世界一優しい私の主治医
「ねぇ、博士。私、どこかにぶつけた覚えはないんだけど……」
ロフトのベッドで着替えていたサナが、不思議そうに自身の白い太ももを指差した。
ククイが視線をやると、そこには境界線のあやふやな、鮮やかな紫色の大きな痣(あざ)が浮かび上がっていた。さらに見ると、腕の柔らかい部分にも、針で突いたような小さな点状の出血斑がいくつも散らばっている。
その光景が網膜に飛び込んできた瞬間、ククイの心臓がドクンと冷たく跳ね上がった。
(ぶつけてもいないのに、この広範囲の皮下出血。それに点状出血……血液疾患か。白血病も鑑別に入る)
脳裏に、研究者として、そして最悪のケースも想定しなければならない医療の知識が、いくつもの重篤な病名を弾き出す。骨髄の異常による悪性腫瘍、あるいは重症の再生不良性貧血――。サナのこれまでの病歴を考えれば、どんな可能性も否定はできなかった。
しかし、彼はプロフェッショナルだった。動揺を表情に微塵も出さず、サナの顔を覗き込むようにして、穏やかな口調で尋ねる。
「サナ、ちょっと聞かせてくれ。最近、鼻血がよく出たりはしなかったかい? 歯磨きの時に歯ぐきから血が出たり、おしっこが赤かったり、黒い便が出たりは……?」
「ううん、そういうのは無いと思う……。どうしたの、博士?」
「いや、念のための確認さ。サナは寝相が良い方だけど、もしかしたら夜中にベッドの柵にでもごっつんこしたかもしれないからね。……少し詳しく原因を調べるために、血液の検査をさせてくれ」
「うん……わかった」
ククイは手早く採血を済ませると、階下のラボへ向かい、サンプルを検査機器にかけた。結果が出るまでの数十分間、ククイは顕微鏡の前に座り、血液塗抹標本をじっと見つめていた。異常な芽球(がん細胞)が紛れ込んでいないか、一つ一つの細胞の形態を慎重に確認していく。カチカチと進む時計の音が、異様に大きく響く。
やがて、電子音と共にデータシートが出力された。
ククイは弾かれたように視線を走らせた。
白血球の数、および形態――正常。
赤血球、ヘモグロビン濃度――ほぼ正常。
そして、血小板の数値――【著しい低下】。
「……よし。現時点では、白血病を強く疑う所見(データ)はないな」
ククイは大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く身体を預けた。額の汗を白衣の袖で拭う。最悪の結末を指し示す影は、ひとまず払拭された。
サナの身体で起きているのは、おそらく数週間前の体調不良(ウイルス感染)をきっかけにした、自己免疫のパニックだ。ウイルスを攻撃するはずだった彼女の免疫が、どういうわけか自分自身の「血小板」を敵だと勘違いし、脾臓などで次々と破壊してしまっているのだろう。
原因と現在の病態が予測できたことで、安堵感が激しい波のようにククイを包み込む。
「よかった……。これなら、手を打てる」
誰もいないラボで小さく呟き、ククイはすぐに治療薬を準備してロフトへ戻った。不安そうに待っていたサナが、彼を見上げる。
「博士……私、悪い病気だった?」
「いいや! 原因がバッチリ分かったぜ、サナ」
ククイはベッドの脇に腰掛け、彼女の頭を優しく撫でた。
「サナの身体の中でね、血を止めるための小さな応援団――血小板っていうやつがいるんだ。数週間前に風邪を引いたときにね、サナの免疫が少し勘違いをしちゃって、その味方の血小板を攻撃しちゃってたみたいなんだ。だから、数が減って痣ができやすくなっていたのさ」
「私の免疫が、勘違い……?」
「ああ。怖い病気じゃないから、安心していいぞ。今回はその『免疫の暴走』を優しく落ち着かせるための点滴をしていこうと思う。少しの間、針を刺したままになるが……俺がずっと、ここで応援団長をしててやるからな」
「ふふ、頼もしいです。よろしくお願いします」
それから数日間、ククイの適切な管理のもと、免疫グロブリン大量療法をはじめとする点滴治療が行われた。毎日少しずつ、けれど確実に、サナの肌に浮かぶ痛々しい紫色の痣は新しい出血を止め、元通りの白い肌へと吸収されていく。
張り詰めた医療者としての視線を緩め、ククイは眠るサナの手をそっと握りしめる。その掌には、何があってもこの命を繋ぎ止め、守り抜くという、一人の男としての強い決意が込められていた。
ロフトのベッドで着替えていたサナが、不思議そうに自身の白い太ももを指差した。
ククイが視線をやると、そこには境界線のあやふやな、鮮やかな紫色の大きな痣(あざ)が浮かび上がっていた。さらに見ると、腕の柔らかい部分にも、針で突いたような小さな点状の出血斑がいくつも散らばっている。
その光景が網膜に飛び込んできた瞬間、ククイの心臓がドクンと冷たく跳ね上がった。
(ぶつけてもいないのに、この広範囲の皮下出血。それに点状出血……血液疾患か。白血病も鑑別に入る)
脳裏に、研究者として、そして最悪のケースも想定しなければならない医療の知識が、いくつもの重篤な病名を弾き出す。骨髄の異常による悪性腫瘍、あるいは重症の再生不良性貧血――。サナのこれまでの病歴を考えれば、どんな可能性も否定はできなかった。
しかし、彼はプロフェッショナルだった。動揺を表情に微塵も出さず、サナの顔を覗き込むようにして、穏やかな口調で尋ねる。
「サナ、ちょっと聞かせてくれ。最近、鼻血がよく出たりはしなかったかい? 歯磨きの時に歯ぐきから血が出たり、おしっこが赤かったり、黒い便が出たりは……?」
「ううん、そういうのは無いと思う……。どうしたの、博士?」
「いや、念のための確認さ。サナは寝相が良い方だけど、もしかしたら夜中にベッドの柵にでもごっつんこしたかもしれないからね。……少し詳しく原因を調べるために、血液の検査をさせてくれ」
「うん……わかった」
ククイは手早く採血を済ませると、階下のラボへ向かい、サンプルを検査機器にかけた。結果が出るまでの数十分間、ククイは顕微鏡の前に座り、血液塗抹標本をじっと見つめていた。異常な芽球(がん細胞)が紛れ込んでいないか、一つ一つの細胞の形態を慎重に確認していく。カチカチと進む時計の音が、異様に大きく響く。
やがて、電子音と共にデータシートが出力された。
ククイは弾かれたように視線を走らせた。
白血球の数、および形態――正常。
赤血球、ヘモグロビン濃度――ほぼ正常。
そして、血小板の数値――【著しい低下】。
「……よし。現時点では、白血病を強く疑う所見(データ)はないな」
ククイは大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く身体を預けた。額の汗を白衣の袖で拭う。最悪の結末を指し示す影は、ひとまず払拭された。
サナの身体で起きているのは、おそらく数週間前の体調不良(ウイルス感染)をきっかけにした、自己免疫のパニックだ。ウイルスを攻撃するはずだった彼女の免疫が、どういうわけか自分自身の「血小板」を敵だと勘違いし、脾臓などで次々と破壊してしまっているのだろう。
原因と現在の病態が予測できたことで、安堵感が激しい波のようにククイを包み込む。
「よかった……。これなら、手を打てる」
誰もいないラボで小さく呟き、ククイはすぐに治療薬を準備してロフトへ戻った。不安そうに待っていたサナが、彼を見上げる。
「博士……私、悪い病気だった?」
「いいや! 原因がバッチリ分かったぜ、サナ」
ククイはベッドの脇に腰掛け、彼女の頭を優しく撫でた。
「サナの身体の中でね、血を止めるための小さな応援団――血小板っていうやつがいるんだ。数週間前に風邪を引いたときにね、サナの免疫が少し勘違いをしちゃって、その味方の血小板を攻撃しちゃってたみたいなんだ。だから、数が減って痣ができやすくなっていたのさ」
「私の免疫が、勘違い……?」
「ああ。怖い病気じゃないから、安心していいぞ。今回はその『免疫の暴走』を優しく落ち着かせるための点滴をしていこうと思う。少しの間、針を刺したままになるが……俺がずっと、ここで応援団長をしててやるからな」
「ふふ、頼もしいです。よろしくお願いします」
それから数日間、ククイの適切な管理のもと、免疫グロブリン大量療法をはじめとする点滴治療が行われた。毎日少しずつ、けれど確実に、サナの肌に浮かぶ痛々しい紫色の痣は新しい出血を止め、元通りの白い肌へと吸収されていく。
張り詰めた医療者としての視線を緩め、ククイは眠るサナの手をそっと握りしめる。その掌には、何があってもこの命を繋ぎ止め、守り抜くという、一人の男としての強い決意が込められていた。