緑⊿の短編系


これは賭けだった。

この命は途絶えるかもしれない。
けれど、もし、何に触れられることもなくこの先を歩けたなら
いや、むしろ、触れることが出来たなら。


私の存在は、きっと、生まれ変わる。

そんな現実離れした思考が、見下ろしてきた瞳を真っ直ぐに見つめ返すことを可能にする。

















「ただいま」

「おかえりなさい、理佐」


帰った合図を送れば、当然のように声が返ってくる。そんなことが日常になったきっかけは半年前からだった。


「、ねる、ご飯食べてないの?」

「そろそろ食べようかと思ってた」

「……」


もう夜の9時。
食べてていいのに、ねるは気遣わせないようにいつもそんなことを言う。
可愛いとも思うけど、いつ仕事が終わるか分からない私を待たせるのはいつも申し訳なく思う。


「本当だよ」

「!」

「9時になったら食べようって思ってたの。でも、理佐の車の音したから待ってた」

「…そっか。じゃあ、一緒に食べよう」


スーツから着替えてリビングに戻る。
その頃にはねるはダイニングテーブルに夕食を並べ終えていた。


「ありがとう。おいしそうだね」

「理佐は細いんだから、ちゃんと食べて」

「食べてるよ」

「外じゃろくに食べてないでしょ」

「あはは、バレてる」

「体力勝負なんでしょう?今日だって急に呼び出されて、休みなんてないみたい」

「今日は急病人が出たみたいで、スタッフが足りなかったんだよ」

「ねるが言えることじゃないけど、大事にしてね、身体」

「うん。ありがとう」


ねるには、初めの頃にお弁当を作るかと提案された。
でも仕事柄のんびり昼ごはんを食べれることなんて少ないから、適当な理由をつけて断ったけれど
食べれてないことすら見抜かれてたなんて。


「……ねるは?仕事。慣れてきた?」

「うん。みんな良くしてくれてる」

「ねるも疲れてるんだから、私の事気にしないで食べて寝てていいからね」

「うん」


ねるは私の言葉に少し寂しげに笑う。

半年前、出会ってからそうだ。
私の配慮は、ねるにとって冷たい言葉なのかもしれない。


ねるの作ってくれたハンバーグ2個をしっかり食べきって、ごちそうさまと手を合わせる。
食器を洗おうとしたら、お風呂に入るよう背を押されてしまった。

既に沸かされたお風呂に、私は少しだけ複雑な気持ちになる。


「理佐、入るよ」

「、ねぇ、お風呂に来ないでって言ってるじゃん」

「なんで?頭洗ってあげる」

「ちょ、ま…うわ!」


体を洗い終えて、浴槽に浸かろうとしたタイミングでねるが入ってくる。
そんなのは日常だった。どれだけダメって言っても、ねるはこれだけは止めない。

私はシャワーを頭から被りながら、言っても無駄だと諦める。
そのうちに、ねるはシャンプーを泡立てていく。


「………、」

「痒いところないですかー?」

「……ない、」

「はーい。じゃぁ流しますよー」


美容室みたいに敬語で声をかけてくる。
ねるに洗われるのは気持ちいい。
絶妙な手加減。指の使い方。頭から、癒されてくみたいな、感覚。


「………、」

「はい。さっぱりした?」

「…うん」


コンディショナーを終えて、洗い流す。
ねるの声を合図に、髪をかきあげながら顔の水滴を拭う。

振り返れば、当然のように裸のねるが眼前に現れた。


「ふふ、すっぴんのりっちゃん好き」

「そんなのお風呂から出れば見えるでしょ」

「……、」

「…………」


なんの、脈絡もなしに。
ねるが近づいて、キスをする。

裸同士。
触れ合う、濡れた肌。
濡れてるせいで、密着する感覚が強い気がする。

空気が、濃密さを増す。


ねるの手が、私の腕を掴む。

私の手は、ねるの腰に触れる。


キスが深くなって、舌が絡む。



「……、ん」

「…ふ、…、」


肌を撫でれば、ねるは震えて、息を切らせた。
















「………、」


ベッドで寝る理佐を眺める。

いくら触れ合っても、互いの身体的な侵略を許しても、
理佐は、ねるに、心を向けてはない。

それは、蔑ろに扱うとか、物としか見てないとかそういうことじゃない。

固く、硬く。閉ざされた理佐の扉がある。


(そんなの、別に期待しとるわけじゃなか、)


綺麗な顔とは掛け離れた境遇。
優しい雰囲気のくせに、少し踏み込めば氷点下みたいな冷たさ。

笑顔の裏で、流せるのわけのない日常。

触れて分かる、傷だらけの体。


(全部、上手く隠して。扉の奥で触れさせない…)


「……むかつく」



◇◇◇◇◇◇◇◇



「行ってくるね」

「ん、気をつけてね」

「ありがと」


玄関が締まり切るまで、ねるは私に手を振っていた。
そんな姿に体の奥がむず痒くなる。

かわいいなぁ。

にやける頬をマスクの下に隠して車に乗る。


「……昨日むかつくって、私何かしたのかなぁ」


朝は、怒ってる風でもなかったけど。


「………昨日の下手とかだったら悲しい…」


何だか悲しくなってきて、車内の音量を上げて好きな曲を聴きながら職場に向かった。










「理佐、おはよう」

「おはよう。どうしたの?こんな時間からパソコン開いてるなんて」

「……ちょっと聞きたいことあるんだけど、いい?」

「……いいよ」


鋭い視線。硬い口調。
犯人を追う時の由依の姿に、私は苦笑いを零しながら素直に承諾を返した。



「理佐、愛佳から聞いたけど、自分の立場分かってんの?」

「ちゃんと最初から話してよ、そんな突拍子もなく話されたって答えられない」


由依といる部屋はもちろん誰もいないけれど、ドアを挟めば廊下は誰がいるかわからない。
気配を消すようなやつがいたっておかしくない。

憶測や下手な合成なんてごめんだ。


「由依のことは信用も信頼もしてる。背中を任せるなら由依しかいないくらいにね」

「……私もそうだよ。だから、こんなことしてるのは黙ってられない」

「……"彼女"は、まだ何もしていないよ」

「調べればすぐわかる。証拠は揃ってる。あとは本人が捉えられれば終わりだよ」

「由依」

「なんの情なわけ?」

「……」


……彼女は何もしていない。
それは私の前ではって話。
由依の言う通り、すべて、本人が捉えられれば終わる。

終わってしまう。


「……この感情が、ただの情なら、切り捨てられたかもしれない」

「………」


半年前、彼女に声を掛け
手を引いたのは、偶然だった。

女の子が、路頭で膝を抱えて座っているのを、刑事の私は見過ごせる訳もなく。

顔を上げた少女が、私たちの追う存在だとすぐ気づいたけれど
なぜか、手を引いた先は自宅だった。


「総監が黙っていないよ」

「あの人は私に興味なんてない。あったらここにはいられない」

「それでも、親でしょ。気づかれたら理佐自身ただじゃすまない」

「分かってる、」


だから。

まだ、何もしていない彼女だけに縋ってる。


「何かするような素振りがあれば、逃がさない」

「……長引けば長引くほど、辛いよ」

「……大丈夫だよ」


心を、硬く閉めて。
開いてしまったなら、心さえ切り捨てる。

そんなことは─


「──慣れてるから」

「………」




◇◇◇◇◇◇◇◇



「長濱さん」

「、はい」

「今日分は終わったので今日は上がりで大丈夫です。お疲れ様でした」

「ありがとうございます。お疲れ様でした」


仕事しないと怪しまれると思って始めた仕事は、個人で組み立てをする工場で。
その日の定数やノルマが終われば帰れる。
隔離されたような締め切った空間は、不特定多数と関わらずに済んで楽。


「………理佐は帰り何時だろ」


まるで彼女みたいなセリフ。
そんな日常があるなんて知らなかった。

たとえ長続きしない日常だとしても、私はままごとみたいな今の日々が、世間で言う『幸せ』なのかもしれないと耽ってしまう。


「……りさ、」


渡邉理佐。
半年前、私を拾ってくれた人。

聞きなれないお店の副店長だと言った彼女が、裏社会の犯罪者を追う刑事だと認識していたのは
出会う時よりずっと前。

要注意人物は頭に叩き込んだ。
じゃなきゃ、裏社会なんかで生きていけない。

渡邉理佐は、総監を親に持つ所謂第2世代で、既に長男がいる家庭内で生まれた長女は、女という理由で大した扱いをされずに育った。
私の仕事の対象にもならなかった彼女の背景は分からないけれど、刑事に成り上がり、少人数の属する部署の一員となっている。

理佐に出会ったのは、下手を起こして裏社会から追われた先だった。


目の前に現れた、渡邉理佐という存在は
私にとって大した意味はなかった。
けれど、その人に差し出された手を取った時

この人に触れられたなら──そう、思ったんだ。







「由依、これは賭けだと思ってるんだ」

「え?」



◇◇◇◇◇


「これは、賭け……」


帰り道、ビルの隙間から日が沈む。







「………私が、生まれ変わるための」





◇◇◇◇◇◇◇◇



───私が、私として生きられる(存在できる)かどうか──




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