Wolf blood

まだ、学生の講義時間。
人気のないことを確認して、久しぶりにそのドアに手をかける。

開けた先では、懐かしいその人が自分の来訪をわかっていたかのように笑顔を見せてくれた。


「……いらっしゃい。久しぶりだね、理佐」

「……ここはなにも変わんないね」

「そんな事ないよ。少しずつ、ちょっとずつ変わってる。気づかないだけだよ」


座って。そう言われて、目の前の椅子に腰を下ろす。
目の前の白衣を纏った姿は、あの頃の記憶を鮮明に思い出させて理佐は少しだけ苦しくなった。


「何か飲む?お茶くらいなら内緒で出せるよ」

「……ううん、いらない」

「ちゃんと食べてるの?色々聞いてはいるけど、体は大事にしないと。先は長いんだから」


理佐の言葉を流して、カチャカチャと食器の動く音が響く。
向けられた背中は変わらない。それも、変わっているというのだろうか。確かに自分も、ここひと月も経たない間に大きな変化があった。
変わらないものなんて、ないのかもしれない。

『友香、』と、初めて緊張してその名前を呼んだ。


「………私が何しに来たかわかってるんでしょ?」

「、うん。なんとなくはね」


菅井は理佐の前にマグカップを置く。
甘い香りがして中身がミルクティーだとわかった。
目の前のそれに少しだけ体が解れる気がして、自分が思っている以上に体は疲労し緊張していたのだと知る。
それを気にしている間に、菅井も椅子に座り自分用のマグカップに口をつける。

コト、とテーブルにそれが戻ると菅井は理佐に返事をするように言葉をこぼし始めた。


「…考えて決めたことを覆すことなんてそうそうできるものじゃないから。それに、理佐が考えもなく覚悟もなくこんなことするなんて誰も思ってない」

「………」

「それはみんな分かってる。だから止めたり出来なかった。止めようと思えばきっと、茜だって土生ちゃんだって止めれたよ」



無意識にマグカップを見つめていた視線をあげる。
菅井の視線が正面から刺さっていて、心臓が痛くなった。


菅井に向けられるその瞳には見覚えがある。

何度もぶつかってきた。
小池も、土生も。織田も鈴本も。
茜は少しだけ怒っていたけれど

まっすぐに刺さる瞳。
自分のことを、正面から映す瞳。

でも、責めるものなんかじゃない。

強くて、優しくて。
それは、きっと想いの証だった。



「……でもね、長い命の中である程度の線引きは必要だし。干渉することで壊れることもある。だから、みんな我慢したんだと思うの」


………ねるは、どうだっただろう。
自分の記憶も消してしまったのかと思うほど、覚えていない。


「理佐は、これから後悔しない?」


菅井の問いかけに、心の中で既に質問を待っていたかのように答えが浮かび上がる。


「………後悔、するよ」


なのに、それをする。
酷い矛盾だと、笑いさえ零れそうだった。


「…今、してることは最低だし、自己中心的な考えだって思ってる。これから先いつか、後悔もする。大事な人たちだった、から」


ふと、狼の1件がなければこんなことにならかったかもしれないのに、と考えて、隣にいたはずのねるを想う。

それでも、理佐はその思考を即座に否定する。

起きたことも、今の現状も
自分がもっと強かったなら……今となりには、ねるがいたはずで
それは誰かのせいになんて出来やしない。


「でもきっと。結局、自分が傷つきたくないだけなんだ」


何度も考えた。
繰り返したはずだった。もう答えは決まっているのに。なのに、まだありもしない理想に縋りつこうとしてる。

ねるにも、いつか言われた。


ーーー『理佐は自分が傷つきたくないだけやん』


涙ながらに訴えたねるを、もう泣かさないと、
迷わないと、決めたのに。

自分が、何もしなくても、ねると平穏に過ごせていた現実はもう無い。


君を独占するほどの自信も
君を守りきる力も
君を愛し、愛し続ける 強さも、ない。

自分を、肯定することが出来ない。


君の隣にいる、資格なんてないんだ。




「……戦争するって、言ったんだってね」

「!」


埋め尽くされた思考に、菅井の言葉が飛び込んでくる。
あの時…ねるを追っていたとき、
無我夢中で、周りなんて構っていられなかった。

あまりに唐突な内容に、思考は飛散して体が僅かに固くなった。


「傷だらけの体、見たよ。よく立っていられたね」

「………っ、」

「それだけ、長濱さんのこと大事だったんだね」


鈴本が菅井を呼んでいたことを思い出す。本当にこの人には世話を……迷惑をかけてばかりだ。

けれど、菅井の声も言葉も、理佐の想像するものとは正反対で。その優しい声に、喉が痛みを知らせてくる。相槌すら満足に出来なかった。


「…自分が傷ついても、たとえ死んでも。長濱さんを助けたかったんでしょう?」


いつの間にか握りしめていた手を、自覚する。

この手で、狼を追い、織田を捕まえた。鈴本に攻撃の刃も向けた。
由依を殴りつけ、そして、

君に、触れたんだ。


「…………、っ」


君は、私の唯一で。
私だけが、君の唯一だと、信じていた。

……思い上がりもいいところだ。

私なんかに、そんな価値はないのに。


「……理佐、」


気づけば涙が溢れていて。
でも、そんなもので世界は巻戻らない。

否。

巻き戻って欲しくなんかない。


君が私の唯一なのは変わらない。

その事実だけがあればいい。



「私は、ねるがいた、それだけで…もういい……」


私を受け入れてくれた、
肯定してくれた、

私を私として、愛してくれた。


君のそれだけで、これから先、何も欲する事がないくらいに満たされているんだ。



「長濱さんは、これからどうするの?」

「……、」

「理佐を愛した、長濱さんはこれからどうしていくのかな」

「…ねるには、…ねるの人生を送って欲しい。」


自分勝手な理想
都合のいい願望、


「私なんかに囚われないで、まだ人間だし……人としての生活にもまだ戻れるから」


同じことを、だいぶ前にも菅井に漏らしていたことを思い出す。
あの時は、思い出しても震えるくらい、ねるは感情を顕にしてくれた。


「……私が、あの人と人間のまま添い遂げたのはそうやって逃げるためじゃないよ」

「ーーー、」


菅井の言葉は。どこか怒っているようにも感じられた。
それくらい、芯が強い言葉だった。


「理佐。吸血鬼はどうあっても搾取しなきゃ生きていけない。奪う側の存在であることは変えられない。けど、それをさせないでくれる、与えて、愛情と一緒に私たちに注いでくれる」


菅井は両手でマグカップを包む。
注がれたそれは、まだ口に含んでいない理佐の体を解れしてくれた。


「それは、とてもすごいことなんじゃないかな」


ゆっくりと、菅井と理佐の視線が重なる。
それでも、ふたりがその脳裏に浮かばせているのは、己の唯1人。その人だけだった。


「私たちは、その人たちに何が出来るんだろうね」

「………」

「理佐は言ったよね。短い人生を奪ってまでどうして一緒にいられたのかって。あの時は、長濱さんと生きること悩んでた」


あの後はびっくりしたよ、
そう言って菅井は表情を崩す。理佐もその言葉と表情に、同じことを思い出していたことに気づいて菅井に引っ張られるように笑みが零れた。

ねるにあんな力があると思わなかったし、吹っ飛んだ自分も滑稽だった。
一応吸血鬼なのに、人間に吹き飛ばされるなんて。

でも、きっとそれだけ想われていた……。


「今の私が答えだよ、としか言えないけれど、あの人は一生を捧げてくれた。だからってわけじゃないけど、私もあの人に一生を捧げたいの。他人からしたらそれはただの鎖でしか無いかもしれない。でももう居ないあの人との、たった一つ残った楔みたいなもの。私の番はあの人だけだから」


それが、全てではない。
その人が生かしてくれたその身を、枯渇すると知りながらその道を選ぶのは間違ってると言う人もいるだろう。

でもきっと、それを
理解し共感する人も確かにいるはずだ。


「それが、私たちの形で、在り方だった」


それは、きっと
その形に共感するだけじゃなくて。

その想いが、互いの価値観と在り方に惹かれるんだ。
だからーーー

その強さを、求めたかった。




「長濱さんとの間に何があったのか、どういう関係なのか、私には分からない。でも、理佐にとって長濱さんがかけがえのない人なのは知ってる。私は、これから先も長濱さんと一緒にいてもらいたいと思ってる」


別れを、知っているから。
もう二度と、会えなくなる現実を生きているから。

それでも、『この世界で生きていくしかない』から。


「想いは、一方通行じゃ成り立たないよ。想いあってると思っていても独りよがりなこともある。それじゃ一緒にはいられない。片方だけが繋ぎ止めたって苦しいだけ」


ゆっくりと流れる、その時間は
制服を身にまとっていたあの頃とはやはり変わっていて

学生の帰る空気が周囲を囲む。
この時間に再び混ざることがあったとしても、あの頃と同じなんてことは無い。

日々変わる日常。
気づかないだけで、微々たるものかもしれないけれど……。

きっと、ねるとの日々も、そうだった。
何かしら変わっていた。
それを、崩さない努力も、その手を離さない強さも思いも、その中で育んで

そうじゃなきゃ……

そうじゃないから、、、

ここに君はいないーーー





「でも、理佐たちは違う。」

「………」


何が、違うって言うのだろう。

ぐるぐると回る思考に、菅井の言いたいことが理佐には分からなかった。
でも、それをはっきりと口にすることはなく。菅井はマグカップを見つめて、ゆっくりと表情を柔らかくした。


「この別れは、まだ早いんじゃないかな」



菅井の想いが言葉に乗せられる。
理佐の覚悟があることも、後悔すると分かっていて選んだ道の重さも暗さも
菅井は考えられるすべてで知ろうとしている。

自らの想いだけじゃない。

相手の想いを、考えを思って、
言葉を贈る。

だから、その言葉は
相手に染み込んでいく。




「……でも、」


君を縛りつけなくない。
私の生きる理由として、そんなもので、つなぎ止めたくない。

ねるには、ねるの人生を送って欲しい。



「………、私はもうすぐ枯渇するよ」

「えっ、!?」


菅井の言葉に、理佐の声が裏返る。
思わず上げた顔に菅井は少しだけ驚いた顔をしたけれどすぐ落ち着いた笑顔になる。


「退職願いも出したし、ここにも何も残らないようにするつもり」

「……っ、友香、そんなの一言も…!」

「ふふ、だって、理佐たちそれどころじゃないんだもん。……でも、たくさん生きた。あの人ともなんの後悔もない」


戸惑う理佐に、菅井はさっきと変わらない笑顔を見せる。窓の外へと視線を向けるその姿は、あまりに穏やかで
それは、理佐とは全く違うものだった。


「色んな人から奪って生きてきたぶん同じところにいけるとは思わないし、あ、でもあの人はもう生まれ変わってたりするのかな、……」


その、強さが欲しい。
選んだ道を振り向かない、迷わない心を、


「でも、後悔するって思ってるんなら、理佐は間違ってるかもしれないよ。可能性の話、だけどね」


でもきっと、そんなのは欲しがるものじゃない。

今の自分じゃ到底手の届かない境地。
自分とは違う視線。

菅井のように在れたなら、
ねるへ、堂々と
『さよなら』と言えただろう。


「私が消える前に、笑ってる顔見せに来てね」



そう言って、菅井は少し背の高い理佐の頭を撫でる。

それが、あまりに優しくて、あたたかくて。
友香に向けられる笑顔が直視できない。


理佐は、溢れる涙を振り落とすように目を閉じた。

手を伸ばして、落ちる雫を感じてまた溢れ出す前に、前を見る。


「………ッ、」



目の前には、優しく微笑む友香が、ゆっくりと目を閉じる。



理佐は、言葉をかけることなく、その手で菅井に触れた…。


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