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博士と研究

身体に違和感を感じたのは目覚めてすぐのことだった。なんだかやけに視界がぼやけていて焦点が定まらない。指一本動かすのも億劫で、まるで全身を鉛で包まれたような倦怠感があった。
ああ、またか。己の病弱気質を呪いながらサナはベッドから身を起こすと、ロフトからリビングを見下ろした。人の気配は感じられず、いつも早起きなククイもまだ起きていないようだ。今ならこっそり薬を飲んでもバレないだろう。ここでの薬は解熱剤ではなく、さもすれば持病を緩和させる薬でもない。飲めばたちまち熱も痛みも消え去ってしまう魔法のような薬、それは鎮痛剤のことだった。
しかし、ククイは体調不良の際にはとにかく身体を休ませることを一番に考える男だ。ましてや鎮痛剤で無理矢理熱を下げてまで学業に専念するサナの現状を知れば、絶対に許してくれないだろう。
だが、サナにも譲れない事情があった。
今日のフィールドワークは授業内容が決まってからずっと楽しみにしていたのだ。たかが体調不良なんかで中止にしたくはない。
もう一度リビングを見渡すと意を決して、ハシゴへ足をかける。一段一段と降りる度に音を立てる足場を気にしながら降りていくと、ようやく地面に両足がついた。そのままキッチンへ向かい戸棚を開けると、隠すようにしまってある箱を取り出した。その箱の中には様々な種類の錠剤が入っている。その中から鎮痛剤を取り出すと水と一緒に飲み込んだ。これでしばらくしたら効果が表れるだろう。まだ登校するまでには時間がある。少し寝直せばきっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせると再び寝室へと戻り布団を被った。
***
「……ナ、……サナ」
遠くの方で自分の名を呼ぶ声がする。この低く落ち着いたトーンの声の主は間違いなくククイのものだろう。
重い瞼をこじ開けるようにして目を開くと彼がほっとしたように息をつく姿が見えた。
「おはよう、サナ。調子はどうだ?」
「…………」
返事をする代わりにゆっくりと上体を起こしてみると早朝に感じていた倦怠感は綺麗さっぱり無くなっていた。これなら大丈夫そうだ。きっと、体調が悪いことなんて誰にもバレないだろう。「……ん?どうかしたのか?やっぱり体調が…」
こちらの様子を伺う彼に笑顔を向ける。
「いや、なんでもないんです!昨日遅くまで勉強していてちょっと寝不足だっただけで……。ご心配おかけしました!」
「本当か?何かあったらすぐに言うんだぞ」
「はい!」
彼は本当によく気がつく人だと思う。だからこそ、これ以上迷惑をかけたくないと思うのだ。彼の優しさに触れる度むず痒い気持ちになる反面、このまま甘えっぱなしでいいのだろうか、と自問することもある。自分は彼に対して何ができるのだろうか。
とにかく、彼の手を煩わせない為にも早く学校に行かなくては。留学生の私が休むこと、それはすなわち受け入れ先のククイも休むことに繋がる。サナの体調が悪い時は必ずと言って良いほど彼も学校を休んでいた。もちろん彼の本業は研究職のため仕事の関係で欠席することはあるが、体調を崩して寝込んでいる私の為に仕事を休んでくれていることがほとんどだった。それが申し訳なくもあり、嬉しくもあった。
ふと、窓の外を見ると雨が降っていた。今日は一日雨らしい。せっかくのフィールドワークなのに残念だなと思いつつクローゼットに手をかけたところで後ろから肩を掴まれる。
振り返ってみると眉間にシワを寄せたククイが立っていた。
「おいサナ、君…俺に何か言わないといけないことがあるんじゃないのか?」
内心ドキッとしたがなんとか平静を保つよう努める。
「えっと、なんのことですか?特に何もありませんけど……」
「とぼけるなよ。正直に話すんだ」
いつもより数段低い声で言われ思わず身体を強張らせる。
どうして?薬を飲んだ後は戸棚直したし、ゴミだってちゃんと捨てたし…そこまで考えて合点がいった。私の馬鹿…鎮痛剤のシートをそのままゴミ箱に入れてしまったのだ。おそらく、彼はそれを見て私が鎮痛剤を飲んだと確信したのだろう。
「……あの、ククイ博士…その、もしかして……」
チラリと視線でゴミ箱を指すと、続きを促すようにククイが首を振った。観念して全てを白状すると大きなため息をつかれた。
「まったく君は……いくら授業に出たいからといって鎮痛剤で熱を下げるなんてそんな無茶な真似を……」
「で、でも鎮痛剤を飲まなかったらフィールドワークに行けないしっ、熱があったら博士だって許してくれないし…絶対、絶対出たかったんだもん…っ」
肩を震わせほぼ半泣き状態で訴えかけると、ククイの表情が一瞬だけ曇ったが、すぐさま元の真剣なものに戻った。
「分かった。君の授業における真剣さに免じて今回のことは水に流そう。だがもう二度とこんなことはしないと約束してくれ。それに鎮痛剤を飲む時は必ず俺に一言伝えること。いいね?」
コクリと素直にうなずくと、ククイが目尻に溜まった涙を拭ってくれた。
「よし、じゃあ俺はスクールに行ってくるから少しだけお留守番していてくれるかい?」
ククイの言葉にサナは落胆したように目を伏せた。やっぱりフィールドワークには連れて行ってくれないようだ。
そんな様子に気付いたのか、ククイは苦笑しながら言った。
「ああ、勘違いしないでくれ。俺が学校に行くのはフィールドワークが延期になったことを伝えに行くためさ。だから、安心して待っていて欲しい。」
「でも、フィールドワークを楽しみにしていたのは私だけじゃ…」
何日も前からクラスのみんな課外授業を楽しみにしてたし、私のせいで中止にするわけにはいかない。そう言おうとしたのだが、最後まで言い切る前にククイが口を開いた。
「サナ、君の気持ちはとても嬉しいよ。だけど、今は自分のことを考えてくれ。……そうだ、鎮痛剤を飲んだということはこれから熱が上がっていく可能性があるということだ。辛いかもしれないが何かあったらすぐに連絡してくれ。」
「いえ、良いんです…博士はフィールドワークに行ってください」
「だがなぁ……」
食い下がる彼に首を振ることで意思表示する。こうなった時の私は頑固なのだ。
「大丈夫です。私1人のために授業を延期するなんておかしいですから……」そう言って微笑みかけたつもりだったが、ククイは意固地になっている私の内情などとっくにお見通しだったようで、「いいや、授業は延期だ。それに、君なしでフィールドワークに行くだなんて言ったらクラスの皆から非難を浴びるのは目に見えているからな。」と言って困ったような顔で頭を撫でてきた。
「博士…」
これには流石のサナもぐうの音も出ず、大人しく引き下がった。ククイの発言に反論出来なかったのは情に厚い友人の姿を思い浮かべたからだ。カントーから来たよそ者の私にでも隔てなく優しくしてくれる。彼らはそういう人達なのだ。
「さぁ、そうと決まれば早く準備をしなくては。朝食は食べられそうか?もし無理そうなら木の実だけでも食べておくといい」
「はい。」
差し出された木の実にかじりつくと、優しい甘さが口に広がった。
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