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博士と研究


ザァザァと横殴りの雨が研究所に降り注ぐ。雨は研究所のガラス窓を激しく叩き、ポケモン達も心配そうにその様子を見つめていた。
しかし、心配の要因はそれだけではない。
「サナ、様子はどうだ?」
普段より幾分か声のトーンを落として遠慮がちに尋ねたのはサナの主治医であるククイだった。いつもは快活な彼だが、今日ばかりは眉尻を下げて不安そうな表情をしている。
対する少女はその問い掛けに答えず、ただ静かにベッドの上で横たわっていた。今朝から頭痛が酷く、微熱もあったため大事をとって休むよう指示されていた。
彼女の容態を心配しているのは何もククイだけではなかった。研究所のポケモン達もまた、少女の体調を案じてそっと見守っている。
ククイは溜め息をつくと椅子に座って頭を掻いた。
「……拗ねているのか?仕方ないだろう、こんな天気なんだから」
ククイの言葉にピクリと反応したサナだったが、やはり返事はない。
「何かあったら遅いだろ?学校を休むのは嫌かもしれないけど、しっかり『リフレッシュ』しなきゃ元も子もないだろうし…」
そう言ってもう一度説得を試みるものの、サナは相変わらず黙りこくったままで、布団を被ってしまった。
「……はぁ」
これには流石に困ってしまったようで、ククイは再び大きな溜め息をついた。
彼女が気分を損ねるのも無理はないからだ。それもこれも、ここ最近ずっと調子が良く、明日は学校に行けるかもな、なんて話していた矢先の出来事であったのだ。
「雨が収まったらきっと頭痛も治るさ。それまではゆっくりして…」
「は、かせ…っ」
それまで沈黙を守っていたサナが掠れた声でククイを呼んだ。片手で口元を抑えて身体を震わせている。
「吐きそうなのか!?待ってろ、今ゴミ箱を…」
ククイがベッド脇に置いてあるピンクの可愛い花柄のゴミ箱を手元に手繰り寄せたのと水音が上がったのはほぼ同時のことだった。ビチャッという生々しい音が響き渡る。
「……っ!お″えぇ……!」
水のような吐瀉物はみるみるうちにベッドに広がっていく。
内心、あーあ、やっちまったと思いながらも、苦しげに嘔吐している少女を見ていられなくて、背中を遠慮がちに摩った。
「ごめんなさい……。気持ち、悪くて…少しでも声を出したら、出そうで…」
「あー、それで返事出来なかったんだな」
喋ることさえ辛かったのかと納得すると、ククイは苦笑しながらタオルを手に取った。
「全部出たか?我慢しなくていいぞ、出し切っちゃえば楽になるはずだから」
ククイは優しく声をかけながら、汚してしまった部分を手早く拭いてやった。そして、綺麗になったところで、ゴミ箱の中に入っていたビニール袋を手渡す。
「ありがとうございます……」
「気にするなって。それより大丈夫か?頭も痛いって言ってたし熱もあるもんな、辛いなあ…」
おまけに嘔吐までしたのだから余計だろう。ククイは気分が悪くないかを尋ねると、彼女は小さく首を振った。まだ顔色は悪いけれど、先程よりは幾分かマシになっているように見える。
ひとまず汚してしまったシーツや布団を取り換えるためにリビングのソファーへと彼女を誘導させた。
ふらふらとした足取りの少女を支えてやりながら、ククイは洗濯機を回し始める。
「博士、私、迷惑かけてばかりで、本当に申し訳ないです……」
「何言ってんだよ、お前は何も悪くないだろ?病人がそんなこと気にするんじゃない」
「でも……」
「それにオレは、サナのこと迷惑だなんて思ったことはないぜ?」
俯いている少女の目線に合わせて屈み込み、安心させるように微笑んでみせる。少女は少しだけ表情を緩めるとまたすぐに俯いた。
「はかせ、やっぱり…まだ、気持ち悪い…ですっ…ぅゔ…」
少女が言い終わる前に、再び水っぽい吐瀉物が口から吐き出された。
喉奥から低く鳴る音を聞きながら、ククイは彼女の薄い背中を摩ってやる。
「ほら、我慢しないで。もうちょっと頑張ろうな?」
そう声をかけて、なるべく優しい口調で話しかけると、少女は力なくコクリと一つだけ首を動かした。
それだけの刺激でさえも吐き気を催してしまうらしく、少女は再びえずく。
しかし、既に胃液しか出てこないようだった。
「はっ、はぁっ…は、はかせ、」
少女はククイの腕にギュッとしがみつくと、涙目になりながら弱音を口にする。
「どうした?しんどいのか?」
ただでさえ嘔吐は体力を消耗するのに、その上熱で身体が怠くて堪らないのだろう。
少女は必死に呼吸を整えようと息を吸ったり吐いたりしている。
「落ち着いたらお薬飲もうな。大丈夫。すぐに良くなるさ」
ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返している少女を宥めつつ、ククイは彼女の背中をさすり続けた。暫くすると、だいぶ落ち着いてきたようで、少女は深く息を吸い込んだ。
「ごめんなさい…また、汚しちゃった…っ」
「だから謝るなって。ほら、口を濯ごうな。コップ持ってくるから楽にしてろよ」
ククイの言葉に素直にコクりと一度だけ首を振ると、少女はゆっくりと深呼吸をした。洗面所で口を濯がせたかったが今の彼女に無理は禁物だろう。
洗面器と水の入ったコップを持ってくると、少女の口元へ持っていってやる。
「ゆっくりでいいからな。口の中濯いでスッキリしよう」
何度か繰り返すと、ようやく不快感が取れてきたらしい。
「ありがとう、ございます……。あの、博士……?」
「ん?なんだ?」
何か聞きたいことがあるのか、少女は口籠りながらもククイの目を真っ直ぐに見つめている。
「……言ってごらん。ちゃんと言ってくれなきゃわからないぞ?」
「あ、その……、本当は少し、怒ってました…っ。私が変に意地はってたから、こんなことになっちゃって……。博士に迷惑かけちゃって……本当にごめんなさい」
「サナ……」
そう言うと、少女はくしゃりと顔を歪めて泣き出してしまった。いつも明るくて元気な彼女が泣いている姿を見るのは慣れない。
ククイはそっと彼女の頭を撫でてやった。
「いいんだ。ずっと学校行きたがってたもんなあ。たまたま雨が降って頭が痛くて気持ち悪くなっちゃっただけで、サナのせいじゃない。サナはなんにも悪くないんだぞ。むしろ、『やつあたり』してくれていいくらいだ。」
「……もう、博士ったらなんでもポケモンの技に例えるのはやめてください」
「はは、そうだな。悪かったよ」
やっと笑顔を見せてくれた彼女を見て、ククイもホッとした。ちゃんと会話の受け答えも出来ているし、これならきっと大事にはならないだろう。
「明日は学校行けるといいな」
「はい、ククイ博士の授業早く受けたいです…それに、ずっと博士にもお休みしてもらってますし、早く良くならないと」
「焦らなくていいさ。今はゆっくり休んで早く元気になろう」
そう言ってもう一度頭を優しく撫でると、サナは嬉しそうにはい、と答えた。
「さぁ、薬を飲んでもう一眠りしような。寝るまで傍にいるから」
「ありがとうございます……」
ククイは薬を手に取ると、水と一緒に手渡してやった。薬を飲む直前、サナは不安そうにククイを見上げる。
「どうした?薬飲むの嫌?」
「…だって、また吐いちゃったらどうしようって…」
「あー…」
彼女が不安に思うのも無理はない。今まで何度も嘔吐を経験している分、次もまたそうなってしまうのではないかという恐怖心があるのだろう。ククイは苦笑いを浮かべると、サナの髪を優しく撫でた。
「よぉし、サナ。簡単なクイズをしようか、怪我をしているポケモンにきずぐすりで消毒しなかったらどうなると思う?」
「へ?」
突然の質問に、サナはポカンとしてククイの顔を見た。
「え、えっと…治らない?…と思います」
「そういうことだ」
「どういうことですか!?」
サナは思わず突っ込んでしまったが、ククイは構わず話を続ける。
「まあ、要するに薬を飲んでやらなきゃ治るものも治らないってことさ。大丈夫だよ、サナはきっとすぐよくなる。だから安心しろって」
そう言ってニカッと笑うと、ククイは少女の手を握った。
「ほら、早く治して俺の授業受けるんだろ?生徒は先生を信じるものだぜ」
握られた手に視線を落としていた少女だったが、やがてクスリと笑みを零すと、「はい!」と明るい声で返事をして、錠剤を飲み下した。
「よし、良い子だ。じゃあベッドに横になりに行こうか」 
「あ…でも、博士…私さっきシーツ汚しちゃって…」
「あー、それなら心配いらない。替えはたくさんあるからな。まあどちらにせよ今日は俺の部屋で寝てもらうことになるけど」
「えっ、あ、はい……ごめんなさい…!」
「だから謝るなって」
そう言うと、ククイは苦笑しながらサナをベッドまで導いた。
ベッド脇に腰掛けて、少女の額に手を当てるとまだ熱は高いようだ。ククイは自分の掌よりも熱い体温を感じながら眉根を寄せた。
「まだ熱が高いみたいだな……苦しいか?」
「いえ……少し楽になりました。博士のお陰です……本当にありがとうございます」
少女は申し訳なさげに礼を言うと、ペコペコと頭を下げ始めた。
「もう、わかったから……ほら、もうちょっと寝ないと。今度は眠れるか?」
「はい、大丈夫です……」
「本当か?ほら、おいで」
ククイは少女の身体を抱き抱えると、自分の腕の中に閉じ込めた。驚くほどに軽い彼女の身体はこうでもしないと何処へ消えて行ってしまいそうだったからだ。
「ちょっ、博士!大丈夫ですってば……っ!!」
少女はジタバタともがくが、ククイはそれを許さなかった。離すまいとするかのように更にギュッと抱き締めてくる彼に観念したのか大人しくされるがままになる。
「…博士?」
口を閉ざすククイを不思議に思ったのか、少女は彼の顔を覗き込んだ。
「なんで、博士が悲しそうな顔するんですか?」
「えっ……」
そんなことを言われるとは思っていなかったのか、ククイは大きく目を見開いた。
「そんなつもりはなかったんだけどな……」
ククイは自嘲気味な笑みを浮かべると、少女の身体を引き寄せて、彼女の肩口に顔を埋めた。
彼女に自身の不安を悟られるわけにはいかない。そんなことは百も承知なのに、気付くとククイは自分を隠すことが出来なくなっていた。
「ごめんな、ちょっとだけこのままでいさせてくれ」
そう言いながら、ククイは少女の背中を摩った。
「えっと、その、はい…博士がそう言うのなら…」少女は戸惑いながらも、ククイの背中に手を回した。
「ふっ……はは、ありがとな」
「……はい」
ククイは少女の温もりを確かめるように、少しだけ力を込めて彼女の細い体を抱きしめた。
彼女の心臓の音を感じながら目を閉じる。トクントクンと規則正しく刻まれている鼓動は生きている証。それを実感すると、自然と安堵の息が漏れ出た。
(まだ、大丈夫…彼女はここにいる)
ククイは自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、ゆっくりと瞼を開いた。
「さぁ、もう眠ろう。明日にはきっとよくなってるさ」
「はい……おやすみなさい」
「おやすみ」
ククイは再び少女の身体を優しく抱き寄せると、ポン、ポン、と一定のリズムで彼女の背を叩き続けた。
「えへへ、はかせぇ…私、そんな子供じゃないですよぉ…」
「ん?あぁ、悪い。つい癖でな」
口ではそう言っているが、ククイは少女の身体を手放そうとしない。彼の胸に抱かれながら、少女は幸せそうに微笑んだ。
「だいじょうぶ…まだ、しなないから…まだ…」
そう小さく口を動かして、少女はゆっくりと目を閉じた。
ぞくりと寒気が走り、思わず腕の中の少女を強く抱き寄せた。手首と胸に手を当てると、きちんと脈打っているのを確認して、ククイは大きなため息をつく。
「はやく良くなれよ……」
ククイは祈るような気持ちで少女の頬にそっと唇を落とした。
静かに眠る少女の頭を撫でながら、ククイはいつまでもその小さな体を抱いていた。
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