Wolf blood


「……ただいまぁ」


玄関が音を立てて閉まり、その音を合図にねるは鍵をかけた。

靴を脱いで、カバンを置く。

ふぅ、とため息をついてから自分の行動に笑いとも疑問ともとれる声を漏らす。


「誰もおらんとに、ただいまとかウケる、」


アパートには自分だけだ。なのに、誰かに帰りを知らせるように声を上げてしまう。
独り言というには大きすぎると思った。
それでも、実家で暮らしていたことを思えば抜けない癖のひとつだとも思えた。


「お腹空いたぁ、」


着替えて、夕飯の支度をして、食べる。
お風呂を沸かしている間に食器を洗って、お風呂に入った。
スキンケアをして、休む準備に取り掛かる。


ひとつの動作の度、誰かに話しかけようとする自分がいて
誰もいない空間に、少し、本当に少しだけ違和感と、心臓が締め付けられるような感覚が降りかかる。
喉が詰まる、そんな気さえした。

でも、気がしただけで。

息はできる。
ご飯も食べれる。
寝て、起きて。仕事もこなせている。

日常生活になんの支障もない。



「ーーー………」


ただ。


…………ただ。



「………なんで、こんな悲しいと、、?」



1人で暮らしてきたアパート。
木霊する自分の声。
それがあまりに大きく聞こえて、足りない何かを炙りだそうとする。


息はできる。
けど、苦しくて

ご飯も食べれる。
けど、おいしくなんてない。

寝て、起きて。
ーいつも、誰かを探していて

仕事もこなせている。
ーー合間に見るスマホは、つまらない知らせばかりで。期待している何かには出会えずため息が漏れる。

日常生活に支障はない。
ーーーけれど、
気のせいでは、誤魔化せない。


何かが、足りない。

物、じゃない。



「………だれかが、おらん、とか?」


思い当たるのは1人だけで。
だけど、ねるにはその人を知らない。


「わたなべりさ、さん。誰も知らんしなぁ」


知っていたはずの小池も、次の日には『だれ?おったかなぁ、そんな人』と確認すら取れなかった。

小林もどこにいるのか分からない。
ただ、小林の『殺してやったらいい。その罪で罰せられるべき』という言葉が思い出されて、少し怖くなってしまう。

自分は、その人を殺したいと思うほど憎んでいたのだろうか。それをもし忘れているのなら、そんなこと思い出さなくていいと思う。
その方がきっと、平和だ。

そう思って、でもこの切なさはそんな人を思ってのものなのか、
そんなことを考えて、答えのないまま眠りにつく。

その瞬間、いつも腕は誰かを求めて伸びて
何も無い布団に触れる。
ねるはまた、寂しさに埋もれた。











「おじゃましまーす」

「ねる、いらっしゃい」



1人でいると、いつも違和感と切なさに惑わされる。それが嫌で、ねるは休みや空いた時間は平手の元へ来ていた。
愛佳もいるけれどふたりとも笑顔で迎え入れてくれるために甘えだと分かりながら通ってしまう。

それでも、いつまでもここにいるのは違うと分かっていた。


『平手様…またこのような人間を』

「……」


平手に訪れていた『客』が、ねるを訝しげに見つめる。
邪険にする言葉に、体に力が篭もるのを自覚しながら平手は口を噤んだ。

守るために、耐えなければならないことも多い。 耐えることしか、自分の立場を無言で立ち続けることでしか、守れないものもある。


ねる「あ、えと……」

愛佳「口を慎んでくださーい。友梨奈が自宅に誰を呼ぼうと招こうと関係ないでしょう。あなた方の方が気分害するので早くお帰りになってください」

『……なんと失礼な』

愛佳「私の失礼を責める前にご自分を見つめ直す必要があるんじゃないですか?とにかく、用が済んだのならお帰りください」

『…………、』


来客は愛佳とねるの横を抜け、平手邸を後にする。
視線は痛いほど刺さっていたけれど、客がドアを閉めた途端に空気は軽くなった。



友梨奈「…ぴっぴ、ありがとう」

愛佳「小言の減らない奴らはやだねぇ。ねるが羨ましいんだろ、平手と仲良くなれるやつなんて限られてるからな」

ねる「…ごめん、ねるが来とるから、」

愛佳「気にしないでいいんだよ。あいつらの凝り固まった純血主義が悪いんだから」


居場所なさげにいるねるの背中を愛佳が叩く。少し痛かったけれど、おかげで背筋を伸ばして立つことが出来た。

ふたりに案内されて、平手の部屋に通される。


愛佳が飲み物を準備する間、平手はまた机に向かい始めた。


ねる「てちはまた書類処理?肩こりそうやね」

友梨奈「ぴっぴが終わらせる度持ってくるんだよ」

愛佳「それでも振るいには掛けてんだって。しかたないだろー」


ねるは愛佳と喋りながら、平手が書類処理が終わるのを待つ。
しばらくして平手が愛佳を呼んだのを合図に
ねるは疑問を投げた。


「……そう言えば、てっちゃんはねるの血いつ飲むん?」

「っー!??」

「ちょっ!平手!汚い!!」


ねるの言葉に、平手がむせ込む。
タイミングが悪く、一息つくその瞬間、平手はコーヒーを口に入れていてそれは書類を受けにそばにいた愛佳にかかる。
幸いか、書類は無事だったけれど
愛佳は服に付着したコーヒーに『染みになる…』と肩を落としていた。
しかしそんなものは、ねると平手には相手にされなかった。


「っ、げほ、…っねる?何言ってんの?」

「吸血鬼やろ?血飲まんで平気なんかなって…ねる変なこと言ったばい?」

「……えっ、と……、ねる?」

「ん?」

「私、ねるの血飲んだこと、ある、ん……だよね?」

「何言っとるの?何回も飲んでるとー。この間は確か……、?」

「……ねる?」

「んん、ちょっと…いつやろ、桜…かな、?あれ?てち、その後ってどこかでせんかったっけ?」

「………、」


どこかあやふやな記憶。それは、その人との最後の記憶。
消しきれていない、置き換えすらしなかった、それはきっと迷いの結果だ。


「今は、大丈夫。必要な時は言うからさその時はお願いね」

「うん」


ティーカップが空になり、ねるは時間を確認すると帰宅を示した。真祖と接点のある人間が吸血鬼に狙われる可能性はゼロじゃない。特に夜は自制の効かない輩も出てくる。
1人で平気と主張するねるを自宅まで送り届けて、平手と愛佳の2人は夜道を戻っていた。


愛佳「いつからねるは平手の番になったんだろーな」

友梨奈「…知らないよ。でも、ねるの中で『番』の認識はないんだ。こばが言ってた」

愛佳「こじらせ感が滲み出てるなー。今までは平手がねるの血を飲んでて、狼とのやり取りも来たのは平手と私。でも、番でもなんでもない」


ねるを委ねることは出来ても、ねるを渡すことは出来ない。

血を渡しても、その心を開け渡すことのないように……。


それはまるで、影を捕まえられたような。
呪いとも言える、そんな、執着。


愛佳「……そんななら、きっちり捕まえて誰にも渡さなきゃいいのに、」

友梨奈「…………。」


呆れたような、愛佳の言葉がこぼれる。
けれど、それはどこか優しさが込められていた。


それとは反対に、平手は暗い道を冷たく見つめる。

…ねるとは、幼なじみとして接してきた。吸血鬼であり、その真祖として腫れ物に触れるような扱いの中で
そういったしがらみのない存在はねるが初めてで、唯一だった。

大事に、大切に。そんな存在なのは今でも変わらない。

ここ最近、ほぼ毎日訪れるねるは、平手の中で大きい出来事だ。でもそれが、穴埋めである事はわかっている。

ねるを番にしようとしたのも、本気だった。
ねるとの別れをわかっていて、それでも自分ではないその人と結ばれる計らいをしたのも、本気だった。

……自分がどんな思いをしようと、その人とねるのために。



それを。

自分ではないその人は、


理佐は。



どう思って、こんな事態を引き起こしているんだろう。


綺麗に消えもせず
自分から消えたくせに、僅かな染みを残して

『ねるは自分の物だった』『本当の意味で渡しはしない』と誇示しているように思えてしまう。

それが想いの大きさで、記憶から消えても心に残るというのなら
理佐がねるの前から消えるなんて許されない行為だったと断言出来る。


友梨奈「………、桜、ね」

愛佳「え?」

友梨奈「…ねえ、ぴっぴ。春になったら花見に行こうよ。ねると、土生ちゃん達も誘ってさ」

愛佳「……それって」

友梨奈「自分の選択がどれだけ間違ってたのかなんて本気で後悔しなきゃきっと分からないんだ」

愛佳「……、」


少し俯いた顔。前髪から僅かに覗く瞳。

愛佳からは平手の横顔しか見れなかったけれど
ねるに向けていた優しさなどなく、むしろどこか怒りさえ灯っていた。


ーーー宝物を無防備に置いていくのなら、それは奪われる覚悟はあるってことだろ?









◇◇◇◇◇◇◇◇


それから数日。

ねるはまだ、切なさの残る朝を迎えていた。


「ーーー……朝、」


カーテンから僅かに差し込む朝日。
今日の勤務を再確認して、枕に顔を埋める。
今日は休みだ。まだゆっくりしていられる。

少しだけうつらうつらと夢現を過ごして、無意識に、腕を伸ばした。





「………んぅーー。、おはよー、りっ、、……!?」





口から出た声に、確実に脳が疑問を起こす。

『何か』じゃない。『誰か』。

自分は確かに今、誰かを呼ぼうとした。


「……っ、」


一気に覚醒する頭。
目を見開いて、聞いた声を必死に脳内で繰り返した。

ねるは布団をそのままに髪も整えず、バタバタと部屋を漁り始める。

この、1人で住むアパートには誰かがいた。それを、忘れている。

苦しいくらいに胸が締め付けられる。
泣きそうになる感覚は、気のせいなんかじゃない。


「………っ、『りさ』さん、なん!?」



きっとそれは、殺したいほど憎いその人かもしれない。
でももう、こんな切ない日々は嫌だった。





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