博士と研究
控えめにドアをノックする音が聞こえ、読みかけの論文を机の上に置いた。
「いいよ、入っておいで」
「失礼します……」
おずおずと入ってきたのは、留学生で僕の研究所にホームステイをしている少女サナだった。彼女は僕が座っているベッドの隣まで来ると、そこで立ち止まった。
「どうしたんだい?何かあった?」
「あの……ご相談したいことがありまして……」
「どんなことかな?」
そう尋ねると、サナは少しの間俯いて黙り込んでしまった。そんな彼女の頭を優しく撫でてあげると、顔を上げて僕を見つめてきた。その瞳には涙が浮かんでいるように見える。
「私……やっぱりここに来るべきじゃなかったんです。もうすぐカントーに帰ろうと思います」
「…え?」
突発的な彼女の言葉を理解するのに少々時間がかかった。僕が気付かない内に何か彼女を傷付けるようなことをしてしまったんだろうか?それとも、僕が頼りないから…?考え始めればキリがないと思った僕は彼女に理由を聞いてみることにした。
「どうして急にそんなことを言い出すんだい?」
「だって……最近私…変なんです……胸が痛くて苦しいんです……」
サナは大粒の涙を流しながら、僕の胸に顔を押し付けてきた。僕は彼女を落ち着かせるために、背中をさすってやる。
「そうだったのか…大丈夫。きっとすぐによくなるよ…そうだな、その症状をもう少し詳しく教えてくれるかい?まず最初にいつから痛み出したのか覚えているかな?」
「はい……。1週間ほど前からです。最初は気にならないくらいだったのですが、日を追うごとにどんどんひどくなってしまって……」
「なるほどな…胸はどんなふうに痛む?ズキっとしたり、チクチクする…とか」
「チクチク…ですかね。でも時々ズキッとすることもあります……」
「ふむ……他には何かあるかい?例えばどの時間帯に痛むことが多いかな」
「えーとですね……昼間授業を受けてる時とか…夜寝る時が一番ひどいかもしれません……」
「そうか……」
僕は考え込むように腕組みをした。しかし特にこれといった原因は思いつかなかった。
「一度検査をしようか。そうだな…明日学校はお休みして…」
そう続けるとサナは小さく唸って僕の白衣を握り締めて離そうとしなかった。
「やだ…」
「サナ……新しい病気が見つかるのは怖いかもしれないけれど、今対処しておけば身体も楽になっていくはずだよ」
「…ちがう、違うんです…っ」
「違う?何が違うっていうんだ?」
彼女の前に跪き目線を合わせるようにして尋ねてみると、彼女は首を横に振った。そして潤ませた瞳でこちらを見上げてくるのだ。
「今じゃなきゃ、嫌なんです…!不安で…おかしくなりそうなんです…!」
「サナ……」
普段は僕の言うことを良く聞いてくれる彼女だが、今回は珍しく抵抗の意思を見せていた。それ程までに症状が悪化しているという事だろうか。僕はそんな彼女に戸惑ってしまった。今までこんなことは一度たりとも無かったからだ。
それと同時にここまで彼女は追い込まれていたのだと気付く。ずっと彼女と暮らしていたはずなのに彼女の悩みに気付かなかった自分が情けない。
「分かったよ、サナ。君の気持ちを尊重しよう。今からだと簡単な検査しか出来ないけどそれでもいいかな?」
「ありがとう、ございます……それに、ごめんなさい…わがまま言ってしまって……」
「謝らなくて良いんだよ。君はいつも我慢ばかりしているからね。むしろもっと甘えても良いんだよ」
僕はサナの手を引いて部屋を出た。向かう先は地下にある研究室だ。薄暗い階段を降りていくと、そこには様々な機材が置いてある。ここは主に僕の研究用の設備が揃っている場所だ。
「それじゃあサナ、ソファーにかけて待っていてくれ。今準備してくるから」
「はい……」
サナは素直に返事をしてソファに座っていた。僕はその様子を確認してから検査の準備に取り掛かることにした。
◆
「んん…一体何が原因なんだ?」
一通り検査を終えた後、先に彼女を部屋に帰して一人になった僕は机に向かって頭を悩ませていた。心電図に血液採取など、考えられる限りの検査を行ったが特に異常を見つけることは出来なかった。
もちろん気のせいという可能性もゼロではないが、何度も痛みを訴えるというのはあまりにも不自然だった。やはりどこか別の場所が悪いと考える方が自然なのだろう。
「……仕方ないな」
僕は意を決して立ち上がると、研究室を出て彼女の部屋の前まで来た。
「博士…何かわかりましたか?」
梯子を登る音で僕の存在に気付いたのか、扉の向こう側から不安げな声が聞こえてきた。僕はできるだけ優しい声で話しかけた。
「まだはっきりとしたことは言えないんだけど、ちょっと調べたいことがあってね。君の部屋に入ってもいいかな?」
「……はい、どうぞ」
ゆっくりと扉を開けると、サナはベッドの上で体育座りをしていた。僕はなるべく笑顔を作って彼女に声をかけることにした。
「ごめんね、急に来てしまって。少しだけ触診させてもらうよ」
「はい、分かりました」
僕はまず彼女の胸に聴診器を当ててみた。やっぱり特に問題はないように思える。次に彼女の腕を取って脈拍を確認した。これも問題はないようだ。
「すまない、嫌だとは思うが…胸を直接触ってもいいかい?」
「えっと……それは……あの……はい……」
「本当に申し訳ない。痛かったり違和感があったりしたらすぐに教えてくれ」
「はい……」
僕はサナの許可を得てから、彼女の服の中に手を差し入れた。薄いシャツ越しに感じる肌はとても柔らかく、吸い付いてくるような感触だった。
手のひらで少し押してみると、指先が沈み込むほどの柔らかさだった。しかし、その奥には確かに硬い部分がある。
「いっ……!!」
突然彼女が苦痛の声をあげたことで我に帰った。慌てて手を離すと彼女は肩を上下させて息を整えている様子だった。
「大丈夫か!?」
服を簡単に整えてあげると、彼女は泣きそうな顔で僕を見つめてきた。
「痛いです……すごく痛いです……っ」
サナは俯いて自分の身体を抱きかかえるようにして震えている。僕はそんな彼女の背中をさすってあげた。
「どこが痛むんだ?」
「……胸の奥です……ズキズキするんです……っ」
「胸の奥、か……」
僕はもう一度彼女に断りを入れてから、胸を軽く押してみる。すると先程よりも強い力で抵抗された。
「…うん、わかった。これは…」
確信に近い予感はあったが、それを口に出すのは躊躇った。そんな僕の様子を見てサナが息をのむ。
「博士……私、死ぬんですか……?このまま……ずっと痛いままなんですか……?」
「そんなことはない!きっと良くなるよ!だから安心してくれ!」
「でも……でも……っ」
彼女は大粒の涙を流しながら、僕の白衣にしがみついてきた。そしてそのまま嗚咽混じりに言葉を続ける。
「こんなに痛いなんて……おかしいです……っ!今までこんなこと、なかったのに…」
「あぁ…えぇと、それはだな…」
何と説明すればいいか分からず困ってしまった僕は、彼女の背中をさすってあげるしかなかった。でも、ここで本当のことを言ってしまえば彼女に恥をかかせてしまうんじゃないか…そう思い真実を伝えることを躊躇していたのだが、彼女の涙を見るとうかうかしてもいられなかった。
「サナ…落ち着いて聞いて欲しいんだ。君の胸の痛みは…病気じゃないんだよ」
「え……?病気じゃない……?」
「そうだ。むしろ……その逆と言っていいかもしれない」
「ぎゃ、く……?それってどういう意味ですか……?」
「つまりね……サナ、君は第二次性徴期に入ったんだよ」
「第二次……せーちょーき……?」
サナは不思議そうに首を傾げた。それもそうだろう。彼女にとっては初めての経験なのだから。
「そうだよ。君くらいの子だと女の子は月経が始まる頃だし、身体の変化も出てくるはずだ」
「そっか……そういえば……」
ようやく事態を飲み込めてきたのか、サナの顔は徐々に赤みを帯びていった。僕はそれを察して話を続けることをやめた。
「分かったかい?君が今感じているのは成長痛のようなものなんだよ」
「そんな…それなのに、私…病気だ!なんて騒いで……ごめんなさい……」
「謝らなくて良いんだよ。むしろ喜ばしいことだからね」
「でも……恥ずかしい……」
そう言ってサナは再び顔を伏せてしまった。僕はそんな彼女を抱きしめて頭を撫でてあげた。
「大丈夫だよ。サナは大人に近づいているんだ。恥じる必要なんかどこにもない」
「……はい」
サナがそう答えてくれたのを聞いて僕はホッと一息ついた。これで彼女の心の負担も減るはずだ。
「あの、博士…」
「ん、どうかしたかい?」
「…こんなこと言ったら甘えって言われちゃいそうですけど…どうしても痛い時はまた助けてくれますか……?」
「甘えだなんて思わないよ。いつでもおいで。君が望むならいつだって力になるよ」
「ありがとうございます……。それじゃあ……今日は一緒に寝ても良いですか……?」
「もちろん。それじゃあ、おやすみ」
僕はサナと一緒に布団に入ると電気を消して目を閉じた。そしてまだ成長前の小さな身体を抱きしめて眠りにつくのであった。