Wolf blood
生い茂った草木が世界を埋め尽くす。
道なき道を進むというのを体験するとは、ねるは思ってもいなかった。
それでも、目深く被ったフードに遮られた視界にも関わらずその人はねるへの道を作って、狼はここを通れと示してくる。
体に当たりそうな枝や葉を退けては振り返って無事を確認される。
この森の中で逃げたところですぐ捕まるのは目に見えているし、助けを求めるにも人気は全くない。ねるは小さくため息をつきながら、前を進むその人を伺うように見た。
何故かこの人に何かされるような恐怖はない。
寧ろ、ねるの心は理佐が傷ついたり、その身を犠牲にすることへの不安に溢れていた。
そんなことを考えていれば、振り返ったその人と目が合ってしまう。
「、なに」
「え?いや…親切やなぁと」
「……ばかなの」
「む、」
これ見よがしにため息をつかれる。
思わず不満げな声を出してしまったけれど、ねる自身、攫った相手に『親切』と表すのは違かったと自覚した。
「……血、出たら狼に見つかるでしょ。だからケガしないようにしてるだけ。あなたへの優しさなんかじゃない」
「…、」
「まあ、でも」
なんとなく納得できなくて、でもそれは当然のことで。
それに被せるように、その人はねるへ口角を上げてみせた。
「理佐が、気づけるかは知らないけどね」
「…………、」
そう言って、また足を進め出す。
今のは、何かのヒントなのか。
それとも、理佐を呼べと誘導されているのか、
その言葉、その表情に色んな可能性が考えられて
ねるの思考は錯綜し始めていた。
「平手や愛佳がいなかったら、今頃殺られてるよ」
「………、」
そんな物騒な内容が放たれたけれど、理佐はそれを静かに受け入れるしかなかった。
否定も言い訳もできない。
事実、それは平手と愛佳によって抑えられている。
「…ごめん」
「私も一応それなりの役割持ってんだかんね!死ぬかと思ったよ!理佐かっこよかったけど!!」
「………」
リーダーに寄せられた情報が、織田に降りてきて
織田と理佐は、情報の濃い山林へと来ていた。
足を進めるけれど、狼の織田でさえ匂いには辿り着けない。
バキバキと木々を折り、枝を割る。葉を退かして先へ進む。
どこか生命に溢れるその世界を、踏み荒らし壊していく。理佐は何故か心の端々を罪悪感に苛まれた。
踏み入ってはいけない。
荒らすべきでない、自然。自分とは違う格にある生命体。
織田のテンションの高さもそれなのだろうか。葉の揺れる些細な音すら大きく感じられて、呑み込まれそうだった。
それに無意識に対抗しているようにも思えた。
「……だに、匂いある、?」
「いや、。茜には濃厚って言われたけど…逃げられたかな。それでも、残り香くらいあってもいいんだけど、」
互いに足を止める。
こうして訪れたのは1箇所目ではない。野良は極少数ではあるけれど、1匹ではないし
野良を利用している狼が、匿っている可能性も捨てられない。
少ない中の、ひとつを見つけるのは
困難だった。
「ねる………」
でも。
そんなのは、知っていたんだ。
そんなのは、問題じゃない。
君を、必ず見つける。
例えこの身がどれだけ傷つこうと、連れ戻す。
君はまだ、人間なんだ。
「理佐、変なこと考えてない?」
「…考えてないよ」
「……理佐がいなくなって泣くのはねるだからね」
「……、」
理佐視線は、ねるを追う。
遠い森の先まで、その影を探していた。
「ねえだに。泣いた数だけ強くなれるみたいなの、聞いたことある?」
「―……どうかな、」
けれど、この時だけは
真っ直ぐに織田を見つめた。
あまりに、強い瞳に空気が張り詰める。
「泣くのも笑うのも、生きてるからだよ。……私は、ねるに笑ってて欲しいんだ」
…きっと、泣いた先でねるは笑ってくれる。
それは、まるで遺言のようで。
織田の顔が強ばり、喉を閊えさせる。
ーーー理佐の危うさは、ねるに出会い、番となってから変化した。
以前は、存在が消え入りそうな危うさがあった。ピンと張り詰めた糸が、ギリギリで存在を保たせているような、感覚。
今は、
ねるという存在のために、その身をどこまでも犠牲にする、そんな危うさがある。
宝物を抱えて、そのための傷など厭わない。
理佐の背景は、どこまでも、
その存在を、存在する意味を『なにか』縋ってしまう。
こと自分に関しては、
その存在自身に、存在意義があることを知らないんだ。
「……気づいてない、んだろうなぁ」
「……なに?」
「早くねるを見つけなきゃなって!」
「そうだね、ーーーっ!!!」
織田の声に反応して、言葉を返したその瞬間。
理佐の思考が停止する。
「理佐っ!!?」
気づいた時には、織田の声は遠くて。
走っていることを理解したのは、息が苦しくなってからだった。
思考はねるに支配される。
正確には、番の『血』に、体の全てが埋められていた。
鼻腔を掠めた、その匂いは。
間違えるはずのない、
「ーーーねる!!」
視界に、人影。
重なる、その影は、理佐の目を紅く染め上げていく。
「………あぁ、来たね」
その声が耳に届く。
あの夜に『理佐』と呼んだ、あの声だった。
さっきまで枝を割ることにすら削られた心はもうない。
木を蹴り落とし、枝を割る。葉を踏みつけて、
そこに住む生命を、殺した。
理佐「…………っ、!」
ねる「っりさ!待って…!」
「……番の血に呼ばれるなんて、良い吸血鬼になったんだね」
目深く被ったフードに、顔は見えない。
それでも、
ねるから流れる血と、
フードから覗く口元の血が
理佐の脳を沸騰させた。