Wolf blood
「ねるは!りさのこと、忘れん!……りさ、?…!ねえ!りっちゃん!!」
一瞬、見開いたねるの表情。
記憶を疑うその瞬間。
それでも、その時。理佐の名前を呼んだ。
愛称だったのはきっと、名前が薄れて、辛うじて出た言葉だったのだろう。
悲しい顔は、気を失うと同時に感情が抜けていく。意識のないねるの体を抱きしめて、涙に濡れた頬を理佐はゆっくりとなぞった。
「………、」
静寂に潜むのは、自分の呼吸だけだった。
「……っ、」
最後に見るねるの顔が、笑顔じゃなくて苦しいのに
自分のために泣いてくれるそれに、心は満たされている気がして最低だと思った。
「……すき、ねる、、。好きだよ、愛してるんだ……」
これから先、だれも愛すことは無い。
誰の血も、飲み下さない。
君が、初めてで、最後の人。
涙を丁寧に拭く。
自分がなぜ泣いてたか考えないように。
ねるのスマホを取り出して、メッセージやアドレスを消去した。
そうして、そっと。
理佐は、最後に別れのキスをした。
「あ、ねるー」
「みいちゃん!久しぶりとねー」
ねるの元に小池から連絡があったのは、それからすぐのことだった。
高校卒業してからも何かと連絡をとってはいたけれど、こうして会うのは久しぶりで互いの姿に歓喜する。
お互い、似たような環境下にあることもあって隠し事なく話せる相手は貴重だった。
「元気やった?」
「うん。みいちゃんは?」
「元気よー!でもねるは狼との一件があったんやろ?大変やったやん!」
「ねー。びっくりしたとー。でも見張りの人もおらんくなったし、由依さんもひかるちゃんと仲良く暮らしとんかねぇ。」
「ねるは優しいなぁ。土生ちゃんやったら血の海やで」
「血の海!土生ちゃんそんなんせんやろ」
「いやぁ、あんなふわふわしとるけど甘く見ちゃあかんで。怖いんやから」
「えー?」
久しぶりの再会に、ちょっとした事で笑いが飛ぶ。少しおしゃべりになって、笑顔が絶えなかった。
土生も誘ったけれど『せっかくだからふたりで楽しんでおいで』と、今日はお留守番していると小池が話して、ねるは次の約束を取り付けた。
ふと、小池は違和感を悟る。
小池でいえば土生にあたる、ねるのパートナーの話題がひとつもない。
「ねぇ。そういえば、理佐は?ねるのために暴れたんちゃうの?」
「………、?」
「美人はキレたら怖いやろ!理佐落ち着いとるから差が激しそうやなー」
小池の言葉に、ねるの言葉が止まる。
ねるの表情に、小池に不安が過ぎった。
「……ねる?」
「りさって?」
「え?ええ?理佐やろ?」
「………んんー?わからんと。だれ?」
顎に手を当てて視線を上に向ける。
記憶を辿るような仕草に、小池は唾を飲み込んだ。
嫌な予感が、止まらない。
「ボケかましとる?」
ねるが、そんなことするとは思えなかったけれど
それを願うしかなった。そうあって欲しいと願った。
「え?あはは、しないよー。ねるんこと助けに来たのはてちばい。愛佳も途中から来たと」
けれど、ねるからそんな言葉は出てこない。寧ろ、抉られるような酷な記憶を伝えられてしまう。
小池には、どこかのドラマでも見ているかのように思えてしまった。それくらい、理佐を知らないねるは現実的ではなくて、酷く歪で、
受け入れがたかった。
「………、」
「てっちゃんちょっと怖かったけん、人間て弱いなって………みいちゃん?」
「………ぁ、いや。ごめん、なんでもないわ」
「?」
それから、なんとなく顔の固くなった小池にねるは心配する声を上げたけれど、誤魔化すように笑って『なんでもない、気にせんで』と繰り返されるばかりだった。
体調が悪いなら、と少し見当違いなねるの配慮で今回は早めの解散となった。
「本当に送らんでよかと?」
「うん。変な感じにさせてごめんなぁ。またゆっくり会お」
「うん、またね」
手を振ってねると別れる。ねるの姿が見えなくなったのを確認してから、小池は不安に駆られて自宅へ足を早めた。もし、土生さえも忘れてしまっていたらどうしたらいいのか分からなかった。
「土生ちゃん!」
「あ、みいちゃんおかえりー。早かったね。どうだった?ねる、」
「理佐!理佐のこと分かる?」
「理佐?」
玄関に迎えに行くと前のめりに掴みかかってきた小池を土生は抱きとめる。
慌てた様子の小池に、土生は訳が分からなかった。
「どうしたの?分かるもなにも、ねるといたんじゃないの?べったりじゃん」
「っ、ねるが理佐のこと忘れとる!」
「えっ?」
自分の服を掴む小池の手が震えていて、それが現実だと知る。みるみるうちに目が潤んでいって、それだけで土生は苦しくなった。
「何も覚えとらん!助けに来たんもてちやって、そこからもう、怖くて聞けんで…!」
「みいちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて」
「理佐、なにしとんの…!?」
「………」
取り乱した小池を抱えて、土生は腰を下ろす。落ち着かせるように背中をさすった。
「みいちゃん、理佐と連絡取ってみよう?何があったのか聞かなきゃ」
「そぅ、そうやんな…。ごめん、土生ちゃん、」
「ううん、心配だね」
土生の声と温もりに、小池は少しずつ落ち着きを取り戻す。まだ呼吸も手も震えるけれど、土生がいてくれるだけで小池の心はゆっくりと安らいだ。
ーーー『』
ふたりに、予期しない音がして視線は1ヶ所に向かう。
「!」
「……不用心だね。鍵は閉めなきゃダメだよ」
音の正体は玄関の開けられる音。小池は慌てていたせいで鍵を閉めずにいた玄関を開けたのは、その人だった。
「理佐っ!?あんたねるに何してん!」
「……」
「…っ、せっかく一緒になったんに、なんでこんなことになってんの…!?」
理佐は丁寧に玄関を閉める。
その動作が、あまりに呑気に見えて小池は苛立ってしまう。
「美波、声大きいよ。迷惑になる…」
「そんなんどうでもええ!」
自分の感情が高ぶっているのが分かる。
処理しきれずに、理佐を傷つけていることも分かっている。
でも、今日会ったねるは
自分の知らないねるだった。
小池「…理佐を知らんねるなんか、うちは嫌や!記憶戻しいや!」
土生「みいちゃん、落ち着いて」
小池「うちは、土生ちゃんのこと忘れるなんて、絶対嫌……ねるやって同じや、」
理佐「……」
小池「ねぇ!理佐……!」
近づきその手を伸ばそうとした小池に、理佐はなんの答えもなく手を当てた。
小池がそれに目を見開いた瞬間、
その目はゆっくりと閉じていく。
「ーーー………、」
「みいちゃん!?」
ふっ、と小池から力が抜けて、離れたはずの土生の腕に落ちるように戻ってくる。
小池が気を失っているだけなのを確認して視線を上げればそこには理佐が哀しげに立ち尽くしていた。
「っ、理佐…?」
「……ごめん。ねるに思い出させるわけにいかないんだ」
「みいちゃんの記憶からも、消したの、?」
「………。迷惑かけて、ごめん」
「私からも、消すの?」
「………うん」
小池を抱く腕に力が入る。それでも、あまりに哀しそうな理佐に、喉まででかかった否定の言葉を出し切ることは出来なかった。
吸血鬼としても、人間を番にした者としても、計り知れないものがきっとある。
「…理佐が選んだ道をダメなんて言えないけどさ、理由、教えてくれないかな」
「……、ねるが、由依に血をあげたんだ」
「………うん、」
「奪われたんじゃなく自分からあげた。信じたくなかったけど、事実だった。……でも、それが裏切りだとは思わないよ」
「…………」
あれから、何度も考えた。
なんで、ねるを見つけたその時
ねるを抱きしめられなかったんだろうって。
ねるを見つけた瞬間、ねるの手が由依の背中に回ってて
嫉妬に狂ってたんだ。
血を、あげて。
ねるの血を孕んだその身を許せなかった。
そこからは、雪崩のように思考が崩れて。
自分を保つことに必死だった。
自分の唯一だったねるが、そうじゃなくなって。
でも、そんなのは形だけだ。だから気持ちがあればいい。ねるは唯一じゃなくなったけど、私にはねるが唯一なのだから。
そうやって、必死に、涙を堪えて、自分を保たせていた。
ねるは私を、好きだって言ってくれて。それは自分の中ですごく大きなことだったから。
でも。
気づいたんだ。
ねるを、生きる理由にしちゃいけない。
ねるが、私じゃないその人を選んだ時、私はねるが泣き叫ぼうと、例えねるが傷ついてでも
ねるを自分の元に置こうとする。
でも、そんなの違う。そんなことしちゃいけないんだ。
ねるが、少しでも、私じゃない誰かを見るのならそれはねるの自由なんだから。
私はそこまでねるを束縛すべきじゃないし、
だから、
ねるを、私の生きる理由にしちゃいけない。
「…それは、普通だよ、理佐。なにもおかしくなんてない。必要とし合えるのはそれは理佐たちの在り方でしょ?」
「……違うよ。私は、ねるに縋り付いていただけなんだよ。そんなの、普通じゃない」
「私だって、みいちゃんが傷つけられたら取られそうになったら、周りに何するか分からない」
「……そうだね。土生ちゃんはそうかも」
「……」
「きっと、それがちゃんと思えたら、それは許されるんだよ」
土生は、そういう自分を持っている。
大切な人のために行動する自分を肯定できる力がある。
でも、私は?
きっと、……違うよね。ねる。
君は、まだ人間だ。まだ、人としての生活に戻ることが出来る。
そこに安心してしまった自分も、確かに在るんだ。
「バイバイ。土生ちゃん」
「……理佐」
「…………、」
私の勝手をきっと、許しはしないだろう。
許されるものじゃない。
愛してくれた人を、愛されることを教えてくれた人を
愛するということを、私にさせてくれた人を
こんな、形でしか
愛せないなんて。
『理佐』と、土生の声に引き戻される。
視線を向ければ、真っ直ぐな強い視線とぶつかった。
あまりに強くて、酷く純粋な。
自分とは、違う眼差し…。
「ねるはきっと、理佐のこと思い出すよ」
「っ、」
その言葉に泣きそうになったのは、
苦しみか、悲しみか、後悔か、
あるいは、期待だったのか…。
理佐には分からなかった。
ーーー『また会おうね、理佐』
そんな言葉を最後に土生が倒れる。
理佐は、ふたりを寝室に運んだ。
視界が涙で溢れて見えなくなって、泣いていることを自覚する。自分が選んだ道を、なぜ、泣いたりするんだろう。
ーーー理佐は、ちゃんと愛されてるよーーー
そんな鈴本の言葉が思い出されて、感情が抑制できなくなる。
「っ、……ごめ、はぶちゃん、…みなみ、」
いつの間にか、たくさんの人に愛されてた。
不良品だと蔑まれたあの日から。
ふたりに掛けた布を握りしめる。
ぽたぽたと涙で濡らしてしまって目覚めるまでにそれが乾くか心配になった。
…目覚めればふたりは自分のことを忘れているだろう。
酷い、最低な行為だ。
ねると出会ったその頃と、自分はなにも変わっていないと思い知る。
あんなに泣かせて。
あんなに、君へ想いを誓ったのに……。
でも、
これで。
ねるに自分のことを教える人も記憶の切れ端を晒すひともいない。
狼も、もう自分を知らない。
あとはーーー、
◇◇◇◇◇◇◇◇
「愛佳」
「なに?」
「こうなること、分かってたの?」
平手の元に、途切れ途切れの情報が集まってくる。いずれも、特定人物の記憶にまつわるもので、ほとんどが途中でぱたりと情報が切れてしまう。
消されてしまっているとすぐに見当がついた。
「……こんなことになるとは思ってなかったよ。あいつの『大丈夫』がこんな形で発揮されるとは思ってなかった」
「……」
「ほんとだって。これでも一応一線は自覚してるつもりだよ。過剰であって歪んではないって」
「……じゃあ、これからどうすんの。記憶を持った人はもうねるの周りにはいなくなったよ。これじゃねるが記憶を取り戻す可能性も薄い」
平手は以前の処罰の影響で理佐と関わることは疎か、名前を口にすることすら出来ない。
それは、理佐を処罰することと同義だった。
何度目かのその思考に、平手は自分が嫌になる。
頭にかかったモヤを少しでも晴らしたくて、大きく息を吐いた。
「はーーー。、っ、あの処罰がこんな裏目に出るなんて…」
「裏目に出たんじゃない。あいつが利用したんだ。平手のせいじゃないよ。…それに、……まだひとりいる」
土生、小池、狼群となる織田、鈴本、茜…。
でも、まだ。ねると理佐を関連付けるその人は残っている。
「話を聞きに行くつもりなのかな、」
「そのための最後だよ。たぶんね」