世界一優しい私の主治医

「体力をつけなきゃ」
そう思ったのが、間違いの始まりだった。

小康状態が続いているうちに少しでも身体を動かそうと、サナは研究所の一階と二階をゆっくりと、ぐるぐる往復するように歩いていた。外はアローラの厳しい酷暑。けれど研究所の中は、ククイがいつも設定してくれているクーラーのおかげで、涼しく快適なはずだった。

だから、油断していたのだ。

30分ほど歩いた頃、急に視界の端がチカチカと点滅し始めた。

(あれ……、ちょっと息が上がるのが早いかな……)

じっとりと嫌な汗が全身から吹き出し、心臓の鼓動が異様に速くなる。そこで初めて、サナは自分が一滴も水分を摂っていなかったことに気づいた。慌ててキッチンへ向かい、コップ一杯の冷たい水を一気に飲み干す。

けれど、時すでに遅かった。

「……う、……っ」

水を胃に流し込んだ瞬間、強烈な吐き気がサナを襲った。
フラフラとリビングのソファになだれ込み、クッションに顔を埋める。部屋は十分に涼しいはずなのに、身体の内側だけが、まるで沸騰したお湯を流し込まれたように熱い。それなのに、不思議なことに足の先だけは、氷を押し当てられたように冷たくなっていく。

血液が、うまく巡っていない。

「っ……は、はか、せ……」

声を上げようとしたが、喉がカラカラに張り付いてまともな音にならない。
世界がぐにゃりと歪むような激しい目眩。自分の意思とは関係なく、手足の先がピクピクと小さく痙攣し始めるのを感じて、サナは恐怖に目を見開いた。

(なんで……? 家の中にいたのに。クーラーだって、ちゃんと効いているのに……)

激しい後悔が、熱い涙となってこめかみを伝い落ちる。
病気で弱り切った彼女の身体は、ククイが思っている以上に、そしてサナ自身が自覚している以上に、温度調節の機能が狂ってしまっていたのだ。室内だから安全なんて、今の彼女には通用しないルールだった。

「サナ!?」

階下のラボから戻ってきたククイが、ソファで異様な汗をかいて震えているサナを発見し、弾かれたように駆け寄ってきた。

「サナ、しっかりしろ! 体が熱い……、熱中症か!?」

ククイはすぐに状況を察知し、サナの身体を抱き起こした。サングラスの奥の瞳が、焦燥で鋭く見開かれる。

「……ごめ、なさ……、水分、とった、のに……っ」

「喋らなくていい! クーラーが効いてても、今の君の身体じゃ油断はできなかったんだ。気づいてやれなくてごめんな」

ククイは即座にサナの衣服のボタンを緩めて風を通した。それから救急箱から素早く冷却パックを取り出すと、彼女の首筋、脇の下、そして冷え切った足先とは対照的に熱が籠もっている太ももの付け根へと的確に押し当てていく。

「吐き気はあるか? 無理に水は飲むな、喉に詰まる。まずは身体を冷やすぞ」

ククイの声は、緊迫していながらもどこまでも冷静で、サナのパニックになりかけた心を繋ぎ止めてくれた。大きな掌が、汗で濡れた彼女の額を優しく、力強く包み込む。

「家の中でも、なる時はなるんだ。自分を責めるな、サナ。すぐ楽にしてやるからな」

アローラの快適なはずの室内で、サナは己の身体の脆弱さを再び思い知らされ、ククイの腕の中で、ただ彼がもたらす冷気としがみつくような安心感に、すべてを委ねることしかできなかった。
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