Succubus
翌日。
理佐と愛佳は揃って大学に向かっていた。
歩くうちに見える風景にも大して変わりはない。
理佐はたった数日前の日常がなんだか懐かしかった。
けれど、『それ』は小さな違和感から始まる。
大学に着いてから愛佳に知らなきゃいけないことを聞いてみても、やはり明確な答えはなくて。
「とりあえず、適当に講義受けよう。理佐がとってるやつある?」
はぐらかされているのか、それともそれすら謎解きのヒントなのか。
愛佳の意図すら分からなかった。
しかし、今の時間から始まる講義に理佐も愛佳もとっている科目はなかった。にも関わらず、愛佳は全く関係の無い科目の講義を示す。
「意味無くない?疲れるし」
「大学ん中ウロウロしてんのも疲れるだろ。私寝てっから、理佐も好きにしなよ」
「なら別に受けなくてもいいんじゃ…」
そうこぼす理佐を無視して、愛佳は教室の奥の席にカバンを置く。
理佐も仕方なくその隣へ座った。
講義が始まっても、大して面白みのある内容ではなくて。真面目そうな学生は前の方の席でノートを取っているけれど、理佐達の座る後ろ側の席ではぽつりぽつりと寝ていたりコソコソ話す姿がある。
(愛佳があんなに言うんだから、なんかあると思ったんだけどな)
もしかして、ねるがいるんじゃないか、
そう思って前の席に目を凝らしたりもしたけれどそれらしい後ろ姿は確認できなかった。
ふう、と椅子の背もたれに体重を預ける。
愛佳は本当に寝てしまっているようだった。
それでなくても長い講義を、意味も興味もなく聞けるほど
勉学に励んでいるわけではなかったし、大学の課題を進めるのも気分じゃない。
仕方がないから大して眠くもないけれど、理佐は眠ってしまおうと目を閉じた。
人間とは不思議なもので、
普段の雑音が目を閉じるとやたら耳について気になってしまう。
さっきまで、内容も分からなかった声たちが、少しずつ形を見せ始めた。
ーーー…が、らしいよ
ーーーえっ、だって、
ーーーだから
ーーーだって、いる…ん、渡邉さ…でしょ
ーーー………じゃね、こんどーー…
ーーーまじかよ
ーーーね…が……まじで、
ーーー俺も、たいなぁ
ーーー『マジでヤレるんじゃね、長濱ねると……』
「ーーーっ!!」
心臓が一際大きく脈打ち、脳を叩き起す。
反射的に振り向く。
けれど、どこから聞こえたのかは分からなかった。
後ろは空席で、最寄りの席の子は女の子だった。
受け入れられない言葉が、理佐の頭をぐるぐると回っている。
なにが?
どういうこと?
これは、なに?
「落ち着けよ、理佐」
愛佳の声がして、腕が掴まれていたことに気づく。
「ーーー……っ、」
焦燥感が全身を襲う。
それを抑えて、無理やりに向き直った。
落ち着いた様子からも、愛佳は知っていることは直ぐに分かった。
「どういうこと、愛佳」
「………。まだ講義中だよ」
話す気は無い。そう言われた。
ドクドクと心臓がうるさく鼓動して、嫌な汗が滲んでいく。
ねる。
君がそんな風に言われることなんて有り得ない。
何かの間違いだ。
きっとそう。
『マジで』という言い方なら、まだ真実ではないはずだ。
そう思いながら、頭半分では必死に雑談を探す。
さっきの理佐の反応から男性の声は薄れてしまったようだったけれど、女性の声はそれを火種に話を続けていた。
ーーーほら、渡邉さ…じゃん、
ーーー…ってさ。ーーじゃないの?
ーーーだから。やっぱり長濱さんは、……てるってことじゃん?
自分の名前。
ねるの名前。
ワタナベなんて、どこにでもある。そう珍しくない。
でも、きっと、それは自分のことを示している。
そして、どこかでねると重なっている。
そう言えばまだ、ねるの姿も見れていない。
別に大したことではない。普段だって昼食時に会えるのがほとんどだった。
そこまで講義も被らないねるとは、会おうとしなきゃ会えないことも多かった。
だから、ねるの姿を確認できてなくてもそこまで不安になる必要なんてないのに、ーーー
「、愛佳」
「………」
「ごめん、ちょっと出てくる」
未だ沈黙の愛佳に一方的に伝えて、教室を出る。
雑談をしていたらしき女性とも目が合う。
ねるのことを話していた男性は、ハッキリとは分からなかった。
教室を出て、廊下を早足で歩く。
ねるに連絡しようとして、手が止まった。
「………、」
なんて、言えばいい?
『ごめん』って言えたらいいのだろうか、
でもそれは、ねるを傷つけることにならないか?
だって、あの行為は確かに最低だったけれど
あの時の想いに、行為に。嘘はないんだ。
『ごめん』って言葉が、あの行為を間違いだと熱に浮かされただけだと認めるようで
理佐はそれ以上スマホを進めることができなかった。
廊下で立ち尽くす理佐に、声がかかる。
『あ、理佐じゃん』
「!、先輩…」
それは同じサークルの先輩だった。
『久々?じゃね?大丈夫なの』
「あ、風邪なら落ち着きました、、すみません」
『……?』
理佐の返答に、首を傾げる先輩。
その違和感に不安が増す。
「…なんですか?」
『……いや、うん。なんでも』
「……っ、噂、なんか知ってるんですか?」
『いや、俺も噂しか知らないよ。でも、理佐がそんな感じなら、噂は噂ってことだろ、』
ーー長濱ってやつも。
最後の一言に、全身が固まる。ビリビリと電気が走ったような気もした。
呼吸が苦しくなる。
心臓ばかりが全力疾走したあとみたいに暴れて、頭を上手く働かせてくれない。
なんとか振り絞った声を、先輩は拾ってくれる。
「ねる、のこと、…知りたいんです、けど」
『……なに、友達?』
「…はい、」
理佐より少しだけ上の目線。
先輩は、眉を潜めて理佐を見る。
悩むようにして、その視線を外した。
『ー……知らない方がいいこともあるよ。俺からは言えない、』
ごめんな。
先輩はそう言って、離れていってしまう。
きっと、先輩は優しい人なのだろう。
面白半分で噂を広めたりしない。理佐のことを『大丈夫なの』と心配したのも、理佐の反応から噂を否定したのも
その人柄だ。
理佐は、そんな人に問い詰めることなんてできなかった。
ピロん、
手に握ったままのスマホがメッセージを伝えてくる。
愛佳『どこ?』
理佐『外の廊下』
愛佳『どこまで分かった?』
理佐『ねるに変な噂が流れてる、内容はわかんない』
愛佳『ねるに連絡した?』
理佐『…してない』
愛佳『へたれ』
ポンポンとスムーズに行われていたやり取りはそこで止まってしまった。
連絡しろってことだろう。
けれど、理佐の思考は新しい答えの兆しも掴んでいない。
出てもらえなかったら?
拒否されてしまったら?
そんな未来が怖くて、理佐はスマホを進めることが出来ないまま
その場に立ち尽くしていた。