Succubus
遠くないはずの距離がもどかしい。
足には自信があったのに、もっと早くと苛立ちが募る。
周りの視線が背中に刺さる気がして、なんで、ねるにだけ届かないのか不思議でしょうがなかった。
ねる。
ねる、
君がどうしたいのかなんて、知るもんか。
私の声が届かないのなら、
今は言葉なんていらない。
分かってたのかもしれない。
だから、言葉より先に体が動き出してたんだ。
『ーーなっ、なんだお前、』
「っ、はぁ、は、…離して、ください、」
掴んだその腕は、細くて。
強引にすれば、折れてしまう気さえした。
『……あぁ、君もそうなの?』
「……え、?」
ーーー理佐の声がした気がした。
でも、ぼやけた頭は夢現の中で。それが幻想なのか、現実なのか分からなくて、それを探ろうともしなかった。
ただ、自分自身の中に理佐がいて、それだけで少し安心してしまった気がする。
引かれていた強引な手が止まって、自分の体も止まる。
それだけ。
引かれるがまま、
流されるまま。
ここ数日はそればかりで。止めた思考を再開させる気は全くなかった。
なのに。
荒い呼吸とともに、愛しい声が
脳を叩き起す。
ーーー「なん、ですか、そうって」
怪訝な顔の理佐に、男はニヤニヤと顔を綻ばす。それは気持ちの良いものではなかった。
『いや、かわいいね。ただ、誘うのはこっちの子かなぁ』
あ、でも全然イイんだけど。そう言う男の言葉から、考えていることが筒抜けのように降ってきて
理佐は不快感に襲われる。
早く。一刻も早く、その手からねるを引き離したかった。
「あの、離してください」
『なんで?おれ今からこの子と用があるんだよ、なんなら一緒においでよ』
「…っそういうんじゃないんです」
『そうなの?でも来たらいいのに、友だちなんでしょ?』
「だからーー!」
男を制止する理佐の手が弾かれる。
けれどそれは、男によるものではなかった。
弾かれた手がジンジンと痛んで、訳が分からなかった。
「……ねる、?」
「この子、そういうんやないけん…関わらんで」
『…ふぅん。まぁいいけど。じゃあ行こうか』
「………」
「まって!ねる!」
「やめて!」
理佐の声がねるの名前を紡ぐ。
それだけで、ねるは泣きそうだった。
探しに来てくれたんやろうか
守ろうとしてくれてるんかな、
どこまでも優しい、理佐。
貴女を、こんなことに巻き込めんよ。
「ねるっ」
「関係なかやろ、帰って」
「ーーっ」
拒絶する言葉が降ってくる。
今までだったら、その言葉に逃げていたかもしれない。
でも。
『逃げんじゃないよ、しっかりしな』
『ねるは理佐のこと想ってたよ』
『二度と会えなくなっていいのか』
ーーーーそんなもの、ぶち壊してやる。
「ー!!??」
「走って!ねる!!」
『っ、おい!』
理佐は2人の間に体を割り込ませる様にして、腕を引き離す。
ねるの腕を力任せに掴んで、走り出した。
後ろから男の苛立ったような声が聞こえて焦る。なにも考えずにねるの腕だけを気にして走る。
男は自分の追いつけない速さで走り去っていく2人を追いかけてくるほどの感情はなかったようだった。
それでも、それは後から気づいたことで。
理佐はねるの腕を引きながらしばらく走り続けた。
人波を抜け、少しだけ見慣れた景色が目に入る。走るペースを落としスマホで位置を確認すると、冬優花の家の近くまで来ていた。
「っは、はぁ……、結構、走ったね…は、」
「りさっ、手離して、っ、」
「っやだ、…はぁ、」
「……逃げん、けん。痛いと、」
お互い息を切らせたまま、途切れ途切れの会話をする。
ねるの言葉に、走ることに夢中になっていて、握る手に加減が出来ていなかったことに気づく。
ねるの動向に注意しながら、ゆっくりと腕を離す。ねるは目を逸らしたまま、開放された腕を反対の手で摩った。
「………ごめん、」
「………」
逃げる様子はないけれど、ねるは言葉を発さない。どこか拒絶されているようで、でも夢で見たそれとシンクロしていて
そこまで心は傷つかなかった。
それよりも、ねるが目の前にいることに心満たされていて。
少しやつれているように見えて、心配になった。
少しの沈黙の後、理佐は息を飲んで話を切り出す。ずっと伝えなければならないと考えていた。
「ねる、あのさ言わなきゃいけないことあって…」
ねるの返事はなくて、理佐の独白のようになる。反応がないことに不安はどんどん大きくなるけれど、例えどんな形だろうと伝えたかった。
少し喉がひきつる。所々震える声を抑えることは出来なかった。
「あの、夜のこと。嫌なことして、ごめん。でも、最低かもしれないけど…あれは、その、嘘じゃない、っていうか…」
「……」
「…風邪とかあったかもしれないけど、私ー」
「気にしとらん」
「、え、」
「ねる。淫魔やけん、理佐がそうなっても仕方ないと」
「……いん、ま?」
急な言葉に、理佐は理解が追いつかない。でも、ねるがこの場しのぎで嘘を言っているようにも見えなくて混乱していく。
ずっと逸らされていた視線が、この時だけ理佐に向けられる。
体の奥底を乱されるような感覚に襲われて、自分が嫌になった。
「……うん。やけん、さっきの人も今までの人も…理佐も、ねるのことそういう風にするけん。理佐は悪くない」
「ーーー…………、」
一見、理佐を擁護するような言葉が、理佐の心を抉る。
追いつかなかった理解も混乱した思考も、吹き飛んで。体の芯が冷えて、頭が真っ白になる。
心が抉られるのは、何も考えられない空虚だと感じられた。
「……ねるは、そう、思ってるの?」
「………、」
「淫魔とか、知らないよ。私は、ただねるが……」
ーー好き、だから。
……でも、
「ねるの中で、私はその人たちと同じなんだね、…」
「っ、りっ、!」
ゆっくりと。
じわじわと。
抉られたそこから、感情が滲み出す。
ようやく、思考が動き始めた。
でも、出来れば。まだ感情には眠っていて欲しかったと理佐は思う。
滲み出したそれは、傷口から溢れ出す血のようで。深ければ深いほどに止まらない。どれだけ塞いでも、隠しても、押さえつけても、
意識では止められない。
「そうだよね!あんなことしといて、自分は違うとか……、ない、…もんね」
「………」
情けないほどに声が震えて裏返る。
君の前だけでも、隠したいのに、体は言うことを聞かない。
ーーー君に誘われて、惑わされて。
好きの感情が爆発しそうだった。
君に会いたくて、君の孤独を願った。
来てくれて、一緒にいてくれて、笑ってくれて。
それだけで、風邪なんて吹き飛びそうで。
でも。君といたいから、熱が下がらないで欲しいと思ったりした。
君を泣かせて、最低だと思った。
でも、その行為だけはねるに嘘だと思って欲しくなくて謝れなかった。
君の噂を耳にして、体が灼けそうになった。
君を、君の体を、声を。知らない誰かが触れて聞いていると思うと、感情が抑えられなくて。
あの時、愛佳が腕を抑えていなかったら、現実に引き戻し理性を復活させてくれていなかったら
何をしてたか分からない。
そのくせ、君にたどり着くのは上手くできなくて
………。
でも、
そうか。
だからこそ、
私はその人たちと同じなんだね。
「……理佐」
「帰ろう、ねる。こんなこともうやめて」
「……、」
「ふーちゃんも、愛佳も心配してる」
「でも、」
「自分のこと大切にして。……ちゃんと好きな人とそういう、こと、…しなきゃだめだよ」
「……理佐、あの」
ねるの手が、理佐に触れようとする。
けれど、それに気づいた理佐はそっとその手から逃げる。
そうして、精一杯の笑顔を見せた。
「送るよ、ねる」
「………」
「みんな待ってる、からさ」
それが、どれだけ下手くそな笑顔だったか
ねるしか知らない。
ボロボロと流れる涙を、理佐は気づいていないとでも言うように拭うことは無かった。