博士と研究
「博士………気持ち悪い…」
飛行機に乗って数十分。離陸してまもない頃、隣の席に座る少女が顔を青くしながらじっとりと冷や汗を流して座席に力無くもたれ掛かっていた。
「大丈夫かい?景色を見たほうがいいかもしれないな」
窓を指さすと、彼女はこちらを上目遣いに見つめながらコクリと小さくうなずく。
その仕草はなんとも愛らしい。まるで小動物のような可愛さだ。
しかしそんな彼女の顔色は回復の兆しを見せるどころか悪化の一途を辿っている。無理もないだろう。ずっと入院生活を送ってきた彼女にとってこの空の旅は初めての経験だ。独特な浮遊感に慣れていない上、揺れる機体の中じゃ気分が悪くなるのも遅かれ早かれ時間の問題だっただろう。
「すまない。もっと早く気づいてあげられればよかったんだが……」
自分よりずっと小さな手が白衣を掴んでくる。もう返事もままならないくらいに辛そうだ。
「トイレに行くかい?もう暫くするとシートベルト着用のサインが消えるだろうから、そうしたらすぐに移動しよう」
小さく返事をする彼女を見て、僕は胸を痛めた。なんとかしてあげたいのだが……。
窓の外に広がる雲海を見る余裕もなく、隣では少女が必死に行き場のない吐き気に悶えていた。出来ることなら何でもしてあげたいところだが、生憎酔い止めは既に使ってしまったし、手持ちの薬はどれも効かない。あと、僕に出来ることといえば…
座席の前にある収納スペースを開くと、紙袋を取り出してそっと少女に手渡した。
「…はかせ、……これ」
普段から体調が著しくない彼女はそれがなんなのかすぐに理解したようだ。
「ああ、お守り代わりだけど持っていてくれないか?もちろん、我慢できなくなったらそこに出しちゃって大丈夫だ」
「ありがとうございます……」
サナはそれを大事そうに両手で抱えると、目を閉じて身体を座席に沈ませた。
それから程なくして機内アナウンスが流れ、シートベルト着用のサインが消えたことを告げられる。僕は少女の手を引いて立ち上がると、なるべく揺れないようにゆっくりと歩き出す。余程体調が優れないように見えたのだろう。すれ違う乗客も皆心配そうな表情を浮かべていた。
「ほら、ついたよ。大丈夫か?」
「はい……すいません……」
背中を摩ってやりながら問いかけると、先程よりも幾分かマシになった表情を浮かべて答えてくれた。どうやら人の目につかない場所に辿り着いただけでも効果はあったようだ。これなら1人でも大丈夫そうだな。
「じゃあ僕は前で待っているから、もし何かあったらノックしてくれ」
「はい、ありがとうございます」
ペコリとお辞儀をした彼女に手を振って扉を閉めた。
それにしても搭乗してすぐに気分を悪くしまうだなんて……。やはり彼女の体調面を考えるにアローラへ連れて行くには少し急ぎ過ぎたかもしれない。
後悔先に立たずとは良く言ったもので、いくら考えても後の祭りである。とりあえず今は彼女の気分が良くなるまで見守るしかないだろう。
……それから10分ほど経過しただろうか。
「博士……」
カチャリと鍵の開く音がしたので振り返ると、まだ青い顔をしているものの、元気を取り戻した彼女が立っていた。
声色も先ほどよりだいぶ良くなっている。ひとまず安心といったところか。
「ごめんなさい……せっかく連れてきてもらったのにこんな姿晒してしまって……」
しゅんとした様子で謝罪の言葉を口にする少女に何とも居た堪れない気持ちになる。むしろ連れてきたのは僕の方であって君が謝る必要なんか無いのに。
「気にしないでくれ。それより、具合の方はもう平気かい?」
「はい、おかげで大分楽になりました」
「それは良かった」
微笑みかけると彼女も笑顔を返してくれた。ふむ、どうやら無理をしているわけでもなさそうだ。
今度は2人並んで元の席に戻ると、楽な姿勢を取りやすいように背もたれを倒してやった。
「疲れただろう?寝ていてもいいよ」
「はい……」
横になるとすぐに小さな寝息を立てて眠りについた彼女の様子を伺いながら、時折窓から見える景色を眺めた。その遥か向こうには僕たちの目的地、アローラ地方が待っている。これから彼女は僕の研究所で生活することになるのだ。果たしてどんな日々になるのか……。不安はあるけれど、それ以上に楽しみでもあった。
何せ多くの時間を病室で過ごしていた彼女にとってアローラで過ごす時間は初めての経験ばかりだろうから。
そんな期待感にも似た感情を抱きながら、僕はそっと瞳を閉じるのだった。
***
「わぁ……!ここがアローラですか」
空港に降り立つなり、少女は目の前に広がる光景を見て感嘆の声を上げた。
「そうさ、今日からここが君の住む場所だよ」
「すごいです……本当に別世界みたい!」
大人しいイメージの彼女が年相応にはしゃぐ姿を見ているとなんだかこちらまで嬉しくなってきてしまう。
「あっ見て下さい博士!ポケモンですよ!!」
興奮気味の少女は駆け足で道路脇にいるキャタピーに近寄るとその小さな身体を撫で始めた。
「おっ、よく見つけたな!こいつはキャタピーと言って、虫タイプのポケモンなんだ」
「そうなんですね……かわいい……」
優しく微笑みかけながら頭を撫でてやる少女の姿に思わず頬が緩んでしまう。
うんうん、ポケモンに恐怖心もないし研究所で暮らすのも問題なさそうだ。飛行機の中では心配だった体調面も今は安定しているようだし、遊ぶ元気もある。次は船に乗り換えなければならないが、杞憂だったようだ。
「よし、じゃあ早速移動しよう。船が出ている港はすぐそこだから」
「はい」
僕たちは荷物を手に取ると、フェリー乗り場へと向かって歩き出した。
***
その杞憂が現実と化したのは、乗船してからまもなくのことだった。
船の旅の殆どをトイレで過ごす程に体調を悪化させてしまった彼女は、綺麗なビーチや海を泳ぐポケモンを見ても、観光客で賑わう大型施設のあるメレメレ島についても、先程のようにはしゃぐ元気もないのか終始辛そうな表情を浮かべていた。
そんな彼女の身体を支えながら、なんとか港を出るとベンチに腰掛けさせる。
「大丈夫かい?気分が良くなるまでここで少し休憩しようか」
「すいません……私のせいで」
「気にしないでくれ。とりあえず水を買ってくるから待っていてくれるかい?」
「はい……」
申し訳無さそうに俯く彼女の手を握ると、僕は売店へと向かった。
「お待たせ、これを飲んで」
ペットボトルに入った水を少女に差し出すと、彼女はそれを受け取ってゆっくりと口に含んだ。
カントーからアローラ間の移動に次ぐ移動で疲労が溜まっていた上に、初めて続きの環境の変化だ。慣れない土地での生活に加えて、彼女の身体は未だ未発達。体調を崩しても仕方がないと言えるだろう。
「もう少し休めばきっと良くなるよ。それに……研究所まで僕がおぶってあげるから、今はゆっくり休むといい」
「で、でも…それじゃ、はかせが……」
「僕は大丈夫だ。それに、君が苦しんでいる方が僕は辛い」
「……」
「ほら、遠慮せずに」
背中を向けると、少女の手を引いて促す。しばらく躊躇っていたものの、やがて諦めがついたのかゆっくりと体重を預けてきた。
「っ…!」
思わず息を呑んだ。予想以上に軽い。標準体重を遥かに下回っているだろう。それに、背中越しに伝わる体温もとても熱い……。顔色も相変わらず優れないし、これは早めに休ませた方がいいかもしれないな。
「少し揺れるけど我慢してくれ」
「はい……」
僕はなるべく揺らさないよう細心の注意を払って立ち上がると、片手で彼女の腰を、もう片方の手でキャリーケースを転がした。
「……ねぇ、博士」
「なんだい?」
「……私、ちゃんと、上手くやれるかな?」
首に回された腕に力がこもった気がする。
「心配しなくてもいい。僕もできる限りのサポートをするし、困ったことがあればいつでも相談してくれ」
「……うん」
消え入りそうな声で呟いたあと、少女は黙り込んでしまった。
「怖い?」
「うん……」
「大丈夫さ。ここの人達は皆優しくて良い人だし、何より君には僕が付いてるからね」
根拠なんて無いけれど、今はただその言葉を信じて欲しい。
「うん、ありがとうございます」
少女の声色が幾分か明るくなったことにホッとする。
「……私、頑張ります」
「うん、一緒に頑張ろう」
僕はそんな少女の気持ちに応えようと、力強く歩き出した。
飛行機に乗って数十分。離陸してまもない頃、隣の席に座る少女が顔を青くしながらじっとりと冷や汗を流して座席に力無くもたれ掛かっていた。
「大丈夫かい?景色を見たほうがいいかもしれないな」
窓を指さすと、彼女はこちらを上目遣いに見つめながらコクリと小さくうなずく。
その仕草はなんとも愛らしい。まるで小動物のような可愛さだ。
しかしそんな彼女の顔色は回復の兆しを見せるどころか悪化の一途を辿っている。無理もないだろう。ずっと入院生活を送ってきた彼女にとってこの空の旅は初めての経験だ。独特な浮遊感に慣れていない上、揺れる機体の中じゃ気分が悪くなるのも遅かれ早かれ時間の問題だっただろう。
「すまない。もっと早く気づいてあげられればよかったんだが……」
自分よりずっと小さな手が白衣を掴んでくる。もう返事もままならないくらいに辛そうだ。
「トイレに行くかい?もう暫くするとシートベルト着用のサインが消えるだろうから、そうしたらすぐに移動しよう」
小さく返事をする彼女を見て、僕は胸を痛めた。なんとかしてあげたいのだが……。
窓の外に広がる雲海を見る余裕もなく、隣では少女が必死に行き場のない吐き気に悶えていた。出来ることなら何でもしてあげたいところだが、生憎酔い止めは既に使ってしまったし、手持ちの薬はどれも効かない。あと、僕に出来ることといえば…
座席の前にある収納スペースを開くと、紙袋を取り出してそっと少女に手渡した。
「…はかせ、……これ」
普段から体調が著しくない彼女はそれがなんなのかすぐに理解したようだ。
「ああ、お守り代わりだけど持っていてくれないか?もちろん、我慢できなくなったらそこに出しちゃって大丈夫だ」
「ありがとうございます……」
サナはそれを大事そうに両手で抱えると、目を閉じて身体を座席に沈ませた。
それから程なくして機内アナウンスが流れ、シートベルト着用のサインが消えたことを告げられる。僕は少女の手を引いて立ち上がると、なるべく揺れないようにゆっくりと歩き出す。余程体調が優れないように見えたのだろう。すれ違う乗客も皆心配そうな表情を浮かべていた。
「ほら、ついたよ。大丈夫か?」
「はい……すいません……」
背中を摩ってやりながら問いかけると、先程よりも幾分かマシになった表情を浮かべて答えてくれた。どうやら人の目につかない場所に辿り着いただけでも効果はあったようだ。これなら1人でも大丈夫そうだな。
「じゃあ僕は前で待っているから、もし何かあったらノックしてくれ」
「はい、ありがとうございます」
ペコリとお辞儀をした彼女に手を振って扉を閉めた。
それにしても搭乗してすぐに気分を悪くしまうだなんて……。やはり彼女の体調面を考えるにアローラへ連れて行くには少し急ぎ過ぎたかもしれない。
後悔先に立たずとは良く言ったもので、いくら考えても後の祭りである。とりあえず今は彼女の気分が良くなるまで見守るしかないだろう。
……それから10分ほど経過しただろうか。
「博士……」
カチャリと鍵の開く音がしたので振り返ると、まだ青い顔をしているものの、元気を取り戻した彼女が立っていた。
声色も先ほどよりだいぶ良くなっている。ひとまず安心といったところか。
「ごめんなさい……せっかく連れてきてもらったのにこんな姿晒してしまって……」
しゅんとした様子で謝罪の言葉を口にする少女に何とも居た堪れない気持ちになる。むしろ連れてきたのは僕の方であって君が謝る必要なんか無いのに。
「気にしないでくれ。それより、具合の方はもう平気かい?」
「はい、おかげで大分楽になりました」
「それは良かった」
微笑みかけると彼女も笑顔を返してくれた。ふむ、どうやら無理をしているわけでもなさそうだ。
今度は2人並んで元の席に戻ると、楽な姿勢を取りやすいように背もたれを倒してやった。
「疲れただろう?寝ていてもいいよ」
「はい……」
横になるとすぐに小さな寝息を立てて眠りについた彼女の様子を伺いながら、時折窓から見える景色を眺めた。その遥か向こうには僕たちの目的地、アローラ地方が待っている。これから彼女は僕の研究所で生活することになるのだ。果たしてどんな日々になるのか……。不安はあるけれど、それ以上に楽しみでもあった。
何せ多くの時間を病室で過ごしていた彼女にとってアローラで過ごす時間は初めての経験ばかりだろうから。
そんな期待感にも似た感情を抱きながら、僕はそっと瞳を閉じるのだった。
***
「わぁ……!ここがアローラですか」
空港に降り立つなり、少女は目の前に広がる光景を見て感嘆の声を上げた。
「そうさ、今日からここが君の住む場所だよ」
「すごいです……本当に別世界みたい!」
大人しいイメージの彼女が年相応にはしゃぐ姿を見ているとなんだかこちらまで嬉しくなってきてしまう。
「あっ見て下さい博士!ポケモンですよ!!」
興奮気味の少女は駆け足で道路脇にいるキャタピーに近寄るとその小さな身体を撫で始めた。
「おっ、よく見つけたな!こいつはキャタピーと言って、虫タイプのポケモンなんだ」
「そうなんですね……かわいい……」
優しく微笑みかけながら頭を撫でてやる少女の姿に思わず頬が緩んでしまう。
うんうん、ポケモンに恐怖心もないし研究所で暮らすのも問題なさそうだ。飛行機の中では心配だった体調面も今は安定しているようだし、遊ぶ元気もある。次は船に乗り換えなければならないが、杞憂だったようだ。
「よし、じゃあ早速移動しよう。船が出ている港はすぐそこだから」
「はい」
僕たちは荷物を手に取ると、フェリー乗り場へと向かって歩き出した。
***
その杞憂が現実と化したのは、乗船してからまもなくのことだった。
船の旅の殆どをトイレで過ごす程に体調を悪化させてしまった彼女は、綺麗なビーチや海を泳ぐポケモンを見ても、観光客で賑わう大型施設のあるメレメレ島についても、先程のようにはしゃぐ元気もないのか終始辛そうな表情を浮かべていた。
そんな彼女の身体を支えながら、なんとか港を出るとベンチに腰掛けさせる。
「大丈夫かい?気分が良くなるまでここで少し休憩しようか」
「すいません……私のせいで」
「気にしないでくれ。とりあえず水を買ってくるから待っていてくれるかい?」
「はい……」
申し訳無さそうに俯く彼女の手を握ると、僕は売店へと向かった。
「お待たせ、これを飲んで」
ペットボトルに入った水を少女に差し出すと、彼女はそれを受け取ってゆっくりと口に含んだ。
カントーからアローラ間の移動に次ぐ移動で疲労が溜まっていた上に、初めて続きの環境の変化だ。慣れない土地での生活に加えて、彼女の身体は未だ未発達。体調を崩しても仕方がないと言えるだろう。
「もう少し休めばきっと良くなるよ。それに……研究所まで僕がおぶってあげるから、今はゆっくり休むといい」
「で、でも…それじゃ、はかせが……」
「僕は大丈夫だ。それに、君が苦しんでいる方が僕は辛い」
「……」
「ほら、遠慮せずに」
背中を向けると、少女の手を引いて促す。しばらく躊躇っていたものの、やがて諦めがついたのかゆっくりと体重を預けてきた。
「っ…!」
思わず息を呑んだ。予想以上に軽い。標準体重を遥かに下回っているだろう。それに、背中越しに伝わる体温もとても熱い……。顔色も相変わらず優れないし、これは早めに休ませた方がいいかもしれないな。
「少し揺れるけど我慢してくれ」
「はい……」
僕はなるべく揺らさないよう細心の注意を払って立ち上がると、片手で彼女の腰を、もう片方の手でキャリーケースを転がした。
「……ねぇ、博士」
「なんだい?」
「……私、ちゃんと、上手くやれるかな?」
首に回された腕に力がこもった気がする。
「心配しなくてもいい。僕もできる限りのサポートをするし、困ったことがあればいつでも相談してくれ」
「……うん」
消え入りそうな声で呟いたあと、少女は黙り込んでしまった。
「怖い?」
「うん……」
「大丈夫さ。ここの人達は皆優しくて良い人だし、何より君には僕が付いてるからね」
根拠なんて無いけれど、今はただその言葉を信じて欲しい。
「うん、ありがとうございます」
少女の声色が幾分か明るくなったことにホッとする。
「……私、頑張ります」
「うん、一緒に頑張ろう」
僕はそんな少女の気持ちに応えようと、力強く歩き出した。
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