博士と研究
「つ、か、れ、たぁーーー!」
リュックを玄関に転がして力なくその上に倒れ込む。
なんとか足を引きずって研究所までは帰って来れたものの、もう一歩も動けそうにない。
こうなった原因は一つしかない。そう、あれは5時間目の体育の授業中だった。
事前に伝えるとズル休みするやつが必ずいるからという理由で直前まで秘密にされていたのだが、それでもこっちにだって心の準備というものがある。
突然告げられた内容にクラス中が阿鼻叫喚に陥ったのは言うまでもない。
だって、だって…持久走だもん…!
思い出しただけでも身震いしてしまう。
最後の方なんて酸欠で意識が飛びかけていたし、きっとみんな同じ気持ちだったと思う。
それでも何とか完走できたんだから褒めてほしいくらいだ。
「おー、おかえり…って、サナ!?どうしたんだ…!体調でも悪いのか?」
リビングの方からひょっこりと顔を出したククイ博士が、私の姿を見るなり血相を変えて駆け寄ってくる。
がっしりとした体格の大柄な男性なのに、こういうところは意外と心配性で過保護なんだよね……
「あ、ククイ博士ただいまです~」
「おう、おかえり…いやそうじゃなくてだな…何かあったのか?怪我とか気分が悪いとか……」
「あ、いえ。そういうんじゃなくて……」
私は事の経緯を説明するために体を起こそうと試みたが、力が入らず再び床へと突っ伏してしまった。
それを見たククイ博士の顔色がさらに青ざめていく。
「おい、本当に大丈夫なのか?とりあえずソファーまで運ぶぞ」
「すみません……ありがとうございます……」
「いいからじっとしてろよ」
軽々と私の体を抱き上げると、そのままゆっくりとソファーの上に降ろしてくれた。
いつもなら恥ずかしくて抵抗するところだが、今はそんな元気すら残っていない。
大人しくされるがままになっていると、博士は冷蔵庫の中からスポーツドリンクを取り出してコップへ注いでくれた。
コップへ手を伸ばすのも億劫だったので視線だけで訴えると、意図を理解してくれたようで口元まで運んでくれる。
ありがたく受け取って喉の奥に流し込めば、ようやく人心地ついた気がした。
「それで、一体何があったんだ?」
隣に座って優しく問いかけてくるククイ博士の声色はどこまでも穏やかだ。
「あのね…今日の授業が持久走で…」
そこまで話したところで彼が納得してくれたように大きくうなずく。
「ああ、なるほどな。それでか」
「はい……。もうほんっとに死ぬかと思いました」
「まあ、確かにあれはきついからなぁ……」
「ククイ博士でも、ですか?」
「買い被りすぎだぜ、俺だって苦手だと思うことくらいあるさ。それにしても、よく頑張ったじゃないか。偉かったぞ」
そう言って頭を撫でてくれる大きな手が温かくて気持ち良い。
もっと撫でて欲しいという欲求を抑えきれず、彼の手にすり寄るようにして甘えてしまう。
すると彼は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたものの、すぐにふわりと微笑んでくれた。
「今日はもうこのままゆっくり休んどけ。明日は休みだし、無理する必要なんかないからな」
「はい」
「夕飯ができたら呼びに行くから、それまではここで横になって…」
「あ…」
そう言って立ち上がろうとした彼の白衣の裾を思わず掴む。自分でもよくわからない衝動的な行動だったが、彼を引き留めたいという気持ちだけは確かだった。
「どうした?どこか痛いか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
こんなことを言ったら子供っぽいと思われるかもしれないけれど、それでもこの手を離したくなかった。しかし、彼を引き止めるにも何か理由が必要だろう。私は咄嗟に思いついた言い訳を口にすることにした。
「……もっと、撫でてほしくて」
恐る恐る見上げた先では、予想通り呆気に取られた様子の彼と目が合った。やっぱり変だったかな……。少し後悔していると、やがて博士は苦笑混じりにため息をつく。
「まったく、君には敵わないな」
再びソファーの隣に腰かけると、優しい手つきで髪を撫でられる。それが嬉しくて、気が付いた時には自然と頬が緩んでいた。
「それじゃあ、お望み通り君が満足するまでこうしていてやるから、好きなだけ休むといい」
「はい。ありがとうございます」
彼の手は頭だけに止まらず、時折頬や首筋、更には全身を愛おしむかのように優しく触れていく。
その感触がくすぐったくて身を捩れば、逃がさないとばかりに抱き寄せられてしまった。
「あんまり動くと危ないぞ」
「だって、博士の手がくすぐったいんですもん」
「頑張った君にご褒美をあげたいだけなんだがなぁ……」
「それは嬉しいですけど、でもちょっと恥ずかしいです……」
「大丈夫だよ。ここには俺たちしかいないんだから」
「んっ……」
耳元で囁かれた声に反応して肩が小さく跳ね上がる。
不意打ちの言葉に驚いて顔を上げると、こちらを見つめている穏やかな瞳と視線が交わる。途端に心臓が早鐘を打ち始め、顔が熱を帯びていくのを感じた。きっと今鏡を見たら、耳まで真っ赤に染まっているに違いない。
「おや、顔が赤くなってるな。熱でもあるんじゃないか?」
心配そうな素振りを見せる彼に、私は慌てて首を横に振って否定する。
「そ、そんなことありません!」
どうしてこう、変なところで鈍感なんだろう!内心呆れて小さく嘆息すれば、「そうか?ならいいんだけど……」
と言うなり、今度は私の額へ自分のそれをこつんと合わせてきた。あまりにも自然な流れだったため、避けることもできずそのまま受け入れるしかない。
「あ……」
「うん、特に問題はなさそうだな」
「あの、博士……」
「どうした?」
至近距離にある彼の整った顔を直視することができなくて目を逸らす。
「……なんでもないです」
彼にはパーソナルスペースという概念が欠如しているんじゃないだろうか。普段ならまだしも、今の私はとてもじゃないが平常心を保てる状態じゃない。
だからお願い、もう少しだけ離れて……!
「博士、あの……できれば、離れてもらえると助かるんですが……」
「え……?あ、ああ…すまない。」
意外にもあっさりと解放してくれたことに拍子抜けしつつ、安堵のため息をつく。
これでようやく落ち着いて考えられる……と思ったのも束の間のことだった。
「ごめんな、君にご褒美をあげている途中だったもんな。じゃあ、次はどこがいい?」
「へ……!?」
「君は頑張ったからな。こんな時くらい沢山甘えてくれていいんだぞ?」
そう言うなり博士は、私をすっぽりと包み込むように抱きしめてきた。
「ちょ、待って……博士……ッ」
彼の腕の中で必死に身をよじるが、がっちりホールドされていて身動きが取れない。
「ほら、遠慮しなくていいから」
「あっ……」
背中をさすっていた手がそのままゆっくりと這い上がり、やがて私の後頭部へと到達する。そして髪の流れに沿って何度も往復を繰り返すうちに、いつしか彼の手に抗えなくなっていた。
「ほら、気持ちいいな」
「はい……」
彼の言葉に誘われるようにして、ゆっくりと瞼を閉じる。すると、まるで催眠術にかけられたみたいに意識がふわふわしてきて、首がカクンと揺れた。
「眠いのか?」
「少しだけ……」
彼の腕の中で微睡みながら、夢現で返事をする。心地よいリズムで繰り返される優しい手つきに、次第に抗うことが難しくなっていく。
「いいんだよ、このまま寝ても」
「でも、せっかくククイ博士と一緒にいるのに勿体無いです……」
普段なら口にするのも憚られるような本音だが、意識がはっきりしていないせいなのか、不思議と抵抗なく口から零れ落ちる。
「…俺は知らない内に君に寂しい思いをさせていたのか」
「え?」
突然の問いかけに戸惑いつつ、改めて考えてみると確かにそうかもしれないと思う。いつも研究所に閉じこもっていて、一緒に暮らしているとはいえご飯の時ですらほとんど会話らしい会話もない。
「……もっと、構ってほしいなって思ってます。」
「……そうか」
「で、でも、しょうがないですよ!研究で忙しいのに、これ以上迷惑かけられないじゃないですか……」
「そんなことはないさ。俺が君に構いたくてやってることなんだから、むしろ喜んで付き合うぜ?」
なんて悪魔のような囁きだろうか。そんなことを言われたら、ますます離れられなくなってしまう。
ツンと鼻の奥が痛くなり、目頭がじんわりと熱くなる。涙を堪えるために唇を噛めば、ふわりと温かなものが触れた。
「泣かないでくれ。君が泣くところは見たくない」
「だって……博士が、悪いんですよ……」
これは完全なる八つ当たり。わかっているのに、感情が制御できない。
「ああ、君の言う通りだな。本当に悪かった」
博士は大人だ。こんな理不尽な怒りをぶつけられてもなお、穏やかに微笑んでくれる。本当は怒ってもいいはずの場面でも、彼は決して怒らないのだ。私が泣いてしまった時は優しく慰めてくれるし、困った時には助け舟を出してくれたりする。それなのに私は……。私はいつだって彼に甘えてばかりで、我を通すばかりで……。一体どれだけ彼を傷つけてしまっているだろう……。
申し訳なさで胸の中をぐるぐると後悔だけが渦巻く。
「博士は悪くないです…むしろ、こんな我儘な私にたくさん優しくしてくれて……」
口にすればするだけ自分の浅ましさを思い知らされる。
「博士のこと、好きになればなるほど自分が嫌いになる」
一度堰が切れてしまうと、もう自分を止めることはできなかった。
「博士は優しくしてくれるけど、私はその優しさに甘えるだけで何も返せないから……。だからせめて嫌われないようにしたいのに、上手くいかないことばっかりで……」
「…………」
「どうしたらいいかわからなくて……不安で仕方ないんです」
そこまで言い終えると、一際強い力でぎゅっと抱き締められた。
「馬鹿だなぁ……」
「うぅ……」
「俺が君を嫌うなんて、天地がひっくり返ってもありえないことだぜ」
そうなんだろうか。彼の言葉を疑うつもりはないが、それでも不安は消えない。
「だって、博士は優しいから……」
「俺が優しい?まさか」
自覚がないとは恐ろしいものだ。博士は普段から優しいけれど、それは誰に対しても平等に向けられるものであって、特別な誰かにだけ向けられるものではない。私は彼にとって特別でも何でもない。ただの留学生で、それだけの存在なのだ。ここはカントーと違って挨拶の仕方も変わっているし、キスやハグだって恋人同士じゃなくてもする。スキンシップに慣れていない私にとっては戸惑うことばかりだったけれど、私が勘違いしてしまっているだけで、博士にとって私はあくまでも教え子の一人にすぎないのだろう。だから、自覚がないのだ。絶望にも似た思いで項垂れていると、頭上からため息混じりの声が落ちてくる。
「君はそんなことを考えていたのか……。まったく、これじゃあ先が思いやられるな」
「え……?」
小さな呟きの意味を聞き返す前に、顎を持ち上げられて上を向かされる。そのまま視線を絡め取られて、逃げることも許されない。やがて吐息がかかるほどの距離まで顔が近づき、思わず息を呑む。
「あの……」
「いいか、よく聞いてほしい」
「んんっ…!」
空いた手でまた頭を撫でられ、再び力が抜けていく。
「君は俺の特別なんだ。他の誰でもない君だからこそ、俺はこうして触れたいと思っている」
「博士……」
「この意味がわかるか?」
「わかりません……」
正直な感想を述べると、博士は小さく苦笑を浮かべた。
「そうだな、まだわからないなぁ」
「え……?」
「今はそれでいいんだ。でも、いつかきっと君にも理解してほしい」
「それはどういう……」
追求しようと口を開いた瞬間、視界いっぱいに影が広がる。気が付いた時には既に遅く、私の唇は彼のそれによって塞がれてしまっていた。ほんの一瞬の出来事だったが燃えるように身体が熱くなる。一瞬で茹で蛸のように真っ赤になったであろう顔を見られたくなくて俯けば、「おや、耳まで真っ赤じゃないか。可愛いなぁ」
などと、からかいの言葉が降ってくる。
「博士……」
「うん?」
「博士のこと、大好きだけど……こういうのはまだ慣れないので、もう少し待ってください……」
恥ずかしさを押し殺して何とか伝えると、「わかった。ゆっくりでいいから、少しずつ慣らしていくとしよう」
と言って私の頬を両手で包み込んだ。
「いつか、君が俺の言ったことを理解できる日が来るといいんだけどなぁ」
そんな日が来るんだろうかと思いつつも、「はい」と答える以外の選択肢はなかった。