世界一優しい私の主治医

視界がぐにゃりと歪んだ。
サナはキッチンに立ったまま、自分の足元がどこにあるのか分からなくなるような、強い目眩(めまい)に襲われていた。

喉を潤そうと、冷水筒からグラスに水を注いだところまでは覚えている。けれど、急激に込み上げてきた吐き気と、頭の芯を殴られたような鈍い痛みのせいで、指先の感覚が一瞬で吹き飛んでしまった。

(あ、危ない――)

そう思ったときには、もう遅かった。

ガシャン、と。
静かな研究所のキッチンに、耳を突き刺すような高い破砕音が響き渡る。

お気に入りのガラスのコップが床に当たり、無惨にも粉々に飛び散った。透明な破片が光を反射しながら、床一面に、そしてサナの素足のすぐ近くまで容赦なく転がっていく。

「……っ!」

サナの顔から、一気に血の気が引いた。みるみるうちに顔面蒼白になり、ただでさえ悪い気分が、恐怖と罪悪感でさらに最悪なものへと叩き落とされる。

(どうしよう。また、迷惑をかけた。汚しちゃった。壊しちゃった――)

激しい動悸が胸を打つ。
ただでさえククイ博士の未来を奪う足枷になりたくないと思っているのに、自分の不手際のせいで、また彼の仕事を増やしてしまった。
パニックになりかけたサナは、朦朧とする意識のまま、破片を拾おうと床に手を伸ばしかけた。

「サナ! 動くな!」

背後から、いつもより鋭く、けれど切迫したククイの声が響いた。
直後、大きな足音が近づいてきて、サナの身体は床に触れる寸前で、彼の逞しい腕によって軽々と抱き上げられた。

「博士……ごめんなさい、私、また……っ」

「謝るな、いいから怪我はないかい!?」

ククイはサナをリビングのソファへそっと横たえると、すぐに彼女の足の裏や手のひらを確認した。幸い、素肌に破片は刺さっていない。
サナが青ざめた顔でガタガタと震えているのを見て、ククイはすぐに厳しい表情を和らげ、いつもの穏やかな眼差しに戻った。

「良かった、怪我はなさそうだ。……グラスなんていくらでも換えがきく。そんなことより、サナ、顔色が真っ白だぜ。目眩がしたんだな?」

「……うん。急に、世界が回って……。片付けなきゃって思ったのに、身体が、動かなくて……」

涙がボロボロと溢れ出すサナの頭を、ククイは大きな掌で包み込むように撫でた。

「片付けなんて後回しでいい。君が怪我をしなかった、それだけで100点満点だ。……さあ、目をつぶって、ゆっくり深呼吸するんだ。俺が破片を全部片付けて、冷たいタオルを持ってくるからな」

ククイの優しさが、パニックになっていたサナの心を少しずつ落ち着かせていく。
キッチンから聞こえてくる、破片を丁寧に掃き集める音を聞きながら、サナは彼の言葉通りに静かに目を閉じた。どんなに自分が不器用で、壊してばかりでも、この人はいつも真っ先に自分をすくい上げてくれるのだと、薄れゆく意識の中で深く実感していた。
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