Wolf blood

「理佐!」


放たれたねるの声が理佐に届いたのは、理佐が地を蹴った一瞬後だった。

たった一瞬。

その間に、フードを被ったその人はねるの傍から消え、50mは先であろう幹にぶつけられていた。


「―――っ!!」

「…っお前!!」


紅い眼が、色褪せない。
口元に映る真紅の色つきが、理佐を攻め立てる。

振りかぶった拳は、その人に打ち付けられる。なんの抵抗もない相手へのそれは、ただの感情だった。

沸騰した脳は、止められない。
なんの自制も意味をなさない。


ーーねるに触れた、それが。
ーーねるを攫った、その存在が。

ーーねるの声を聞き交わした、その感覚機器が。


ーー肌を割いた、その牙が。

ーーねるの血を孕んだ、その身が。



――――そこにある何一つも、許せはしない。








ーーーーー!!!


ーーーーーーーー!!!!





「っ、理佐!やだっ、」


遠くに響く音を頼りに、ねるが走る。
零れる声は震えていて、泣きそうに喉が痛む。こんな声が理佐に届くわけがないと分かっているのに、それ以上が出せなかった。

一瞬見えた理佐の表情は、初めて見るものだった。
身体が強ばったのは、その衝撃でも罪悪感でもない。理佐への恐怖だ。
もしかしたら、震える声もおぼつかない足も、感覚の乏しい指先も
理佐へのそれなのかもしれない。

けど、

だけど。


理佐を想う心は変わらない。
大切で、好きで。

理佐を止めて。あの笑顔に、理佐の独特の空気感に触れて。

抱きしめて欲しい。

…それが恐怖の裏返しだとは気づきたくなくて、ねるは前を見る。




吸血鬼の速さに到底及ぶはずもなかったけれど、それでも
転びそうになりながら、木や枝に体をぶつけながら、ねるは2人を追った。

滴る血なんて
どうでもよかった。







ーーーー!!

弾き飛ばされた先で、木の根とも地面ともつかない場所に落ちる。


「っぐ、ぅ!」



理佐は容赦なく倒れ込むその人の襟元を掴む上げた。
ぐい、と引き上げればフードはズレたけれど、その顔を必死に隠し続けていた。


「………、」


音や見かけが大きくはあるけれど、木や土が衝撃を緩和しているのは気づいていた。回復や能力の高い狼に致命的でないことは明らかだった。


「っ、さすが、吸血鬼さま、だね…。」

「うるさい」

「、は、はは」


その人の手がゆっくりと理佐に伸びる。
上がった先は、理佐の襟元。

ぼろぼろになった相手の手を、理佐は感情なく見送る。
冷たい眼は、未だ紅さを落とさない。
殺意の込められた目と無表情ともとれるその顔に、フードから覗く口元は歪みを露にした。


「…は、そんなに大事?あの子のこと」


「………」


「いつものポーカーフェイスはどこいったんだよ。遮断する心の壁はどこに消えたの…?」


「………、」



その人の言葉に、理佐は返事を返さなかった。
そんなものに、意味などないと言いたげに。ただ、襟元を握る手は、ギリギリと僅かな音を生んでいた。


「、は。、はは、……」


息を吸うと同時、その人は理佐の襟元を握る力を込めて引き寄せる。ふたりの距離が一気に詰められた。

まるで口付けを交わすかのような距離に、理佐が目を見開き、
全身の感覚が研ぎ澄まされ、体がいきり立った瞬間。


ニヤついた声が、ねるの血の匂いを連れて
理佐に送り付けられる。









ーーー「この血は、あの子がくれたんだ」


















ーーーーー!!!



……熱の篭った息が、酷く気持ち悪かった。………



「黙れ!嘘をつくな!!」

「、怪我した私に、ねるがーー」

ーーーー!!!


……この身体に走る、嫌悪感は、それに対してだと信じたかった。………


「黙れよ!」

「っ、血飲めば治るかって、ねるが聞いた……」

ーーー!!!!


……ねるへの、不信だと、思いたくなかったんだ。………



「ねるはそんな事しない!!ねるの名前をお前が呼ぶな!!」

「ぶはっ、、っ、げほ!、なんだ、りさ……っ」

「っ!!!」



ーーーーー!!!!


……知りたくもない、信じたくない現実を目の当たりにするその感覚を、覚えている。……



殴り飛ばすでもなく、打ち付けるでもなく。
理佐の感情の込められたそれが、相手に殴りつけられる。

木々が壊れる音。
弾き飛ばされたそれが、落ち、打ち付けられる音。
どこかに、粘着質な音が混ざる。

挑発するような声に、言葉が強制的に断絶され、弾かれる音が混在していた。

そして、

泣いているかのような、攻撃的で悲痛な鳴き声が響く。


「っ、お前が!襲ったんだ!!」


ーーーー!!!



振りかぶったそれを、その人が初めて、止めた。


「ーーーっ!!この!」

「っ、……、聞きなよ。泣き虫」

「!!」


顔を隠していたフードが落ちる。

血の付着したそれは、役目を終えたかのように

理佐へ、真実を現した。



「ーーー………、」

「、聞く気になった?」


理佐の手から、力が抜け落ちる。


「あーあ、ぼろぼろだよ。いくら狼だって時間かかるね、これは」

「…………なん、で」


理佐の記憶に、その人が重なる。
それは、幼い頃。平手の家系に入ったばかりの頃のものだった。


『野良にあった記憶はない』


それも当然だった。

記憶のその人は狼ではなかった。

ともに平手に並ぶ、吸血鬼だったはずだ。



記憶と現実との差。
現実の受け入れられない真実。


それでも、理佐の口は。声は。

導かれるように

その名を紡ぐ。



「………ゆい、」

「覚えてるものだね、理佐」



ーーー小林由依。

小林は、
真祖平手家の、側近だった。
主を守り、従い、仕える。その家系。

本来ならば、志田と位置を重ねていてもおかしくない。


「……、」

「吸血鬼さまに覚えてもらえてるなんて光栄だね」

「なに、言って……」

「あたしはもう、吸血鬼じゃないよ」



嗅いだことのある匂い。
関わったことのある存在。

なんの相違もない。

彼女は幼い頃の友人だ。



あの頃の、幼い笑顔はない。
どこか冷たく、淋し気で、切ない雰囲気。


力の抜けた理佐の肩を小林が押す。理佐の体はなんの抵抗もなく地面に座り込んだ。膝を落とす理佐を見下ろして小林が立ちあがる。ある程度の汚れをたたき落とすと
未だ戸惑いに溺れる理佐を見た。



「そんなことはどうだっていいじゃん。理佐。あなたが聞きたいのはそんな事じゃないでしょ?」

「ーーーっ、」



理佐を激しい動悸が襲う。

目の前に突如現れた過去の人は、確かに驚くべき現実だけれど
それ以上に、

知りたくない、真実ならば受け入れ難い。

拒絶して、無くしてしまいたい。



けれどそれは、意思に関係なく、
避けることなど許されない。


理佐自身を
やっと見つけた大切な人を

構築された、存在意義をぶち壊す。



「ねるが、あたしに血をくれたんだ」


突きつけられるそれが、嘘だと思いたい。
嘘だと、ねるを信じたかった。


「……っ、そんなの、」


「…ねるの血が欲しかったのは本当だけど、私にとってはまだ時期じゃなかった。その頃になるまで、私は本当の意味でねるの血を得ても意味が無い」


でも、理佐の記憶の小林は
曲がったことが嫌いで、嘘なんてつかない。


そして、


ねるの血の匂いを追い、たどり着いたその瞬間


ねるは…………




「ねえ、ねる?」




「………っ!!?」




「ーーー、理佐……?」





何も知らない君が、目の前に現れて。



私は、絶望する。




















…………



……………この感覚を、覚えている。………






………でも。………






…………ねる。…………





………君という存在を、………


………愛してくれた、その愛しさを………






………覚えてしまったこの心は、





きっと、耐えられない。…………









『その血は、誰かを生かし、誰かを、殺す』







あの時、やっと見つけたその時に。

君の手は、


由依の背中に回っていた。








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