Wolf blood
暗い世界が広がる。
どこを見ても真っ暗で、自分さえ分からなくなるほどだった。
『あの子、血飲まないらしい』
どこからか、声がして
体がびくつく。
『半端者』 『異端者め、出ていけ』
『なり損ないが。
そんなのが平手家と同じなど
ありえない』
言葉や視線は、なんの形もないのに
暗い闇から、手を伸ばしてきて
首に絡みつく。
ぎりぎりと、苦しくなる。
吐きそうで、なにも通らなくて。
諦めたいのに、声にならない悲鳴は生きようとする泣き声だった。
『ーーーーー』
『ーーーー、!』
そこから、何故か追憶になる。
平手の家系に入って、それは余計に酷くなって。平手は庇ってくれたけれど、平手の役に立たなければ私に居場所なんてなかった。
『能力は使えるぞ。利用しろ』
虐げてきた奴らが、突き放していた手を捕まえるように変えてきて。
退かされていた私は、捕まって囚われる。
『あの人間の記憶を消せ』
『どうにかしとけよ』
『そのくらいしか使えねぇはぐれ者が』
物としか扱われない。
でも。その唯一の肯定を拒絶して長い人生を生きる強さはなかった。
手を、伸ばす。
ーーそれが、生きる術だと思っていた。
記憶を書き換えて、吸血鬼の存在を消す。
ーーーそれは、自己の肯定だった。
傷を癒す。
ーーーーそれで、償いになると思ってた。
ーーーーーーーー………『理佐、』
「ーーー………、」
懐かしく、不快な記憶。
身近で日常だったそれは、遠く離れていっていた。
嫌なものから距離を取れるほどに成長もしたし、平手や愛佳がそんなことをしなくても、私を認めてくれていたんだ。
そして……
「っ、」
ねるが、いた。
ねる。
君が、いない。
それだけで、世界はこんなにも崩れていく。
「理佐、」
「!」
乱れた思考に涙が溢れていた。けれど、ハッキリとしたその声が一気に理佐を現実に引き戻す。
「大丈夫?」
「すずもと…、」
「顔、マシになったね」
鈴本の言う意味が、理佐には分からなかった。
「………、いま何時…?」
「昼の3時。半日くらいは寝てたかな。もっと寝ると思ったのに…うなされてたね」
鈴本に濡れたタオルを渡されて、顔を拭く。
張り付く汗と不快感を涙と共に拭った。
その冷たさに濁っていた意識が目を覚ます。過去として振り切れたと思っていた、記憶。未だ根底に根付いていて嫌気がさした。
まだ、囚われている。
あんな、やつらに。
「ねぇ。狼とやり合いすぎでしょ。体が傷だらけだったよ。悪いけど酷かったとこはゆっかーに手当してもらったから」
「友香、」
菅井の存在が降ってきて、また迷惑をかけてしまったと思う。菅井の心配する顔が思い浮かんで申し訳ない気持ちになる。
しかし、同時にひどい嫌悪感に襲われた。
ーー眠っていたのか、。こんな状況で、呑気に?
自分に呆れて、悔しくて、悲しくなる。
大切なその人になにが起きてるか分からないのに、どんな苦しみを与えられてるかもしれないのに、
「ーーっ、」
理佐は弾かれるように、寝ていたベッドから飛び出す。丁寧に棚に置かれたスマホを掴んで出口を探す。
初めて来たその部屋から、玄関への道が分からなかった。
そのうちに、急な動きに血液が間に合わず視界が砂嵐にまみれて体がずしりと重くなった。
思わず壁に手をついて、必死に体を支える。
「ちょっと、どこいくの!」
「…、こんなとこ、いる場合じゃない!ねるを探さなきゃ…!」
「待ってよ!なにも分かんないんでしょ!」
「っ!なら!教えてよ!」
…こんなこと、知らなかったんだ。
知らない部屋に入れられたみたいに。
大切な人が奪われた悲しみも、
大切な人が、いなくなった世界も
取り返すための、身の呈し方も
分からない。
出口が見えない。
「……理佐。協力しなきゃ、答えは見つからないよ」
「………、!」
「思いをぶつけたって、がむしゃらに潰したって…」
呟くように紡がれるそれは、何かを思い出しているようで
鈴本の眼は真っ直ぐに理佐を見つめてくる。
「理佐は、もうひとりじゃない。番を守らなきゃいけない。なら、自分の思いより考えなきゃならないことがあるよね?」
「………、」
ねるが、いない。
けど。
それなら。
取り返すしかない。
いない世界に、溺れてる場合じゃないーー。
「………うん、」
理佐の答えに、鈴本は少しだけ表情を和らげる。
「どうしたらいい?」
「愛佳は、なんて?」
「平手も動いてるから、大人しくしてろって。目的がなんだろうって気にしてた」
「そっか。確かにそれが1番早いもんね」
「でも、待ってなんかいられない、」
「……理佐が気づいたのはなに?」
「それは、…」
嗅ぎ覚えのある、匂い。
私は、相手と関わったことがあるんだ。
でも、野良との関わりなんて記憶になかった。
「………」
「私に言えなくてもいいけど、愛佳にもう1回連絡してみなよ。理佐の気づいたことも、話してみて」
「……わかった、」
握っていたスマホを操作して、愛佳の名前を探す。
『いいか、感情に任せてころすなよ』
愛佳との会話はそれが最後だった。
その言葉があったにも関わらず、あの後の自分はあまりに感情的だったと思う。
少し躊躇ったあと、理佐は愛佳へコールした。
『もしもし?』
「……、」
『理佐、だよね?狼しらみつぶしにしてるって聞いたよ。危ないからやめとけよ、』
「……ごめん」
怒る、でもない。叱る、こともしない。
愛佳はいつだって、理佐の心配ばかりしている。
「……野良はどこ?」
『……のら?』
「ねるは野良に攫われたんだ。でも、見つけられない」
『……知ってるやつなの?』
「…たぶん。どの狼も匂いが違うんだ。でもあいつは嗅いだことのある匂いだった。」
『………。』
理佐の言葉に、愛佳は口を閉ざす。
無機質な雑音だけが、電話口を通ってきていた。
『…で、何を聞きたいわけ?』
小さなため息か、仕切り直すための呼吸か。
はあっ、と空気が流れる音がして愛佳が会話を再開する。
理佐の手に力が入った。
聞きたいことは、ひとつだけだ。
「…野良は、どこにいるの」
『わからない』
「…知ってるんだね?」
『……』
「ねるはどこ。知ってることを教えてよ、愛佳」
『平手に任せとけよ』
「無理だよ。ねるのことを人に任せる気なんてない」
『理佐が動けば辛い思いをするだけだぞ』
「…そんなのいい、」
『せっかく離れたしがらみにまた戻ることになる』
「っ!」
夢で見た、あの世界に。また戻るというのか。
夢ですら苦しくて、体は夢から逃げ現実に戻ったっていうのに。
ーーあれは、夢なんかじゃない。過去であり現実だ。
そう自覚した瞬間、
体が強ばって、息がしづらくなる。
隣にいる鈴本の視線を感じる。
『 理佐は、もうひとりじゃない。番を守らなきゃいけない。なら、自分の思いより考えなきゃならないことがあるよね? 』
「…っ、」
答えはひとつなのに、
すぐに返答できない自分が嫌になる。一蹴するくらいの強さが欲しい。
けど、
でも。
その弱さを、ねるは受け止めてくれる。
だから、弱い自分と向き合える。
そういう強さをねるは、くれたんだ。
「……大丈夫だよ、」
『、』
「あの頃とは違う。ちゃんと守るべきものもある、自分の意思だってある。…平手と愛佳と約束した。私は私を否定しないって……だから、そんなことにはならない。大丈夫だよ、愛佳」
理佐が今立っていられるのは、ねるだけじゃない。平手や愛佳、周りの人達のおかげだ。
その感謝を口にしなきゃ伝わらないほどの関係じゃない。
それは、独りよがりな想いじゃないはずだ。
『……私は、』
愛佳の言葉が、返ってくる。
いつもより、少しだけ。
少しだけ、弱くて、小さかった。
『大事な人が傷つくのを分かってて、その先を示すことなんて出来ない』
「……愛佳、」
『ごめん、理佐。…今回の件には、協力出来ない』
「………」
理佐の返事を待たず、愛佳は通話を終了する。
以前と同じ、無機質な音が響く。
それでも、理佐は前を見据えていた。
「鈴本、愛佳に協力してもらうのは難しいかも」
「……そっか。ならどうしよう」
「…そういえば、だには?」
「リーダーのとこ行ってくれてるよ」
「そう、」
織田も鈴本も群れに属している。何か際立った行動をするのであれば、リーダーの承認が必要だった。
一員の行動は、すべてリーダーの責任となる。
織田がリーダーのところに行った、ということはそういうことだ。
「迷惑かけて、ごめん…」
「……理佐はさよく『迷惑』っていうよね」
「え?」
「うちらだけじゃなくて周りに。愛佳達にも言ってるんじゃない?」
「……まぁ、そうかも…?」
「……大丈夫だよ」
「え?」
「そんなに自分を卑下しなくったって、大丈夫。理佐はちゃんと愛されてる」
「ーーー、」
虐げられてきた過去。
ぶつけられる悪意。
存在の拒絶。
自己の否定。
利用されることだけで確立された存在意義。
それは、傷つけられる前に自分で傷ついたほうが楽だとたどり着くには十分だった。
要らないと言われる前に、要らない奴だと言い聞かせる。
吸血鬼として有り得ないと知らされる前に有り得ないと心に貼り付ける。
使えなければ認められないと示される前に、認められてないと否定する。
迷惑だと拒否される前に、なにかあれば迷惑だと謝る。
そんな、面倒な癖がいつまでも抜けない。
「……そうなの、かな」
「そうだよ。じゃなきゃ、今頃狼は黙ってない」
「……?」
「茜が言ってたよ。平手が狼を抑えてるって。吸血鬼と狼は協定しているけど、そんなの偉いひとたちの約束事だし、今回みたいに理佐が暴れたら戦争だって起こる」
「………」
「でも、まだなにも起きてない。それは平手や愛佳が理佐を信じてるから、だよ」
仕掛けてきたのは、狼だ。
けれど、それを野良と知った上で虱潰しに狼に当たれば、それは。
あまりに勝手で、あまりに自分本位だった。
戦争の責任はとるつもりだった。
織田に投げた言葉は嘘じゃない。
けれど、そのために平手達が動いていることは考えていなかった。
自分に降りかかることであって、自分が闘えればいいと思っていた。
「………、私、」
「だから、いいの。」
大丈夫。
そう言った、鈴本の顔はあまりに優しくて。
苦しくなる。
いつも、自覚が足りないんだ。
傷つきすぎたその心は、その温かさを知るのに
まだ足りない。
愛されている、そのことが
大きすぎて、包まれすぎて。
まだ、降ってくる刃を耐えることしかできない。
ぽろぽろと零れる涙に、頬が濡れる。
なんで泣いているのか理佐自身分からなかった。
「ただいまー、美愉、理佐起き……」
「だに!」
「うわっ!なに!デジャブ!?」
帰ってきた織田に、理佐が掴みかかる。
腕を盾にするようにした織田を見て、理佐は申し訳なくなる。
心配してくれた相手に、ひどい仕打ちだった。
「この間はごめん、やりすぎた」
「あ、?あぁ、いいよ、しゃーないじゃん。ねるだもん」
その言葉に、また理佐の喉が詰まる。
そんな当たり前のように返してくれる織田に、ありがとうと伝えれば、どうしたのと心配された。
「…ねるを探したいんだ、協力してほしい」
「……はぁあ。わかったよ。野良絡みなんでしょ?やだなぁもう、」
そんなことを言って、織田は笑ってくれた
。
闇は、深い。
暗い暗い、世界。
延々と広いかもしれないし、1歩踏み出せば崖かもしれない。
その恐怖は、狂わせる。
ーー死をも、凌駕するかもしれない。