一瞬の驚愕がククイの思考を白ませたが、次の瞬間には「保護者」としてのスイッチが即座に切り替わった。
「サナ、大丈夫だ! 吐けるだけ吐いちゃいな」
ククイは迷わずサナの細い身体を抱き起すと、長い髪が汚れないよう片手でさっと束ね、もう片方の大きな掌で彼女の背中を力強く、けれど優しくさすり始めた。
「苦しいな、全部出しちゃえ。俺がついてるからな」
「ぅ……ケホッ、ごめ、なさ……っ、うぇっ……!」
呼吸もうまくできず、胃液の酸っぱい臭いに包まれながら、サナは涙をボロボロとこぼした。
せっかく博士が連れて行ってくれたのに。あんなに素敵な思い出を作ってくれたのに、帰ってきた途端にこんな風に台無しにしてしまうなんて。
「謝るな、謝らなくていい! 人混みと熱気で、胃がびっくりしちゃったんだな。無理させてごめんな、サナ」
ククイはサナを責めるどころか、自分の配慮不足を悔いるように低い声で語りかけた。
何度も何度も背中を撫で下ろし、彼女の身体の激しい上下運動が収まるのをじっと待つ。
やがて荒い吐息だけになり、サナがぐったりとククイの胸に倒れ込むと、彼は手早く汚れを処理した。洗面所から汲んできた温かい湯で固く絞ったタオルを使い、サナの口元や涙で濡れた顔、汚れてしまった服を丁寧に拭き取っていく。
「……はか、せ……服、汚れちゃっ……」
「そんなもん、後で洗えば何の問題もないぜ。それより、気持ち悪さは少し治まったか?」
サナが小さく首を縦に振ると、ククイはホッとしたように息を吐き、彼女をそっと横抱きにした。羽のように軽い身体を抱え、ロフトのベッドへとゆっくり階段を上がる。
ベッドに優しく横たえ、毛布を首元まで掛け直す。サイドテーブルに口をゆすぐための水を用意すると、ククイは彼女の額にそっと手を置いた。熱はそこまで上がっていない。純粋な体力の限界と、人酔いによる急性的なものだった。
「……楽しかったのに、最後に……迷惑かけて、ごめんなさい……」
うっすらと目を開けたサナが、消え入るような声で溢した。
ククイは柔らかく微笑むと、彼女の濡れた前髪を優しくかき上げた。
「迷惑なもんか。サナが花火を見て『きれいだ』って笑ってくれた。それだけで、今夜の計画は大成功だぜ」
「博士……」
「ちょっとばかり欲張りすぎて疲れちゃっただけだ。次からは、もっとサナのペースに合わせた特等席を探すからな。……だから、自分を責めずにゆっくり休め」
大きな手がサナの頭を包み込み、ゆっくりと撫でる。
その温もりと、ククイの変わらない力強い言葉に、サナの心の中にあった罪悪感がすーっと溶けていった。
「ううん……今夜ので、じゅうぶん……世界一の、花火だったよ……」
サナは掠れた声でそう呟くと、安心したように重い瞼を閉じた。
ククイは彼女が静かな寝息を立て始めるまで、その白衣の袖を掴む小さな手を、一度も離さずに握り続けていた。
お腹の底まで響く大きな音と、海風に重なる歓声。サナにとって、今夜直接見た花火大会は、一生忘れられないほど美しく、心震える体験だった。
「すごかったね、博士! 海の上に花火が咲くなんて、私、初めて見た……!」
帰り道、ククイの隣を歩くサナの瞳は、まるで花火の余韻を宿したようにキラキラと輝いていた。病気になってから、これほど遠出をして、大勢の人混みの中で過ごしたのは久しぶりのことだった。
「だろ? アローラの夏は、あの花火を観ないと始まらないからな。サナに見せてやれて本当によかったぜ」
ククイもまた、少年のように眩しそうな顔で笑い、サナの歩幅に合わせてゆっくりと夜道を歩いた。
しかし、研究所の扉を開けた瞬間――サナの糸が、プツリと切れた。
冷え切った玄関の空気、そして一気に押し寄せてきた激しい疲労感。
楽しさで麻痺していた感覚が一転し、人混みの熱気や独特の匂い、大音量の振動で苛まれていた胃が一気に拒絶反応を起こした。
「ただい……っ、」
挨拶すら最後まで言えなかった。
サナの顔から一瞬で血の気が引き、その場にぐらりと崩れ落ちる。
「サナ!?」
玄関の靴を脱ごうとしていたククイが、異変に気づいて飛び寄る。
ククイの手が彼女の肩に触れるのとほぼ同時だった。
「う……っ、うぇっ……!」
耐えきれなくなったサナは、そのまま玄関の床に突っ伏し、激しく嘔吐した。
胃の中のものが容赦なく戻され、吐物と涙でサナの顔が濡れていく。
「っ……!」
ククイは息を呑んだ。
あまりにも突然の出来事。数分前まであんなに嬉しそうに笑っていた子が、目の前でボロボロと苦しそうに吐き戻している。一瞬の驚愕がククイの思考を白ませたが、次の瞬間には「保護者」としてのスイッチが即座に切り替わった。
「サナ、大丈夫だ! 吐けるだけ吐いちゃいな」
ククイは迷わずサナの細い身体を抱き起すと、長い髪が汚れないよう片手でさっと束ね、もう片方の大きな掌で彼女の背中を力強く、けれど優しくさすり始めた。
「苦しいな、全部出しちゃえ。俺がついてるからな」
「ぅ……ケホッ、ごめ、なさ……っ、うぇっ……!」
呼吸もうまくできず、胃液の酸っぱい臭いに包まれながら、サナは涙をボロボロとこぼした。
せっかく博士が連れて行ってくれたのに。あんなに素敵な思い出を作ってくれたのに、帰ってきた途端にこんな風に台無しにしてしまうなんて。
「謝るな、謝らなくていい! 人混みと熱気で、胃がびっくりしちゃったんだな。無理させてごめんな、サナ」
ククイはサナを責めるどころか、自分の配慮不足を悔いるように低い声で語りかけた。
何度も何度も背中を撫で下ろし、彼女の身体の激しい上下運動が収まるのをじっと待つ。
やがて荒い吐息だけになり、サナがぐったりとククイの胸に倒れ込むと、彼は手早く汚れを処理した。洗面所から汲んできた温かい湯で固く絞ったタオルを使い、サナの口元や涙で濡れた顔、汚れてしまった服を丁寧に拭き取っていく。
「……はか、せ……服、汚れちゃっ……」
「そんなもん、後で洗えば何の問題もないぜ。それより、気持ち悪さは少し治まったか?」
サナが小さく首を縦に振ると、ククイはホッとしたように息を吐き、彼女をそっと横抱きにした。羽のように軽い身体を抱え、ロフトのベッドへとゆっくり階段を上がる。
ベッドに優しく横たえ、毛布を首元まで掛け直す。サイドテーブルに口をゆすぐための水を用意すると、ククイは彼女の額にそっと手を置いた。熱はそこまで上がっていない。純粋な体力の限界と、人酔いによる急性的なものだった。
「……楽しかったのに、最後に……迷惑かけて、ごめんなさい……」
うっすらと目を開けたサナが、消え入るような声で溢した。
ククイは柔らかく微笑むと、彼女の濡れた前髪を優しくかき上げた。
「迷惑なもんか。サナが花火を見て『きれいだ』って笑ってくれた。それだけで、今夜の計画は大成功だぜ」
「博士……」
「ちょっとばかり欲張りすぎて疲れちゃっただけだ。次からは、もっとサナのペースに合わせた特等席を探すからな。……だから、自分を責めずにゆっくり休め」
大きな手がサナの頭を包み込み、ゆっくりと撫でる。
その温もりと、ククイの変わらない力強い言葉に、サナの心の中にあった罪悪感がすーっと溶けていった。
「ううん……今夜ので、じゅうぶん……世界一の、花火だったよ……」
サナは掠れた声でそう呟くと、安心したように重い瞼を閉じた。
ククイは彼女が静かな寝息を立て始めるまで、その白衣の袖を掴む小さな手を、一度も離さずに握り続けていた。