Succubus
『りさ』
『………、』
あぁ、
ねる、だ。
『っ、ねる!探してたんだよ』
『ほんと?嬉しかぁ』
ねるの顔はよく見えなかったけれど、
言葉とは裏腹に、その声は震えていて泣いている気がした。
ねる。
どこにいたの、
何してたの
体は大丈夫なの、
泣いているの?
聞きたいことが、出ていかない。
君の唇に出口を塞がれて、何も伝えられない。
『…っ、んぅ……、!』
『……ふ、ぁ……。…りっちゃん、』
『……、ね、る……』
むせ返るほどの、甘い香り。
実際に香りはしないけれど甘く妖艶な香りが占める。
惑わされてしまいそうだった。
それが何に対してなのかも分からないくらいに。
『っ、ねる、!』
『…ふふ、好き。りっちゃん』
『ーーーっ!』
必死に出口を取り戻すけれど、
ねるの甘い声と、触れてくる指先に体が過剰な程に反応する。
言わなきゃならないことがあるのに、ねるのすべてで阻止されていた。
『、っんぁ!』
『………かわいい、』
ねる、
君は分かってるんでしょう?
私が何を言いたいのか。
私も、
君が何をしたいのか分かった気がする。
だから
そんなもの、ぶち壊してやる。
「ーーッ!!!」
世界が急に開ける。
甘い香りは微塵も感じられなくて、荒れる呼吸が耳について鬱陶しかった。
「…、はぁ…、は、……、なに、いまの。、」
ねるに会った。
夢の中だから『会った』という表現も正しくないのかもしれない。きっと、ねるのことばかり考えていたせいで夢にまで現れてしまったんだろうと理佐は思った。
しかし、今までの夢とは違う。
いつもは、甘く妖艶な香りに呑まれて欲が抑えきれずに理佐がねるを襲ってしまう。
なのに
今回は。
ねるが、襲っていた。
そして、どこか現実とシンクロするように理佐の意思を阻止していく。
唇は、濃厚なキスで埋められて
思考は、優しい愛撫で染められる。
体は撫であげられるように拘束された。
何も言えない。
交わせない。
それは、理佐のことなど受け入れられないとでも言うかのようだった。
「……」
ぞくり、と体が疼いて嫌気が差す。
夢から覚めても尚、ねるに埋め尽くされている…。
汗ばんだ体にシャツが引っ付いて気持ちが悪い。胸元のシャツを掴んでパタパタと動かす。ヒヤリとした感覚に少しだけ気持ち悪さが軽減した気がして息をついた。そして、
「エロい夢でも見たの?りっちゃん?」
突如すぐ近くから響いた声に、理佐の体が跳ね上がった。
「っ!!!」
「いだぁ!!」
反射的に振り上げた理佐の腕は、愛佳の頭を直撃した。
痛みで布団に突っ伏した愛佳の背中を見て、理佐は昨日のことを思い出す。
「…あ、ごめん」
「いったー。ちょっとりっちゃん、それが昨日一緒に寝てあげた人への反応ですか」
「……ごめんって」
頭を押さえながら不貞腐れるように見上げてくる愛佳に、理佐は手を合わせて謝罪の言葉を口にする。
ーーーー昨日。
理佐は冬優花に、そのままねるを支えてあげてほしいと返答をした。
呆れを含んだ声がスマホから響く。
『…理佐。あんたさ、』
「分かってる。でも、それじゃあねるは……私も、きっと逃げちゃうから」
『……』
「……だから、私がねるを見つける。」
もしかしたら、それは無意味かもしれない。
自己満足でしかなくて、その間にねるはもっと遠くにいってしまうかもしれない。
それでも、
理佐自身が意志を持って、ねるを追いかけて見つけるそのことに
理佐は、意味を求めていた。
それで少しでもねるに近づける気がした。
「間に合うのかよ」
「……。それは、」
『明後日』
「え?」
『明後日まで待つよ。それ以上はねるが心配だから無理。』
「……うん」
『理佐』
「……」
『逃げんな。しっかりしな』
「っ、」
『信じてるからね』
「うん、」
スマホの通話が切れる。
訪れたのは静寂だったけれど、理佐の目は下を向いてはいなかった。
理佐は握りしめていたスマホからねるを探してコールする。けれど、それがねるの声に変わることは無かった。
前を向いたからって不安がなくなったわけじゃない。現実は、怖がっていたそれと変わらなかった。
「…………、」
理佐はため息をつく。
もっと早くねるを追っていたら、ねるに繋げられたんだろうか。
もっと強くねるを求めていたら、離れることはなかったかもしれない…。
「で、なにからするよ、りっちゃん」
愛佳の声に、理佐は顔を上げる。
たらればなんて、今はいらない。冬優花に設けられた時間も
むしろ、ねるに何も無いという確証のない今。時間なんてあってないようなものだ。
「…時間が無いから、探すしかない。愛佳、知ってること教えて」
「うーん、でもなぁ。私もさよならって言われた側だし、よくはわかんないよ」
そう言って愛佳が出した情報は、冬優花の住所、噂の内容だった。
夜中でも冬優花の家に帰って来れる距離。
それが、ねるのいる可能性が高いところ。
それでもそれは、可能性でしかない。
「……、ねるの噂っていつから?」
「、ねるが消えてすぐだな。あー、ほら。変な色気あるだろ、ねるは」
「………。」
「なんだよ。ねるのエロい夢見てるやつに睨まれたかないわ」
「っ!うるさい!!」
真顔で言ってくる愛佳に、理佐は顔が熱くなるのが分かった。
なにが、という説明なんてしていないのに愛佳にはそれが筒抜けな気がして恥ずかしくなる。
少しの口論の後、講義を終えた学生たちが廊下に溢れ出して来たことでそれは終わりを告げた。
この日、思い当たる場所を探し回ったけれど
得られるものはなかった。
翌日になり、起き抜けのそれから着替えをしていると愛佳が案を出した。
「……そういう噂に早い人と接触した方が早いかもよ」
その言葉に、ある人物が二人の間に浮かび上がる。
理佐はほんの少しだけ表情を曇らせた。
「…あの手のタイプ苦手なんだよね…」
「そう?私はお堅いやつより好きだけど」
◇◇◇◇
『あ?なんだ、お前ら』
『女の子にそんな言い方するなよ』
『うるせぇ。女なんてオレの都合だろ』
『…はいはい。で、どうしたの?』
「あの、」
大学に着いてからその人達にはすぐ会うことが出来た。
俺様な先輩と優しそうな少しチャラい先輩。
モテるふたりは、そういう噂も絶えないし交流が広い。
情報通がいれば良かったのだけれど、あいにく理佐と愛佳はそこまでの人物を知らなかった。
「長濱ねるって子のこと、知ってます、か?」
『あー、なんかそんな変な名前の女聞いたな。興味ねえけど』
『俺も噂では聞いたよ。真面目な子だったんでしょ?君ら友だち?』
「はい。最近会ってなくて探してて」
『真面目な子だった』という過去形の言葉に、理佐は引っかかったけれど今は流すしかない。ねるの情報を得るのが先だと言い聞かせた。
優しそうな先輩は頭を捻って考えているけれど、俺様な先輩はスマホをいじり始めてしまう。
優しそうな先輩はたまたま通りがかった人にも、情報を求めてくれた。
『あ、ねえねぇ、あの噂の子。なんか知らない?』
ーーーあぁ、最近来てないんだろ?来てくれりゃあ相手してやんのに
ーーーばっか、お前。相手してやるとかじゃねーんだって。アレはやべーよ
『ヤバいって?』
ーーー近くにいるだけで持ってかれる?っていうの? すぐ夢ん中なんだから、
『お前何言ってんの?夢とか……』
ーーーそれくらいイイってことだろ?堪んねぇなぁ、なんだっけ?ながは……
「っちょっと!」
ーーーガン!!
ねるの名前で噂が更に広がってしまう!
そう気づいて声を上げようとしたとき、俺様な先輩が物音を立てた。
『!』
その音に、全員の口が止まった。
『うるせぇ。黙れ』
ーーはあ?
『こんなとこで女の名前出して下品な話すんなっつってんだよ。女に相手にされねーようなやつは黙ってろ』
ーーー!おまえっ
バカにするような口ぶりに、相手が手を伸ばす。けれど、それに慣れたように優しそうな先輩が間に入った。
『あー、はいはい。ごめんねぇ。口悪くて。こいつこう見えて女の子大事にするやつなんだよ。女性をそんな扱いするやつは大人しくしてた方が身のためだよ?俺も声掛けて悪かったけど、
君らじゃ腕でも敵わないから』
『腕"でも"』?
優しそうな先輩は、言葉の端々にいろんなタネを仕掛けていて
下手したら殴られるのはそっちなんじゃないかとも思えたけれど、屈託のない笑顔はそんな毒気さえ散らしてしまうようだった。
ブツブツ言いながらも去っていった友人らしき人からは大した情報もなく、噂の典型的な嫌な部分を見るだけとなってしまった。
『クズなうえに根性なしかよ。あれじゃ女も近寄らねぇな…』
「………」
『おい』
「っ、はい」
嫌な気持ちが胸の奥でくすぶっていると、急に声をかけられる。
『その女。探してんだろ?』
「そ、そうです」
目線はスマホに落としたまま、スイスイと指先を動かしていく。
『たぶんそいつ、乃木坂って駅にいるらしいぞ、なんか知らねぇけどダチで気づいてるやつがやけに多いな…ヤバいんじゃねぇの?』
「…!あ、ありがとうございます!」
『いくお優し〜』
『うるせぇかずや。お前も変なやつに話振ってんじゃねぇよ』
『ごめんごめん』
いくおと呼ばれた先輩は、スマホで情報を探してくれていたみたいだった。
愛佳と理佐は頭を深く下げて走り出した。
『若いねぇ。お友だち見つけられるかな』
『知るかよ。関係ねぇ』
「私は冬優花の家行ってるよ。万が一でもねるが帰ってきたら連絡する」
そういった愛佳に返事をして別れる。
あとは理佐が動くしかない。
じゃなきゃ、意味がない。
そう言われてる気がした。
駅に降り、改札を通る。
人の波の中からねる1人を探すのは、簡単なことではない。
見落としてないか、通り過ぎてないか
いくら歩いてもその可能性が付きまとって焦りばかりが押し寄せてくる。
間近で見ている冬優花が猶予を絞ってきたということも大きな不安要素だった。
「……っ、ねる…どこにいるの、」
大丈夫じゃない、どう見たって
もっと後悔することが起きているかも
もう2度と会えなくなっていいのか
真面目な子だったんでしょ
マジでヤレるんじゃね?
近くにいるだけで持ってかれる……
夢の中みたいなーーー、
「っ!!」
人混みの中心から離れた場所。
女の子に話しかける男性……、
髪の長い、ねるによく似た女の子ーー
その腕を、その人が引く………
その女の子がねるかどうかなど確認する前に、体が固まる。
思考よりなにより、本能が。直感が。
あの子は確実にねるだと警告を鳴らした。
これを逃せば、
君に会えなくなるーーーー
「っ………!!」
脳からの命令に体が追いつかずに固まる。
歯が数回ガチガチとぶつかって、
喉が引きつって息が詰まっていた。声を出すのに準備が出来ていない。
たった数秒の、もしかしたら一瞬のそれが堪らなくもどかしかった。
やっと動いたのは声よりも体で。
息を切らせて
必死に走って、
裏返ることなど構わずに声を張り上げる。
「ねるーーー!!」
でも、
君は背を向けたまま。
君にだけ、届いて欲しい言葉が
いつも
君にだけ、届かないんだ。