夜凪
研究所に着くまでの間、お互いに何も喋らなかった。
無言のまま階段を上がり廊下の突き当りの部屋へと進む。
部屋に入るとククイ博士は洗面所にあるタオルを持ってきてわたしに手渡した。
「シャワーを浴びるといい。その間に温かい飲み物を用意するよ」
「…ありがとうございます」
熱いシャワーで冷え切った身体を温めると頭の方も段々と冷静になってきた。
どうしてあんなことをしてしまったんだろうか……。
後悔ばかりが押し寄せてくるけどもう後の祭りだ。
着替えを終えてリビングに戻るとテーブルの上にはホットミルクの入ったマグカップが置かれていた。
椅子に座って恐る恐るそれを口に含むと蜂蜜の甘い香りと共に温かさが全身に広がるようだった。
「落ち着いたかい?」
向かい側に座ったククイ博士はコーヒーを飲みながら優しく微笑んでくれた。
「はい……」
「なら良かった」
そこで会話が途切れてしまった。
ククイ博士は何も言わずにただじっとこちらを見つめている。
気まずくなったわたしは視線から逃れようとして意味もなくカーペットの模様を数えていた。
「サナ」
名前を呼ばれて思わず肩が跳ね上がる。
おそるおそる目線だけ上げるとククイ博士は真剣な表情をして口を開いた。
「何があったんだい?」
「それは……」
言葉に詰まる。ギリ…唇を強く噛むと鉄臭い味が口に広がった。
「博士は…夜の海に感化されたことってありますか?」
「んん…?どういうことだい?」
なぞなぞか?と首を傾げる博士。
「例えば……星空とか、波の音とか……そういうものを見てふと思い出すんです。自分がどこの誰なのか分からなくなる時があって…自分の存在があやふやになってどこかへ消えてしまいそうになるっていうか……」
「ふむ…」
そう言うと博士は顎に手を当て何か考え込んでいる様子だった。
「私、多分消えたかったんだと思います…この世界から」
ポツリ、ポツリと話し始めると堰を切ったように胸の奥底に閉じ込めてきた感情が次々と溢れ出てきた。
「病気は治らないし、お父さんとお母さんにも見限られちゃったし…それに友達だってみんな離れていった。だから全部無くなっちゃえばいいと思って……」
声は次第に小さくなって消えてしまう。
それでもククイ博士は耳を傾けてくれた。
「……私の居場所なんてどこにもないんです。ここ以外どこに行っても同じ。きっと誰も受け入れてくれないし誰からも必要とされなくなる。それが怖くてずっと逃げてきました……色んな方法で」
Zリングを外し、手首の自傷の痕を見せるとククイ博士はそれを痛ましそうな表情で見ていた。
「本当はわかっていたんです。このままじゃいけないんだって。でも生きていくことに疲れてしまって……」
「もう頑張れないって思ったんだね?」
コクリと首肯する。
「それで死のうとした?」
「………わからないです」
本当に死のうとしていたならもっと深くまで潜っていたはずだ。
でもあの時はそこまで考えていなかったと思う。
寧ろなんで研究所を抜け出してしまったんだろう?という疑問の方が大きかった。
ただ衝動的に海に入りたいと思っただけ?
目の前の彼を見つめる。彼はいつものように優しい笑みを浮かべていた。
…いや、違う。きっと心のどこかでククイ博士が迎えに来てくれると期待していたんだ。
彼は優しいからどんな時でも手を差し伸べてくれる。
他の大人と違って決して突き放したりしない。
そんな彼の優しさにつけこんで利用しようとした。
自分の醜さに嫌気が差す。
「…ごめんなさい」
俯いて呟くと涙がこぼれ落ちた。
「どうして謝るんだい?」
「だって……ここに来てから迷惑かけてばっかりだし、博士のこと困らせてばかりで……」
嗚咽混じりに言葉を紡ぐと頭を撫でられた。顔を上げるといつの間にかすぐ近くに来ていた彼と目が合う。
その瞳には慈愛の色が見え隠れしているように見えた。
「謝ることじゃないさ。むしろ君のことをちゃんと見ていられなかった僕の責任だよ」
「そんなこと…」
「あるんだよ。実際に僕は君のことをよく理解してあげられなかった」
博士はわたしの手を取ると両手で包み込むようにして握った。
「君が何を考えているのかもっと知りたかった。悩みがあるなら相談に乗ってあげたかった」
「博士……」
「これからは何でも話してほしい。一緒に考えていこう」
ああ、やっぱりこの人はどこまでも優しかった。
「……はい」
ククイ博士の手に力がこもる。
温かな気持ちが胸に広がっていく。
今まで感じたことのない心地よさがそこにはあった。
「君はここに居てもいいんだ。君が望むならいつまでも」
「……本当ですか?」
「ああ、もちろん」
力強く断言すると博士はわたしを抱き寄せた。
突然の出来事に頭が真っ白になる。
心臓の鼓動が早くなると同時に身体中に熱が広がるような感覚を覚えた。
ドクンドクンと耳に響く音が自分のものなのか博士のものなのか分からない。こんな経験は初めてでわたしは博士の腕の中で身を固くすることしかできなかった。
しばらくそのまま抱き締められていたけどやがてゆっくりと腕を解かれる。
「あ……」
名残惜しい、と感じてしまった自分に戸惑う。
しかしそれを言葉にすることはできなかった。
「サナ」
名前を呼ばれて我に返る。
顎に指を当られて視線を上げさせられた。
博士の顔が近い。
「目を閉じて」
言われるままに瞼を閉じると唇にピリリとした痛みが走った。
反射的に目を開けると上唇をペロリと舐める博士と目が合う。
遅れてキスされたことに気づくと慌てて唇を押さえる。
「消毒しただけさ」
「えっ!?」
頬が一気に紅潮していくのが分かる。今のが、消毒?
「あ、アローラではこれが普通なんですか…?!」
「まさか。これは僕たちだけの特別なやり方だ」
さらりととんでもないことを言う博士。
特別って何ですか?! ますます混乱するわたしを見て彼は満足げに笑うと白衣の胸ポケットから小瓶を取り出した。
中には薬のようなものが入っていて、それを指で掬い取るとゆっくりとわたしの顔へ近づけてきた。
「…で、こっちが普通の消毒だな。さっき噛んでいただろ?ちょっと染みるかもしれないけど我慢してくれ」
そう言ってククイ博士はわたしの下唇に触れる。
ヒヤッとして少しだけ驚いたけどそれだけだった。
「これでよし」
ククイ博士はわたしから離れて立ち上がると今度は頭を撫でてくれた。
「実は前の主治医からも君のメンタルの脆弱性には注意するように言われていてね。何度も言うが、もし何かあったらいつでも相談に乗るから遠慮せずに言ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
「あとこれは独り言なんだが……僕には君が必要だよ」
突然の告白に驚いているとククイ博士はクスクスと笑った。
「それにスクールの皆もサナがいないと寂しいだろうさ」
「…それはどうでしょう」
「本当さ。嘘だと思うなら聞いてみたら良い。特にカキのやつなんかは大騒ぎするぞ。あいつはあれで結構心配性なところがあるからな」
ククイ博士と話しているうちに自然と心が軽くなるのを感じた。
そうだ。まだここに来て間もないじゃないか。諦めるのは早すぎるのかもしれない。
「私、もう一度頑張ってみます。今はまだ無理だけどいつかまた前を向いて歩けるようになりたい」
「ああ、一緒に頑張ろう」
差し出された手を握り返すとククイ博士は優しく微笑んでくれた。
無言のまま階段を上がり廊下の突き当りの部屋へと進む。
部屋に入るとククイ博士は洗面所にあるタオルを持ってきてわたしに手渡した。
「シャワーを浴びるといい。その間に温かい飲み物を用意するよ」
「…ありがとうございます」
熱いシャワーで冷え切った身体を温めると頭の方も段々と冷静になってきた。
どうしてあんなことをしてしまったんだろうか……。
後悔ばかりが押し寄せてくるけどもう後の祭りだ。
着替えを終えてリビングに戻るとテーブルの上にはホットミルクの入ったマグカップが置かれていた。
椅子に座って恐る恐るそれを口に含むと蜂蜜の甘い香りと共に温かさが全身に広がるようだった。
「落ち着いたかい?」
向かい側に座ったククイ博士はコーヒーを飲みながら優しく微笑んでくれた。
「はい……」
「なら良かった」
そこで会話が途切れてしまった。
ククイ博士は何も言わずにただじっとこちらを見つめている。
気まずくなったわたしは視線から逃れようとして意味もなくカーペットの模様を数えていた。
「サナ」
名前を呼ばれて思わず肩が跳ね上がる。
おそるおそる目線だけ上げるとククイ博士は真剣な表情をして口を開いた。
「何があったんだい?」
「それは……」
言葉に詰まる。ギリ…唇を強く噛むと鉄臭い味が口に広がった。
「博士は…夜の海に感化されたことってありますか?」
「んん…?どういうことだい?」
なぞなぞか?と首を傾げる博士。
「例えば……星空とか、波の音とか……そういうものを見てふと思い出すんです。自分がどこの誰なのか分からなくなる時があって…自分の存在があやふやになってどこかへ消えてしまいそうになるっていうか……」
「ふむ…」
そう言うと博士は顎に手を当て何か考え込んでいる様子だった。
「私、多分消えたかったんだと思います…この世界から」
ポツリ、ポツリと話し始めると堰を切ったように胸の奥底に閉じ込めてきた感情が次々と溢れ出てきた。
「病気は治らないし、お父さんとお母さんにも見限られちゃったし…それに友達だってみんな離れていった。だから全部無くなっちゃえばいいと思って……」
声は次第に小さくなって消えてしまう。
それでもククイ博士は耳を傾けてくれた。
「……私の居場所なんてどこにもないんです。ここ以外どこに行っても同じ。きっと誰も受け入れてくれないし誰からも必要とされなくなる。それが怖くてずっと逃げてきました……色んな方法で」
Zリングを外し、手首の自傷の痕を見せるとククイ博士はそれを痛ましそうな表情で見ていた。
「本当はわかっていたんです。このままじゃいけないんだって。でも生きていくことに疲れてしまって……」
「もう頑張れないって思ったんだね?」
コクリと首肯する。
「それで死のうとした?」
「………わからないです」
本当に死のうとしていたならもっと深くまで潜っていたはずだ。
でもあの時はそこまで考えていなかったと思う。
寧ろなんで研究所を抜け出してしまったんだろう?という疑問の方が大きかった。
ただ衝動的に海に入りたいと思っただけ?
目の前の彼を見つめる。彼はいつものように優しい笑みを浮かべていた。
…いや、違う。きっと心のどこかでククイ博士が迎えに来てくれると期待していたんだ。
彼は優しいからどんな時でも手を差し伸べてくれる。
他の大人と違って決して突き放したりしない。
そんな彼の優しさにつけこんで利用しようとした。
自分の醜さに嫌気が差す。
「…ごめんなさい」
俯いて呟くと涙がこぼれ落ちた。
「どうして謝るんだい?」
「だって……ここに来てから迷惑かけてばっかりだし、博士のこと困らせてばかりで……」
嗚咽混じりに言葉を紡ぐと頭を撫でられた。顔を上げるといつの間にかすぐ近くに来ていた彼と目が合う。
その瞳には慈愛の色が見え隠れしているように見えた。
「謝ることじゃないさ。むしろ君のことをちゃんと見ていられなかった僕の責任だよ」
「そんなこと…」
「あるんだよ。実際に僕は君のことをよく理解してあげられなかった」
博士はわたしの手を取ると両手で包み込むようにして握った。
「君が何を考えているのかもっと知りたかった。悩みがあるなら相談に乗ってあげたかった」
「博士……」
「これからは何でも話してほしい。一緒に考えていこう」
ああ、やっぱりこの人はどこまでも優しかった。
「……はい」
ククイ博士の手に力がこもる。
温かな気持ちが胸に広がっていく。
今まで感じたことのない心地よさがそこにはあった。
「君はここに居てもいいんだ。君が望むならいつまでも」
「……本当ですか?」
「ああ、もちろん」
力強く断言すると博士はわたしを抱き寄せた。
突然の出来事に頭が真っ白になる。
心臓の鼓動が早くなると同時に身体中に熱が広がるような感覚を覚えた。
ドクンドクンと耳に響く音が自分のものなのか博士のものなのか分からない。こんな経験は初めてでわたしは博士の腕の中で身を固くすることしかできなかった。
しばらくそのまま抱き締められていたけどやがてゆっくりと腕を解かれる。
「あ……」
名残惜しい、と感じてしまった自分に戸惑う。
しかしそれを言葉にすることはできなかった。
「サナ」
名前を呼ばれて我に返る。
顎に指を当られて視線を上げさせられた。
博士の顔が近い。
「目を閉じて」
言われるままに瞼を閉じると唇にピリリとした痛みが走った。
反射的に目を開けると上唇をペロリと舐める博士と目が合う。
遅れてキスされたことに気づくと慌てて唇を押さえる。
「消毒しただけさ」
「えっ!?」
頬が一気に紅潮していくのが分かる。今のが、消毒?
「あ、アローラではこれが普通なんですか…?!」
「まさか。これは僕たちだけの特別なやり方だ」
さらりととんでもないことを言う博士。
特別って何ですか?! ますます混乱するわたしを見て彼は満足げに笑うと白衣の胸ポケットから小瓶を取り出した。
中には薬のようなものが入っていて、それを指で掬い取るとゆっくりとわたしの顔へ近づけてきた。
「…で、こっちが普通の消毒だな。さっき噛んでいただろ?ちょっと染みるかもしれないけど我慢してくれ」
そう言ってククイ博士はわたしの下唇に触れる。
ヒヤッとして少しだけ驚いたけどそれだけだった。
「これでよし」
ククイ博士はわたしから離れて立ち上がると今度は頭を撫でてくれた。
「実は前の主治医からも君のメンタルの脆弱性には注意するように言われていてね。何度も言うが、もし何かあったらいつでも相談に乗るから遠慮せずに言ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
「あとこれは独り言なんだが……僕には君が必要だよ」
突然の告白に驚いているとククイ博士はクスクスと笑った。
「それにスクールの皆もサナがいないと寂しいだろうさ」
「…それはどうでしょう」
「本当さ。嘘だと思うなら聞いてみたら良い。特にカキのやつなんかは大騒ぎするぞ。あいつはあれで結構心配性なところがあるからな」
ククイ博士と話しているうちに自然と心が軽くなるのを感じた。
そうだ。まだここに来て間もないじゃないか。諦めるのは早すぎるのかもしれない。
「私、もう一度頑張ってみます。今はまだ無理だけどいつかまた前を向いて歩けるようになりたい」
「ああ、一緒に頑張ろう」
差し出された手を握り返すとククイ博士は優しく微笑んでくれた。