Wolf blood
春。桜が舞い。
それを肴に、屋台が並んで杯を交わす。春の訪れを人は感謝し祝っていた。
その景色はいつかの日と重なって、あまりいい思い出ではないそれを見ながら
あの時とは違う、理佐とねるがふたりだけで歩いていた。
「…あっち行こ、りっちゃん」
「え、」
示されたそこへねるに腕を引かれてたどり着く。少し離れた場所にあるその桜は、あの時と変わらなかった。
「やっぱり咲いとらんねぇ」
「………」
咲く時期が少しだけ違うその桜は、皮肉にもあの時と変わらずにまだ蕾で。
少しでも咲いていたなら、あの時書き換えた記憶と区別することが出来たのにと思う。
ねるが数歩先を歩く。
理佐は、蕾を見上げるねるの後ろ姿を見つめた。
あの時、平手はどう思っていたのだろうか。既に、自分のことを考えてねるのその血を飲み下していたのか。
それはどういう思いだったのだろう。
「理佐」
「!、え?」
気づけば、ねるは桜に背を向けて理佐を見つめていて。その瞳が優しくて、何故か泣きそうになる。
「なん、泣きそうと?」
「…ちがう、」
「……ね、来て。理佐」
ねるの声で『理佐』と呼ばれると苦しい。愛しくて、切なくて。その衝動はねるを壊してしまう。そんな恐怖は未だに消えなかった。
ゆっくりと近づいた理佐の腕を、ねるが引く。
体ごと引かれて理佐の足がもつれて2人の動作はあまり丁寧ではなかくて。そのせいか、ねるの背中が桜の幹にぶつかって、ねるは少しだけ表情を歪ませた。
「っ、大丈夫?」
「へいき。ね、りっちゃん」
「……なに?」
至近距離で見つめてくる視線を、理佐は外す。
あの時を再現したかのような状況はあまりいい気分じゃない。ここにいたのは平手だ。初めてねるの皮膚を破りその喉を鳴らしたのは、自分ではない。
それに、
「ねるは、理佐と生きていきたい」
そう、言われることが分かっていた。
「………うん」
ねると別れる気は無い。けれど、ねるが求めているのはそういうことではないと分かっていた。
「20歳まで、あと半年だよ」
「…半年にそんなにこだわる必要なかやろ」
「20歳を待ってるの。分かるでしょ?」
「もう高校も卒業した。自立するって家族とも距離置いとる。友達やって…」
「……ねる、」
「ねるは理佐とおりたいんよ。ねえ。ここが初めてやったんよ?相手はてちだったかもしれないけどねるん中では理佐やったと」
「…」
その記憶は。
自らが選んだ結果だ。
ねるも平手も悪くない。自業自得だと分かっている。
それでも、ねるの最初が平手に染められていることに嫉妬して。自分のせいだと嫌悪感に苛まれる。その繰り返しで、螺旋階段から逃れる術も分からず、登るにつれて苦しくて、しんどさが増していく。
今自分が苦しいのも、
ねるが求めていることに答えられないのも。過去の自分の責任だ…。
「もうよか、」
少し呆れたような声色に、一気に不安に襲われる。
慌てて顔を上げると、『ねるが言いたかのは、そんなことやなか』と睨まれている気がして
考えが見透かされていると思った。
「……ねる、」
「…20歳までの約束は分かっとる、けど。……やけん、お願い聞いて」
上目遣いの睨みから、顔を上げられて真っ直ぐに見つめられる。
その瞳は、ひどく純粋に見えて
YES以外の言葉は世界から消えてしまう気がした。
「今、ここで。血を飲んで欲しか」
「……、え」
「それが出来んやったら、理佐の血ちょうだい。ねるが勝手に吸血鬼になる」
「………」
強い意志に、惹き付けられる。
自分にもっと、そんな意思があったら。こんなにねるを悩ませたりしなかった。
でも。
自分は、ねるが20歳になるまで待つと決めて、それは逃げでも恐れでもなく、ねると向き合うために必要だと決めた。
理佐はその覚悟を表すように、ねるの腰に腕を回して、その頬に手を添える。
優しく触れるだけのキスを交わして
ゆっくりと耳に口付ける。
それに合わせてねるが顔を背けて、項が露になる。耳元でねるの少し弾んだ呼吸を吸収しながら
首元へ顔を埋めた。
「っ。ん」
「……ふ、」
舌でゆっくりと肌を舐め上げて
吸血鬼特有の、硬く尖ったそれを肌に突き立てた。
「……、!、ぅ」
「っ、…、」
肌を破ると同時に、ねるの顎が上がる。
ねるの手が理佐にしがみついた。
ぐっと籠るその力に理佐の喉が鳴る。
痛みに耐えるそれが、自分を求めてくれている気がした。
牙を立てたそこから溢れる血。
少しも零さないように、理佐の舌が這い舐め上げていく。
時折吸い付くような口付けが、ねるの体を跳ねさせた。
熱のこもった粘着質な音がしばらく続いて、浅くなった呼吸と共に終わりが告げられる。
ねるの目に、紅く染まった眼が映る。
理佐の紅い眼はすぐ消えてしまうけれど、ねるはこの瞬間が堪らなく好きだった。
求められていること、理佐の欲を満たせてあげられていること
本能に埋まるその熱のこもった瞳が、ねるを昂らせる。
「……、ふ、はぁ」
「…ん、おわり?」
「うん、」
「……えへへ」
傷を癒しながら、理佐が?を浮かばせると
酷く優しく柔らかな表情が咲く。
「初めては、ちゃんとりっちゃんやったよ」
「ーーー………」
あの夜を、払拭して。
君は、私を呼び起こす。
そうやって、
咲かせた花が散るように
私が抱えた罪の種を一つ一つ咲かせて散らせていく。
そうして積もった花びらは、私たちの道になっていくのかな。
その道を歩くなら、君しかいない。
「あ、」
「ん?」
「わんこや!野良かねぇ?」
熱が飛散して落ち着いた頃、ねるが何かを見つける。
ライトアップされた木々の影に、薄ら見えるその姿は理佐にも犬に見えた。
「………?」
子犬の出現に喜ぶねるを感じながら、頭の隅で疑問が浮かぶ。
それは、一抹の不安でもあったかもしれない。
「どこからきたんー?」
「……ねる、待って、」
子犬に向かって歩き出したねるに、理佐の呟くような声は届かなくて。
ねるが子犬に触れる寸前、それは影に逃げ込んでしまう。
「あっ、待ってー」
「え、ねる!ちょっと!」
嫌な予感と、疑問と。
鼻につく匂い。
そんなものに支配されずにねるのその手を引いていたら良かった。
犬を追い、ねるが消えた影に
理佐が駆け込む。
「ーーーーねる、?」
木々の奥に広がった芝の上。
「ーーー理佐、」
「……っ!」
聞きなれない声が自分の名前を紡ぐ。
その腕に、ねるは抱かれていた。
相手を見やる時間も
何者かと考える思考も
何が起きているのかと処理しようとする脳も
全て、不要だった。
その腕から、ねるを奪い返すことだけに全細胞を使うべきだった。
狼の咆哮が響いて、
その『子犬』に気を取られた時には
目の前は
芝生と、桜。
視界は、愕然とするほどの広大な星空だけだった。