緑⊿の短編系




「あの、待っとる人おるけん、離してください」

「おねえさん、それ方言?どこのひと?」

「…、」


その日は連日続いた残業にくたびれていて、普段は避けて通る近道を歩いた。
こうならなかったらいい。そんな期待は裏切られて、お酒に浮かれるその人たちの標的となってしまう。
常識も日本語も通じないその人たちは、意味わからないくらい陽気で、悪びれることなくねるの腕を掴んだ。

怖い。


「待ってる人ってだれ?彼氏?」

「……っ、」

「迎えきてもらってよ、それまでどっか行こ?」


待ってる人なんていない。
暗くて、寂しい、単身者用のアパートが待ってるだけ。


どうしよう、


そう思ったとき、私の後ろから長い腕が伸びてきて
ねるより背の高いその人は、相手の胸ぐらを掴むと、そのまま相手を殴った。


「………!?」

「……私の連れなんだけど、」



非現実的な展開だった。
少なくともねるの世界で、目の前で人が殴られるとか怒号が飛び交うとか、そういうのは全くと言っていいほどになかったから。


────……



「………平気?」

「──っ、ぁ 、はい」


酷く優しい声は、もしかしたら目の前の悲惨な現実から生まれた錯覚だったかもしれない。その人も決して無傷ではなかったけれど、その場に立っているのはねると、その人の2人だけだった。

酔っ払いとの揉み合いによって崩された服と、少しだるそうな立ち姿
乱れた髪。
その隙間から見える、強くて、優しい瞳。


「大丈夫、ですか…?」

「……あぁ、こいつらならほっとけばそのうち目覚めるよ。狸寝入りしてる奴もいるし、そいつがどうにかするでしょ」

「……そう、。あの、あなたは、?」

「………」

「………え?」

「…、」

「えっ!?」


冷えた空気に、澄んだ時間が過ぎる。
切れた口も、少し腫れた頬も、何故か恐怖にはならなくて、彼女を綺麗に映す材料と化す。
彼女はゆっくりと近寄ってきて、身長差によってねるはその人を見上げる形になる。

そしてゆっくり身体を預けるようにしてねるの肩に頭を置く。
心臓が苦しくなるのと同時に息が詰まる。けれど、その空気を壊すように寄りかかった体はずるずると落ちていってしまう。


「っ、きゅ、救急車…!」

「へいき、」

「でも!」

「お腹空いただけ……」

「………え?」


咄嗟に彼女を落とさないように腕を脇に入れる。彼女に合わせて体を折ると膝を着いた。お腹が空いて倒れるとか、漫画の中の世界だと思った。
目の前の彼女を見て、本当にこんなことあるんだって変な感覚に陥ったことを覚えている。








ふらつく彼女の手を引いて、自宅に着く。
こたつに電源を入れて座らせたら、冷蔵庫で息を潜めていた食材たちを引っ張り出す。
傷んでなくてよかった、買っといてよかった、そんなことを脳内で繰り返しながら、彼女へお礼の食事を作りあげた。

ちらりと彼女へと視線を向ければ、背を丸めて手をこたつに突っ込んでいてなんだか可愛いと思ってしまう。
さっきまでの強い姿とは違う。

そんな姿に、忘れていたはずの心が熱を取り戻して、むず痒くなった。




「ご馳走様、美味しかった」

「良かった」


ねるが彼女の呼び方に戸惑っていたら『理佐でいいよ』と言ってくれた。そんな会話を皮切りに、夕食は理佐とねるのお腹に食べ尽くされていった。




「……さっきも言ったけどお金ないよ?」

「よかよ。助けてくれたけん」

「…騙されやすいって言われない?」

「えへへ、言われる」

「……それでこんなことするなんて、優しいんだね。甘いって言うのかな」

「でも、理佐が助けてくれたんは本当ばい」

「………ねる目当てだったって言ったら?」

「え?」


理佐の手が、重なるように触れる。
そうして身を寄せられて、ドラマみたいに耳元へと理佐の声が近づく。


「ねるのことも、食べたい、とか」

「っ!!」


全身がビリビリとして、びくっと跳ねるのが我慢できない。
玩具で遊ぶみたいに、小さく囁いたり、短く息をかけられる
理佐の肩口を掴むけれど、それは理佐を押し返しているのか掴んでいるのか分からない。


「ねるって名前、可愛いよね。ねるねるねるねみたい」

「り、さ、!?」

「ねるの肌も、甘そう」

「ん!っ!」

「………」

「…っ、」













「なんてね」

「─!?」

「ほんと騙されやすいね。気をつけないと犯されるよ」

「っ余計なお世話ったい!」

「あはは」


パッと離れて、さっきまでの距離に戻った理佐は笑っていて
それは本当に子どもみたいな笑顔で、ねるは恥ずかしさに体が一気に熱くなる。
心の中は邪な欲求が支配を始めていて、必死に理性を引き寄せた。


「……ほんとありがとう。死んでたかもしれない」

「……大袈裟」

「そんなことない」


理佐はそう言って微笑むと、立ち上がってコートを羽織る。
本当に帰ってしまうんだ。そう思ったら、急に焦りが込み上げた。



「理佐、」

「うん?」

「死ぬかもって思う前に、ねるのとこ来て」

「………、助けた相手だからってそこまで仲良くする必要ある?」


少しだけ、理佐の冷たいところに触れた気がした。

でも。……誰でも家にあげるわけじゃない。
理佐は無傷じゃなかった。痛い思いをしてまで、ねるを守ってくれた。
「平気?」って聞いた声ほどに優しい声を、ねるは今まで聞いたことがない。

たくさんの人が見て見ぬふりをする
誰も助けてくれない
でも、そんなのは当たり前で、誰だって傷を負って、危険を背負ってまで
他人を助けることなんてしない。
静かに流すことが、1番穏やかにことが終わることだってある。

事件が起きてから周りの人は助けなかったとか、逃げただけだとか、そういう批判があったって
その時のその場の恐怖と、矛先が自分に向いた時の不安は、本人にしか分からないんだ。

だから。


「理佐は……昔から優しいけん」

「………覚えてたんだ」


久しぶりに呼んだ名前。本人に向かって口にしたことはなかったかもしれない。あったとしても覚えてないくらい幼い時だと思う。
それくらい、理佐との接点はなくて。それでもねるは、理佐を追いかけていた。


「……片思いの相手やけん」

「え?」

「………ねぇ、理佐」



──ねる目当てだったって言ったら?

理佐の言葉も嘘じゃなかったらいい。
そんな絵空事を描いてしまう。






「ご飯、何がよか?」





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