Wolf blood
『ねるが攫われた』
その言葉を飲み込むには、世界をひっくり返さなければならないと思った。
「ねる、っ!?」
ねるがいない。
それだけで、世界は見知らぬものに姿を変えて
自分の意識が届くまでしかなかった世界の線が消え、果てしない世界に気が遠くなった。
みるみる薄れていくねるの匂いと、狼の匂い。
理佐は必死にそれを追うけれど、果てしない世界に薄れたものは完全に途絶える。
それでも諦めきれずに夢中で体を動かした。
脳からの命令に、筋肉は悲鳴をあげて、荒れる呼吸に気道が泣く。関節は警告を鳴らす。
「はっ、はあっ!っ、!、っ」
ねるは、いない。
ねるが、いないーーー。
「ッ、ねるーーー!!!」
嗅いだ記憶のある鼻につく匂いは、『狼』だった。
吸血鬼と狼は明確な条約がある。
真性、形式に問わず『番』には干渉しない。
狼は、欲に溺れて人間に無秩序かつ害を被ると判断された吸血鬼に抑制、鎮圧をはかる役割がある。
ーーー『野良かねぇ?』
「……、………、のら、?」
切れる息と、汗で張り付く髪。
顔が自覚できるほどに強ばっていた。
焦りと不甲斐なさに溢れ返っていた感情が疲労感に消費されて、少しだけ脳がまともに働き出す。
狼は集団行動が主だ。
群れにはリーダーがいて、縦社会に生きている。
それはこの世界においても根底にある。
その、外れに位置する『野良』の存在をだいぶ前に耳にしたことがある。
「………、、、」
ねるを探してがむしゃらに走り抜けた道を、今度は目的を持って走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇
織田は濡れた髪を拭きながら、自室に戻る。普段自分以外誰もいない部屋に、珍しく客が来ていた。
「美愉、風呂空いたよ」
鈴本は偶に泊まりに来る。だからといって何をする訳でもない。喋ったりはするけれど、ただ静かに本を読んだりしている事が多い。
ただ、そこにいる。同じ空間にいる。
鈴本はその事実が欲しいだけで来ているように思えて、織田にはなかなか理解し得ない部分があった。
しかし、それが織田にとって被害がある訳でもなく
頻繁であれば疑問のひとつも投げかけただろうけれど、そのタイミングは未だ訪れていなかった。
「………、」
「美愉?」
織田の言葉に返事がない。
加えて、視線は部屋の窓に向いていた。
「…理佐が来るよ、」
「え?」
鈴本の言葉を理解する前に、バンバンと窓ガラスが叩かれる。
その勢いに織田の体が跳ねた。
「うわ!!え?これ理佐??」
「、たぶん」
驚いた顔をしたのも一瞬で、鈴本は姿勢を崩さずに怪訝な顔で音のする窓を見やる。
織田は慌てて窓を開けに行った。
窓を叩くなんて、尋常ではない。
「理佐!?どうしーー」
「だに!野良のこと教えて!」
窓を開いてすぐ、織田の言葉を待たずに理佐の言葉に襲われる。
いつもの落ち着いたトーンの声ではない。裏返ることなど気にしない、感情任せの声だった。
鈴本「!!」
織田「!?野良?なんで?」
理佐「ねるが攫われたんだ!なんでもいいから」
織田「攫われた!?」
鈴本「ーー!」
その言葉に、織田だけでなく鈴本も目を開かせる。
ねるは、理佐の番だ。
干渉は許されない。
理佐「ねるを見つけなきゃ!野良はどこ!?」
必死な目に、織田は切なげに顔を歪ませる。その顔に、理佐は絶望の影を見つけてしまった。
織田「……ごめん、知らない。野良は、だから野良だって呼ばれてるんだよ。その存在すら信用しないやつだっているし」
理佐「違う!そんなこと聞いてない!野良はいるッ、そいつしかいない!」
張り詰めた空気は、必要な音だけを拾って無音の世界になる。
理佐の、喉の引くつく僅かな音は世界が泣いているような感覚にもなった。
織田「……、美愉」
小さく、縋るかのような織田の声が零れる。
黙っていた鈴本はこの時初めて言葉を放った。
鈴本「なに、?」
織田「…野良についてなにか知ってる?」
鈴本「………」
理佐「っ、なにか知ってるの?」
鈴本「……知らない、」
小さく灯った光は、幻で。
手を伸ばす間もなく姿を消してしまう。
光が偽物だったのか、
消えたことが嘘だったのか、
それすら分からなかった。
結局、2人から情報を得ることは出来なくて野良の情報を得てほしいと依頼だけして織田の家を後にした。
ねるは、どこにいる?
無事だろうか、
なぜ、攫われた?
番であることに関係があるのか?
野良の習性は?
狼と接点がないならどこから探せばいい?
羅列された、答えのない疑問ばかりが飛び交う。
求めるただ一つの事柄に、どうすればたどり着けるのか手段すら検討もつかなかった。
「……っ、くそ、!」
無力だ。
こうすればよかった、こうしていたらねるを守れていたかもしれない。
そんなありもしない可能性ばかりを振り返る。そんなもの、馬鹿げていると分かっているのに弱い心は過去に縋る。
いつも、後悔ばかりだ。
「理佐」
「……?」
ザザっと足音がして名前が呼ばれる。振り返ると、そこにはさっき別れた鈴本がいた。
夜の光の乏しい視界では、鈴本の表情は分からなかったけれど
いつもの強い意志を秘めたような瞳はしっかりと理佐を見つめていた。
「……野良なら、愛佳に聞くのがいいよ。平手には会えなくても愛佳には聞けるでしょ?」
「まなか……?」
「……それだけ」
深いことは何も言わず、鈴本は背を向けて寮に戻っていく。
なんで、さっき言ってくれなかったのだろう。
なんで、愛佳なの?
なぜ、それを鈴本が知っているの?
「………ねる、」
でも、そんなことどうでもいい。
条約も番も、関係ない。
後悔してもなにも変わらない。
なにをすればいいのか考えなければ、ねるは救えない。
帰ってこない。
『ねるの初めてはりっちゃんやったよ、』
君は、いつだって。
私を見てくれている。
過去を、記憶を悔やむより
ねるを、追う。
早く。
早く。
ねるを連れ戻すんだ。