Wolf blood

「ん?」

少しの騒ぎ声と、慌ただしい雰囲気が愛佳に届く。
書類の手を止めて、探るように耳をすませればねるの声が聞こえた。



「あ、愛佳!」

『志田様、申し訳ありません、!』


声に近づくと、やはりねるがいて愛佳の姿を見つけるなり縋るような声と、慌てた門番の声が降りかかった。
どうやらいつもと違うねるを門番は止めに入って、一悶着起きているらしかった。
門番に『大丈夫、行っていいよ』と声をかけねるの対応を代わる。門番は一礼して本来の待機場所へと戻って行った。


「なにしてんの、ねる」

「りさ!」


一息ついた愛佳はねるの声に喉を塞がれた感覚に陥る。
その声が、その名を呼ぶのを半ば諦めていた。


「愛佳は知っとるんよね?ねるに教えて!」

「………、」


けれど、期待したのとはかけ離れていて
苛立ちすら自覚する。その名を呼ぶ時は、『理佐』の幸せになる入口だとどこか思い込んでいたんだ。


「愛佳?」

「思い出してないの?」

「っ、知らん。覚えとらん。けど大事な人なんは分かる、!」

「……それじゃ、だめだ」

「!」


ねるの目が、悲しげに揺れて
少しだけ息苦しくなる。

ここで、理佐を説明するのは簡単だ。
どういう関係で、どう想い合っていて、どう過ごしてきたか。
どれだけ、涙を流して、添い遂げることを決め

それを、

なぜ。放棄したのか。


「………、」


でも。


「ねる。どんなことでもいい。思い出して。出来るできないじゃない、出来ないなんて当たり前なんだ」

「………」

「当たり前をぶち壊すくらいの想いがなきゃ、あいつに向き合ってくのは無理だよ。バカみたいに拗らせてるからね。だから、これはねるの為でもある。お互い苦しい思いばっかりしてらんないだろ」


ーーでもそんなこと言ったところで、なんの意味にも成り得ない。
形を取り繕えても、芯がなければまた繰り返す。


愛佳の前に立つねるは、黙り込んでしまって悲しくなる。
ねるには、負担が大きいのかもしれない。
そう思うことだって、幾度となくあった。

好きでも一緒に居られないやつはいる。
感情だけじゃ、一緒に歩いてはいけない。



……でも、

それでも。

ねるしか、あいつを幸せにできない。
どうなっても、どんな形ででも、あいつに幸せになって欲しいと思ってしまう。


「……ねる、あいつのこと覚えてなくて仕方がないよ。そういうふうにされたんだ。けど、忘れないで。記憶の隅に欠片は落ちてる。いつかそれが形をなす時がくる。忘れさえ、しなければ」

「………、」


ねるの、高校の頃の記憶は朧気だ。
それはきっと、大人になったほとんどの人が『そんなこともあった』と思い出す程度の記憶かもしれない。

けど、確かに。何かが抜け落ちたような、穴だらけの記憶だ。そこにはきっと誰かがいた。それが抜け落ちて、埋めきれない。
愛佳はそれを『あの人』の欠片だと、言っていることも
『あの人』が誰を示すのかも分かっていた。








「………ねる?来てたの?」


降ってきた声に、2人が顔を上げる。
2人を見下ろす形で、友梨奈が階段を降りてきていた。


ねる「てち!」

愛佳「………」

友梨奈「何だか、慌ただしかったけど」

愛佳「…ねるが使用人突き飛ばしたんだよ」

ねる「え!?」

愛佳「九州男児の娘はやっぱ違うよなー。ビンタとかされた日にゃ私も吹っ飛ぶよ」

友梨奈「………」


友梨奈の視線に、愛佳は何も言わない。
張り詰めた空気は、気のせいなんかでは誤魔化せなかったけれど

友梨奈はそのまま愛佳から視線を外してねるへ話しかけた。


友梨奈「ねる、お茶でも飲んでいきなよ」

ねる「いいの?」

友梨奈「うん」

愛佳「じゃあ私は書類整理残ってるから。飲み物は部屋に持っていくようお願いしとくよ」



そう言って背を向ける愛佳の背を見送って
ねるは友梨奈とともに部屋に上がった。


ねる「いつ来ても変わらんね、てちの部屋」

友梨奈「そんな頻繁に変わる部屋なんてないでしょ」

ねる「いつもきれいって意味よ」

友梨奈「そうなの?別にきれいでもないよ。物が少ないだけ」


友梨奈の部屋は広い。その割に友梨奈を形作る趣味を伺わせるものも趣向を感じされるものもあまりない。


「最低限でいいって思うんだよね。物欲とかあればもっと違うんだろうけど」

「そっか。それがてちらしさなんやね」

「そうかも」


少し寂しい気もするけれど、それが友梨奈らしさを醸し出すのなら
それを寂しいというのは失礼な話だ。

ちゃんと、友梨奈は平手友梨奈をまごうことなく生きている。


「ねぇてっちゃ」

「ねる、桜、見に行きたいんだ来年」

「え?」


ねるの声を遮って、友梨奈が唐突に話を切り出す。ねるは、その話を飲み込みたくて、もしくはどこかで否定したくて。
それを聞き返した。


「高校の時行ったの覚えてる?あの桜、また見に行こうよ」

「……うん、」


高校の時。
桜。
『また』


羅列される文字たちが、何かを作り出しそうで
取りこぼさないように、頭の中で何度も繰り返す。


「元気ないね」

「ぁ、そう、かな?」

「うん、」

「………」


心に引っかかるのは切なさで。
時折泣きそうに悲しくなる。

姿の見せないその存在に、心は摩耗してしまう。


気づかないようにしていたそれは、友梨奈の見透かすような視線に
いとも簡単に見つかってしまう。



「ちょっと、寂しいことが多いけん…元気出んのかも、」

「……いつでも、居ていいよ。ずっといてもいい」

「え?」


友梨奈の言葉に顔を上げると
元から遠くもなかった位置関係に、変化が起きていた。

立ち上がり近づく友梨奈を、座ったままのねるが見上げる。


「ねる。私はねるを守る力があるよ。番にする、一生傍にいる覚悟もある」


すぐ横について、宣言するような、その内容。真っ直ぐすぎる、ひたむきな想いが突き刺さる。痛いくらいの視線が向けられる。


「私は逃げたりしない。ねるの傍にいたい。支えたいし、支えて欲しい。ねるがいれば、私はこれからも前を向ける」


あまりに強すぎて、真っ直ぐ過ぎて

僅かに恐怖が生まれるほど。





「ねる。私が、守ってあげる」

「ーーー……」


ねるが、好きだよ。







力強く引き寄せられて、抱きしめられる。

なのに、包むようなやさしい友梨奈の腕に、何故か涙がこぼれる。
それは今までの寂しさから解放されたからかもしれない。

けど、なにか悪いことをしている罪悪感が足にまとわりついて離れない。









朧気な記憶の中に、この温もりは眠っているひとつで。
いつか、ねるはこの中にいた。甘えて、泣いたことがある。

その時、なんで泣いてたのかは覚えていない。


それは『あの人』の欠片なのか、『そんなこともあった』程度のものなのか判断なんて出来なかった。


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