Succubus
「ねえ、ふーちゃん」
「なに?」
「やっぱり、ねるもう帰ると」
「………」
ねるは、テレビを見ていた冬優花にそっと声をかける。
その言葉に、冬優花は視線をねるに移した。
冬優花が見る限り、ねるは夜中に帰ってくることはなくなったし
なんとなく元気はないけれど、以前のような何をするか分からないようなこともなくなった。それでも実際のところは、冬優花の仕事中何をしてるのかは分からないけれど。
「………、」
ねる自身のことは、ねるに任せるべきだとも思っている。
ただ、気がかりはなにも変わっていなかった。
「…それで?どうするの?」
「……大学はまた考えるけん」
「違うよ。理佐とのこと、どうするつもりなの」
「………」
冬優花の言葉に、ねるは前を向き始めたと思っていた。けれど、それからねるが行動を変えた様子もなく話も聞かない。
きっとまた余計なことを考えて、結局元の位置に戻ってしまったのだと容易に想像がついた。
「………どうって、…やっぱり今更、そんな都合のいいこと、できんくて…、」
ねるの揺らいだ心は、何かが絡まって元の位置に引き戻してしまう。
自分の都合で傷つけて離れたくせに、また自分の都合で会おうなんて、許されようなんて、
そんな甘えたこと出来ない。
都合がよすぎるとしか思えなかった。
ねるの視線は床を見つめたまま、手は服を握りしめる。
出した答えが、苦しいことも納得できないことも全てが表していた。
「……ねる。理佐と別れるのも、関わらないのもねるの好きにしたらいい。それでずっと引きずって生きてったらいいよ。ねるの人生なんだから」
「………」
突き放すような言葉は、それでも確かにどこか暖かくて
冬優花はその真っ直ぐな目をねるから外さなかった。
「ただ、それに理佐を巻き込んだらいけないと思う。傷つけっぱなしじゃ、これから理佐は背負ってかなきゃいけなくなる。それは、ねるが降ろしてあげなきゃならないものでしょ?」
「……でも、」
「もう会わないんならその責任はとらなきゃいけないよ。逃げちゃダメ」
「………、」
「………なにをそんなに怖がってるの、」
怖い、のだろうか。
理佐に嫌われること?
理佐を泣かせること?
理佐に怒られること?
違う。
きっと、
理佐を傷付けて、
泣かせて、
きっと嫌われてしまった
そんな自分に、向き合うことが
怖いーーー。
ひどい人間だとねるは思う。
理佐はあれほどに傷ついても、例え時間がかかっても追いかけてくれたのに。
自分は、自分を守るばかりで傷付けて。
そのことからも逃げたくて、理佐から離れようとしてる。
ねるが好きな人はだれ?
ねるが、何よりも大事にしなきゃいけない人は、だれだった?
心に絡みついて後ろに引き戻すのは、臆病な自分だ。
今だけでも、それは引き千切らなきゃならない。
間に合うなんて関係ない。
許してもらうなんて望まない。
貴女にのしかかった私を、迎えに行かなきゃ。
サキュバスであることなんて、きっとなんの言い訳にもならないんだ。
そうしたのは、他でもない自分自身なんだから。
「………ふーちゃん、」
「ん?」
「ねる、理佐に謝らんと…」
どんな結果であれ、
例え
会わないのではなく、会えなくなる未来だとしても。
貴女に、貴女らしく、
私に囚われずにこれからの人生を送ってもらうために。
ーーーー!!!
「?」
けたたましくインターホンとドアを叩く音がする。
「なになに?誰!?」
冬優花が玄関へ向かう間に、ねるは理佐へ連絡をしようと、寝室へスマホを取りに行く。
「!?」
その画面に示し出されたのは、10回近い着信と
示すことの間に合わないほどのメッセージだった。
「えっ、、愛佳…?」
この時は何故か、おびただしい数のメッセージを読み取ろうとして
その着信への折り返しは後回しになっていた。
「……っ、理佐…!」
慌てて鞄を掴んで玄関に向かう。
スマホは手に握ったまま。
その先で、予想通り愛佳がいて、同じようにスマホを握っていた。
怒ったような顔の愛佳は、ねるの顔を見て少しだけ表情を和らげた。
「ーー、、はぁ、……っおせぇよ、はぁ、っ」
「……ごめん」
肩で息をする愛佳は、髪が額や首筋に汗で張り付いている。
きっと、家からここまで走ってきたのだと思った。
目線だけをねるに送って、愛佳は先に走り出す。その後を追うように、ねるも靴を履いた。
「ねる、」
「ふーちゃん、…行ってくるばい」
「……行ってらっしゃい」
「、うん」
言葉を返してくれた冬優華の表情は、正直なんとも言えない顔だった。
けれど、何か言うわけでもなく送り出す言葉だけを投げる。
それが、どういう意味なのか
ねるは分かっているつもりだった。
閉まるドアも見届けずに、ねるは愛佳を追う。
今まで送り続けられた冬優花の言葉が、ねるの背中を押していた。
いつかの、風景に
何故か私は立っていた。
そして、唐突に見慣れたその背中を見つける。
「………ねる?」
『………』
「……、もう、会えないとおもってた」
『……、』
言わなきゃいけないことがある。
焦燥感だけが心を襲ってる気がして
早く早くと言葉を紡ごうとするのに思う様じゃなかった。
「ねる。私さ…」
『もう会えん』
「……え?」
『理佐を誘ったのも襲ったのも、サキュバスだからやけん。他ん人と同じばい』
「……っ、でも」
ーーーさっきの人も今までの人も…理佐も、ねるのことそういう風にするけん。
身体が沸騰するかのように熱くなる。
今まで抑えてきた感情が爆発するかのようだった。
「ーーーッ!」
奥歯が軋むくらいに食いしばる。
身体は言うことを聞かなかった。
力任せにねるを組み敷いて、押し付けるようにキスをする。
漏れる吐息ばかりが耳について、体の奥底が滾る。
ねるの身を包む衣服たちを、無理やりに剥いだ。
「…、はぁ、は、…っ、」
『……ほら、やっぱり』
「っ!!」
熱くなる私とは逆に、
熱のない手が、自分の頬に触れる。
見開いた先には、感情の消えたねるがいた。
「…っ、ちがぅ」
『違わん。同じ。』
「だって、私…、ねるのこと…!」
『……それは、ねるがサキュバスやけんさ』
ーー違う。 ちがうんだよ、ねる
そう思うのに、その体から手を離したいのに
吸い付いたように自分の手はねるの肌から離れない。それどころか、その肌をすべり全てに触れようとする。
まるで、
欲に掻き立てられた獣、それそのもののようだった。
『は、…、ん、』
いやだ、
やめたい。
『…ん、ぅ』
止まってほしい。
なのに、手が止まらない。
体と脳が別のもののように、言うことを聞かない。
「っ、……!ーー、」
こんなの、ほんとに。
『………ぁ!』
ーーーそこら辺のヤツらと、同じじゃないかーーー。
ーー……!、
もういやだ。
『あ、ん。……はぁ!』
こんなの、いやなのに。
ーーー……ぃさ!
好きで、好きで
仕方がないのに。
ーーーりさっ!
目に映る君は、私の名前を呼びながら、
泣いて
鳴いて
啼いていた
『ーーーー!』
「理佐ぁ!!」
「ーーーーっ!!」
声に引っ張られて、ぐちゃぐちゃの世界から引き上げられる。
さっきまでいた世界から離れた安心と、違う世界への戸惑いが占める。
ナいているねるもいない。
部屋は馴染みのある光景で。
布団はぐしゃぐしゃになっていたけれど、体を覆っていて
身体中がじっとりしていた。
体と脳は繋がっていて、自由に動いた。
ただ、呼吸だけが落ち着かない。
「、っ、はっ!、はぁ…、」
天井を見つめていた視線を移動させる余裕が出来て気づく。
君が、いた。
「……、ねる、?」
「理佐…、大丈夫、?」
苦しくて、
苦しくて。
心臓がぎゅうって絞られるようだった。
胸がせり上がって、息が詰まる。
喉がつかえて痛い。
汗でベタついた全身も、それにまとわりつく服も
熱を逃がさない布団も。
熱でバタバタと働く細胞。
状況を判断すると共に、
心臓が暴れだして、
布団を握る手に力が入る。
ただ、ねるがいる。それだけで。
理佐の体は忙しくなる。
「…………ね る、」
「………」
夢の中の言葉が反芻される。
自己嫌悪でいっぱいになるのに
ねるを好きでいることも、求めることも止められない。
それは、ねるの言う
『サキュバス』だからだって言うのだろうか。
「………ねるは、」
ねるは、なにも言わなかった。
ただじっと、理佐の言葉を待っている。
言うことがないという意思表示なのか、
ただただ受け入れる姿勢を見せているのか、理佐は分からなかった。
けれど、理佐は
苦しさを吐き出すように言葉を繋ぐ。
「ねるは、私の何を知ってるの…?」
ねるが私を否定するなら、
私も、
ねるを否定する。