Succubus


深夜過ぎ。最早夜なのか朝なのかの判別もつかない時間に、理佐は自宅のドアを開け帰宅する。

24時間も経っていない自宅がなんとなく他人の家のように感じられた。



「……おかえり」

「!」


愛佳を気遣い静かに自分の部屋へ戻ろうとしていた理佐に、声がかかり、思わず体がはねる。


「……愛佳、」

「…こんな時間に帰ってくんの初めてだね」

「………、」

「何考えてんの?」

「……別に、何も」


怒られている訳ではない、と思った。
でもきっと怒ってはいるのだと思う。

愛佳を見ることが出来なくて、理佐の視線は床に向かっていた。


「……まぁ。いいけど。とりあえず帰ってきて安心したわ。もう寝る」

「………」



バタンと、愛佳は音を立ててドアを閉める。
拒絶したように愛佳はドアを隔てた気もした。


一気に押し寄せてきたのは、自己嫌悪なのか罪悪感なのか、

はっきりとした理由も分からないまま、心は重りを抱えたように
ずしりと重くなる。


「………、」


空っぽな心に、蓋をして。開けられないように上書きをして。

重りまで掛けられたなら、それはもう潰れるしかない。



「………っ、ぅ」


でも。
上書きするつもりが、色濃い記憶はたった1度のそれでは意味がなかった。

むしろ、それを自覚して
より強く理佐を掻き立てていく。


「っく、ふ……、」


いつの間にか溢れ出した嗚咽は、自分の感情では止められなくて

せめてドアの向こうの愛佳には届かないように自分の部屋に逃げ込んで布団を被った。


ーーーねる。

君と出会ったことも君との記憶も
大事で大切だったのに、縋りすぎた宝物のようにそれはもう綺麗じゃなくなってしまった。


ーー『さっきの人も今までの人も…理佐も、ねるのことそういう風にするけん。』



「ーーーっ!」


手が痛むほどに布団を握りしめて、声にならない声を上げる。


…苦しい。苦しいんだ。

君をそういう風にしたやつらも、

君をそういう風にした自分も。



許せないーー………。








「理佐先輩、遊び行きませんか?」

「理佐ちゃん?今夜空いてる?」

「遊びにおいでよ」



毎日、といっていいほどにそれからの日々は多くの声と笑顔と裏が理佐をまとい始めた。それは、本人の耳に入らずとも『噂』が流れていると自覚できる程だった。

最初の子は、何度か接点はあったしそういうコトにも至っていて。世間一般的にはセフレという枠にもなってしまう気がしていたけれど、理佐にとってはどうでもいいことだった。

ねるへの想いの反動のように、声をかけてくる相手へと触れる。苛立ちをぶつけるように、強く上塗りするように激しさを増した。


そして、


「……だる、」


そんな生活を送ったのはひと月にも満たなかった。けれど、理佐の中では長らくそんなことを繰り返したように感じていて
崩れた心では気づかなかった、目を逸らして蔑ろにしていた身体は、徐々に蝕まれていたようだった。



朝から身体が重い。また風邪でも引いただろうか。

身体は熱く重かったけれど、熱を測る気も休んで労る気もなくて
むしろ壊れてしまったらいいとすら思っていた。

声を掛けてくる人達はそんな理佐に気づかなくて

ぼやけた世界で、喉が引っかかるように痛くなる。
何を求めているんだ、と問いかければ
泣き叫ぶ心は即返答した。



「……、」



そうしてまた、それに蓋をするーーー。

















ーーー「おい、理佐」

「ーーー、」

「大丈夫かよ、相手の女に変なの貰ったのか?」




頭がぼやける。

愛佳の言葉が耳を通るのに、頭に入っていかない。

どうにか視線を回して、いつの間にか自宅へ帰ってきていたことだけを理解する。

熱い……。



「………、」


理佐は目の前の愛佳を見つめているのに、焦点は合わず。いつまで経っても返答もなかった。



「……、倒れたんだよ。分かる?」



愛佳の言葉が溢れるけれど、それへの返答はやはりなくて。
愛佳は、以前ねるの置いていった冷えピタを貼り体温計を挟む。

スマホを持って部屋から出たと思えば、体温計の鳴る頃に戻ってきた。


「40.2℃……。知恵熱ではないね」


相手がいるのに、愛佳の声は独り言のようで。
浅い呼吸を繰り返す理佐を、見つめた。



「……、理佐。分かってるんでしょ」

「…、……、…」

「理佐は、……ねるも。離れて違う相手なんて無理なんだよ」



ーーーねる。

脳は敏感に、現金に。
その言葉に刺激されるように反応した。


「…、ぃ」

「え?」

「……るに、、ぃたい、っ」




掠れた声だった。

やっと出た言葉は、ろくな形にならなかった。


浮かされた熱の中。
ぐちゃぐちゃの心の内。

潰れた箱から漏れるのは、


隠して、埋めて、しまい込んだ




忘れたはずの、純粋な、たった一つの願い事。



ーーーねるに、会いたい。






「ーーー待っとけ」






あれだけ崩れた言葉を、愛佳には正確に届いたようだった。

どこか頼もしい声を、脳は受け入れて
理佐はまた意識が遠くなる。






君との別れが兆しを見せたのは、

今と同じ。


自分が熱を出した時だった。




また、


もう二度と。



君と会えなくなる別れと遭遇する気がして、強い不安に浅い呼吸がくっと詰まる。



それでも、遠くなっていく意識を繋ぎ止めることは出来なかった。




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