緑⊿の短編系
「ねる、」
少し低い、それでもそれが心地いい。
ねるを避けるようになった理佐が、名前を呼んでくるのは脳が痺れるほどの衝撃だった。
「………、」
「…鍵、閉めないで。帰って来れないから。この間閉めたのわざとでしょ」
「…………。」
数日前、いつもは開けておく窓の鍵を閉めた。
そのせいで、理佐は部屋に戻って来れなくて『めちゃくちゃ困ってたよ』と別の寮生から伝えられていた。
そう。いつもは閉めない。
なのに、あの時は、すごく苛立って悲しくて。理佐に声をかけて欲しくて、鍵を閉めた。
「門限までに帰ってこないんが悪か」
「…仕方ないじゃん。門限9時とか早すぎるよ」
別に、門限を守らないから閉めたとか、本気で言ってるんじゃない。
門限を守れとも、言わない。正直21時を守ってる人なんて
あまりいないんじゃないかと思う。
「……閉めなきゃ良かと?」
「え?、うん」
「……わかった。閉めんけん。それだけ?」
「………うん」
『じゃあ』、そう言って理佐は出かけていく。
ねるの手には大学のテキストたち。
手を振らないのは、そのテキストたちがねるを離さないからだと言い訳をした。
理佐は。
寮のルームメイトだ。
いつも帰ってくるのは深夜で。頻回なそれも寮母の目を盗んで帰ってくる。でもそれは、ルームメイトの協力があってこその話。
鍵の開いた窓から、泥棒のように帰ってくる。
最初はあまりに驚いて、普通に寮母さんを呼びに行ってしまって
理佐は反省文を書かされていた。
でも、それもその時だけ。
寮母さんの目が落ち着いたら、理佐はまた門限を守らなくなった。
「……、はぁ」
一夜限りの彼女は、今日は誰なのだろう。
いつも違う香りを連れて帰ってくる彼女は、噂に違わず遊んでいるのだと思う。
それでも、。
『ねる、おいで…』
上京したばかりの寂しいねるを、優しく抱きとめてくれたのは理佐だった。
ただ腕に抱いて、朝まで寄り添ってくれた。
あの腕の温もりに、止まらなかった涙は不思議と引いて
酷く、安心した。
恋に落ちたのは、たぶんその時だ。
「理佐…好き………」
テキストは、無感情に知識を押し付ける。
「………なんてね、」
こぼした言葉も、声の色も、誰にも届いていない。
毎日、誰かを抱きに行く彼女の背中を見送って
抱いた証を抱えた彼女を迎える。
残り香に、胸が締め付けられて
苦しくて
理佐への言葉が、出なくなる。
口を閉じるねるを、理佐はなんとなく避け始めて、
そんなことが、もうずっと続いている。
帰ってくる度に、理佐がねるを見つめていたなんて
知るはずもなかった。