Succubus
覚醒と同時に、汗で張り付く不快感に襲われる。
遮光のカーテンの隙間から陽が漏れこんでいて、外は晴れて快晴のようだった。
しかし
気分は、あまり良くない。
のそのそと起き上がり、布団から出る。
体の熱やだるさは少し和らいでいた。
それでも、籠る熱とそれと共に現れる汗がとにかく邪魔で苛立ちすら覚える。
「……んん"っ、うあー、喉いた…。体ベタベタだし…、 」
言葉を発そうとしてのどの痛みに気づく。
典型的な風邪だな、と思った。
不快感から逃れるために、ドアを開けて部屋から出る。
その先に待っていたのは、予想外の状況で言葉が詰まった。
「おはよ、理佐」
「…………ふー、ちゃん…?」
「そ。高校ぶりだね」
目の前でキッチンに立つ。笑顔を見せる女性は、
高校の同級生。齋藤冬優花。
大学に入ってから…むしろ高校卒業から1度だって会うことがなかった。仲が悪かったとかではなかったしむしろ仲が良かった方だけれど、高校という世界から出て新たな別の世界に別れてから
なかなかタイミングがなかった様に思う。
それが、なぜ。
自分の家にいるのだろう。
「………なんで、」
昨日、自分はどうしていた?
不快感が邪魔で思考が上手く噛み合わない。
「んー、まずは着替えてきたら?汗すごいよ。ああ。タオルで拭く?シャワーにしとく?」
昨日。昨日は……、
「ふーちゃん、」
「ん?」
昨日は。
「…………ねるは?」
そうだ。昨日はねるがいてくれた。
頭を撫でてくれて、
そばにいてくれた。
笑ってくれていたんだ。
「……、とりあえず、着替えてきな。気持ち悪いでしょ」
「っふーちゃん!」
理佐の問に答えず、冬優花はコンロに火をつける。
目は、下を向いたままだった。
答えてくれない態度に、理佐は焦燥感に襲われて冬優花に詰めよろうとしたけれど、その瞬間冬優花の突き刺すような視線に抜かれて、その行為は止まった。
「―………、着替えて、お粥食べなよ。昨日はあんまり食べれなかったでしょ?」
「ーー………」
更衣を済ませて、リビングの椅子に座る。
渡されていた体温計が測定終了の音を鳴らした。
その音に冬優花も反応する。
「何度?」
「37.2℃、」
「下がったね。まあでも、食べたらまた寝なよ?」
「………」
そういって、見覚えのある卵がゆが目の前に並べられる。
「ふーちゃんが作ったの?」
「違う。……ねるだよ」
「………、」
ねる。
夢じゃない。
昨日、ねるが作ってくれた。
………夢じゃ、ないんだ。
冬優花は理佐と向かい合う席に腰を下ろし、腕を組むようにしてテーブルに肘をつく。
また、目は理佐を映さなかった。
「昨日、遅くにねるから電話があってね、呼ばれて来たの」
「………」
「まさか理佐の看病だとは思わなかったけど。あ、今日の夕方には愛佳戻れるってさ」
「………そう。ごめん、迷惑かけて」
「びっくりしたけど、迷惑なんて思ってないよ。ただ、悪いけどあたしもこれから仕事でさ。あとは大丈夫そう?」
「うん、熱も下がってるし寝てるよ」
「ほんとごめんね」
「ううん、……」
お粥から出る湯気が、勢いを失くしていく。
それでも、理佐の手は上がらなかった。
「理佐」
「………、」
「こんなこと、あたしが言っていいのか分かんないし多分口を挟むべきじゃないと思うけどさ」
ーーーねる、泣いてたよ
その言葉が、来ると分かっていたのに
その言葉は、理佐の胸を冷たくする。
「…………っ」
「……何があったか分かんないけど、ちゃんと話した方がいいと思う」
「………うん、」
いつからか、冬優花は理佐を見つめていた。理佐も何となくそれに気づいていたけれど顔を上げることはしなかった。
「感情で泣くのは、人間だけなんだってさ」
「…?」
「人間の泣くって行為は、その感情を誰かに伝えたくて起こる現象なんだって」
喉が痛む。
風邪のせいだと言い聞かせるように唾を飲み込む。
たったそれだけの行為が、酷く苦痛だった。
「理佐も、ねるも、伝えたいのはあたしじゃなくてお互いなんだと思うからさ、」
冬優花の柔らかい声が届く。
言葉の意味を理解するのに少し時間が必要で、冬優花にティッシュを目の前に置かれて、理佐は自分が泣いていること気づいた。
「全く、一晩で泣いてるやつ2人も見るなんて思わなかったよ。痴話喧嘩に巻き込まないでよね」
「…ごめん、」
「………いーよ。2人とも変わってなくてむしろ安心した!またみんなでご飯でも行こ」
場を明るくさせようとする気遣いが伝わってくる。申し訳なさと不甲斐なさが、理佐の心を覆おうとしていた。
冬優花はカバンを持って立ち上がる。その音に、理佐は顔を上げた。じゃあ、と久々の再開に終わりが告げられる。
「ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝なよ。あたしが怒られちゃうから」
「うん。ありがとう」
「……ねるのこと、あんまり泣かせんじゃないよ」
「……うん、」
「……じゃあ、またね。」
冬優花を見送って玄関の鍵を閉める。少しだるい身体を引きずって、またリビングの椅子に座った。
少し冷めてしまったお粥は、食べやすい温度のように思う。
「いただきます、」
口に運んで飲み込む。少し痛む喉をゆっくりと通過していく。
昨日と変わらない味がした。
記憶は朧げだけれど、理佐の中には残っている。
恐れていたことを、現実に起こしてしまったんだ。
「………、」
『やめて』『やだ』と言っていた。
腕を回して、身を守るようにその身を固くしていた。
夢ではない。現実だ。
ねるを、泣かせてしまったんだ。
「……もう、会えないのかなぁ、ねる……っ」
止まったはずの涙が、溢れ出す。
この涙は、感情は
一体誰に伝えたくて溢れ出すのだろう。
そんなの、答えは1つなのに、
君に会うことはもう、叶わないような気がしていた。
ーーーー
「ひでぇ顔。」
「……うるさか、」
愛佳から掛けられる言葉に、可愛くない返答をする。心が荒れていると自覚できる程だった。
「…理佐は?」
「ふーちゃんに、任せてきたと。熱下がってご飯も目の前に置いてきたって」
「そ。……ねるは大丈夫なの?」
「……ダメかもしれん、」
「………」
「油断しちゃって、…理佐のこと傷つけちゃったけん」
「……ねるもだろ」
「え?」
「確かに理佐も今頃凹んでんだろーけど、ねるだって傷ついてんじゃん。自分のこと置いてけぼりにするなよ」
「ーーー……、」
昨日。
ねるは涙を零しながら、理佐をベッドに戻した。
嗚咽が止まらなくて、理佐がもう一度目を覚まして
その目に自分を映してくれないかと
泣いている自分を見て、優しく抱きしめて欲しいと
卑しい願いを込めた。
でも、理佐は目を覚まさなくて。
叶わなくて思い知らされる。
下劣な自分に嫌気がさす。
どこまでも卑しい。
なんて、醜いんだろう。
そんな、
貴女を傷つけた自分を大事にできるはずがない。
どこかで線引きしていた『サキュバス』と『長濱ねる』は、
なんの違いもなかったんだ。
ねるの脳裏に、泣きながら自分を見上げる理佐が過ぎって
ねるは、抵抗をやめた。
ーーーもう、いいや。
愛佳に体の異変が籠る。
熱いようなゾクゾクするような、
欲情。
「、ねる……?」
「ありがと、愛佳。もういいと、ごめんね」
ねるの声に、愛佳にある感情が湧き上がってくる。
「……っ、おい、!」
あるはずのない、感情。
これは、覚えがある。
「………さよなら、」
ねるが理佐を想う時、だらしなく笑顔をこぼす時。隣にいれば少なからず触れてきた。
けれど、そんなものと比べられない程の強烈な香りだった。
止めたいのに、近づけない。
きっと、触れればねるを襲ってしまう。
自分の欲を止めることしか、愛佳には出来なかった。
自分の身体を押さえ込んで、歯をくいしばる。
ギリっと。音がたった気さえした。
「ばかやろ……!」
ーーーサキュバスの抑制外しやがって、、!
ねるは自分の身を守るためにも
生活をするためにも
サキュバスである本質を抑制し隠していた。
けれど、
ねるの中で、サキュバスと自分自身が一致し、
ねるは敢えて
その箍を外した。
それがどういうことになるかなど、
ねる自身が1番理解していたのに。