Wolf blood

指先は、100以上の神経が集まっていて、
僅かな刺激でさえ感じ取る。
考えたこともなかったそのことに自覚したとき、それはまるで脳を直接揺さぶられるような感覚だった。



「……ねる、」

「………」



あの日、別れを告げた存在に触れる。


震える指先に触れた、ねるの頬は

あまりに、柔らかくて、あたたかくて。
あの時と同じで頬は濡れているけれど、
その瞳は真っ直ぐに私を見つめて。

少しだけ、眉を潜めて、悲しげに下がって。でも、瞳の強さは変わらない。

への字口にならないように、必死に堪える顔は
愛しくなる。


指先で触れることが精一杯で、何かが溢れそうになってその指先すら離れようと手を引く。
けれど、そんなことは許さないというかのように
ねるは私の手を掴んで、頬を押し付ける。

手のひら全体に、ねるが伝わってきて
体が強ばって、脳が痺れるようだった。

逃げるように足を引く。
けれど、やはりねるはまたその分を詰めてくる。


「……っ、ね、る、!待って…ッ」

「いや!」


ぐっと掴まれた手は、離れることを許さなくて。ねるの瞳は、揺るがない。


「ねるはここにおるよ。どこいくと?」

「………っ、」


芯の強い声が投げかけられて、喉が詰まる。


ねるは、ここにいる。

目の前に。
私の右手を包むのは、ねる、だけだ。


「………」


触れる熱も、柔らかさも、
視界も、嗅覚も、聴覚も、感覚全て。思考までが、目の前のねるに、埋められていく。


「理佐、」

「!」

「ねるは、理佐が好き。もう、離れたくなんかない。忘れたくない…!」

「……っ、」


記憶が消されても、ねるは記憶のあるときと同じことを言う。
その想いは、目を背けていいわけが無いと誰かに責められている気さえした。

分かってたつもりが、目の前にすると痛感する。分かってなんかない。覚悟もない。分かってるフリでしかない。
ねると対峙して向き合うと、
いつも同じことの繰り返しで嫌になる。

こんな自分は、いつか愛想つかされる。
そんな未来が、怖い。

怯えて俯くことが、安全だと思い込んでいた。


「ねるはまだ全部は思い出しとらん」

「………うん、」

「ねるに記憶返して欲しか。ちゃんと、ねると向き合ってよ」

「………、」


君に……

君から逃げた事、傷つけたこと、 否定したこと、……。
それは、君が思い出すことを望んだとしても君に返していいものなんだろうか。
自分でしたことなのに、いや、自分でしてきたことだからこそ、迷ってしまう。


でも、ねるは。いつだってそんな私を見つけて、
見つめて、抱きしめてくれた。


「……でも、」

「なん?」

「……ねる、怒るよ。きっと、」

「……そんなんどうでもよかばい!」

「そ、そうじゃなくて」


1歩を踏み出されて、思わず1歩下がってしまう。
そんな私に、ねるは視線を足元に下ろして、悲しげにその縮まらない距離を見つめていた。


「ごめん、……でもきっと、ねるを傷つけるし…悲しませる…」

「…なら、都合のよかことだけ覚えてればいいと?」

「……」

「そんなん、違うやん」


わかってる、。
いや、分かってない。

そんな矛盾だらけの私を見透かすように、ねるの視線が上がって
黒目が私を射抜く。
心臓が、脳が、体が、停止したかと思った。


「ねるは、やな事も、悲しかことも、怒ったことやって、覚えてたい。りっちゃんと、一緒の記憶でいたかよ」


自分でもわかるくらいに、瞳が揺れる。
かっこ悪いのにそのあまりにもわかりやすい動揺に、ねるは顔をやわらげてくれた。


「理佐が自分の嫌いなとこ、ねるは愛しと
るけん」

「ーー………、」

「ね?りっちゃん」


ねるの手が、伸びてきて。
低い位置から見上げる、あったかい目とともに
頭が撫でられる。


「……っ、」


ねるの手が、優しく頭を撫でる。
なんで、たったそれだけの事に泣きそうになるんだろう。

ねるの手はただ、頭を撫でるだけなのに
それはまるで固く閉じた感情の蓋を溶かしてくるようで、それを合図に鼻がツンと痛くなって、喉が引き攣る。
やだ、と拒否する思考とは裏腹に、溢れ出た涙は
瞬きと共に、こぼれ落ちて頬を濡らしてしまう。


「泣き虫やね、りっちゃん」

「……ちがう、」

「ふふ、」


頭を撫でていた手が降りてきて

そうしてまた、ゆっくり撫でるように私の頬に伝う涙に触れる。


「理佐、」

「……」


その先に言葉がなくても
ねるが何を言いたいのか
私に訴えたいのか、伝わってくる。

それはきっと勘違いではなくて
そんなことで逃げたり目を背けたり、耳を塞ぐことなんて、出来ない。


ねるが、好きだと言ってくれる。
私は、ねるを目の前にすると感情が溢れて
君の望む答えと反対を目指してしまう。

それでどれだけ傷つけても、ねるは。
肩を叩いて、手を引いて、名前を、呼んでくれるんだ…。





ねるが、私の名前を呼ぶ。
あの時と同じ、熱で。柔らかさで。


どんなに、傷つけても、それはずっと変わらない。

無条件の愛は、あまりにあやふやで、怖い。
何をしなくても与えられるけれど
何をしてもどこかに消えてしまいそうで、怖いんだ。




でも、


私はやっぱり、ねるが好きで。

君を失う覚悟は、かっこ悪いくらい無くて。
それを取り繕おうと必死になって
すべてを壊してしまう、そんなやつで。



だから。

もしも、この先君を傷つけても、
君が泣いても、

たとえ、離れていくことがあったとしても。



逃げずに、それを背負っていく。

目を背けずに、ちゃんと向き合っていく。


君に、記憶を戻して
その先がどうなったとしても、後悔したとしても、


もう、君から逃げない。ーーーー




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