家庭教師×生徒
冬が終わり、春が来て
桜は卒業式より少し先にピークを迎えて、入学式の時期には葉桜になっていた。
そんな春も、もう終わる。
───、────、
「………」
心地よい講師の声が、音としてすり抜けていく。私は頬杖を付いて、書く気のない指先がペンを持っていた。
ノートはやはり、講義が始まって数行文字が書かれたのみで
過ぎた時間を考えるとなんとも無駄なことをしているなと自覚する。
とはいえ、何をする気にもならない。
「………」
耳は完全に音を雑音にして、脳内は別のことを考え出す。
数十分書く気を見せなかった指先は、意思を持ってペンに力を込める。
「………、、、」
──何も見ずにかけるなんて、ストーカーかよ。
羅列された文字を、乱雑に書き潰す。
よく見えなくなったのを確認してノートを閉じた。
長濱さんからの連絡は、何も無い。
卒業も合格も入学も知らない。
あの電話が最後で、
由依の言葉で、長濱さんに関する話題も聞かなくなった。
愛佳たちなりの気遣いなんだと思う。
振られたし、振った。
その先に、まだ繋がりがあるかもなんて都合がよすぎる。
「理佐、……今日の、来るでいいんだよね?」
「、うん。終わったら行くよ」
愛佳がどこか神妙に 声をかけてくる。
了承を送る私に何か言いたそうだったけれど、何も言わなかったのは
私の思いをくみ取ったからだろうか。
「………」
やっと心に巣食っていたものが薄れてきたんだ。
だからこれから、ゆっくり、消えていくんだと思う。
顔も、声も。 熱も、香りも、。
忘れたいわけじゃないけど、覚えていることに固執はしない。
こうやって次へ行くまで引きずるのは、きっと、失恋ってやつなんだと思う。恋をしていたと理解していたのに受け入れることは出来ていなくて、今の心境に落ち着くまでに相当かかってしまった。
君は、どう思っているかな。
大学で、好きなことに進めていたらって思う。由依の言った、やることを達して
長濱さんの後悔しないところに向かえたら……。
「お姉さん、ここ、次なんの講義ですか?」
「! え?、あぁ、えっと…」
突然見知らぬ人に声を掛けられて戸惑う。
そうしてハッとした。さっき愛佳に声を掛けられたんだから講義は終わってたんだ。
全然気づかなかった。
次の講義に合わせて人が入れ替わり、私はそれに置いていかれているのだと、その人の声で理解して慌てる。
「すみません、私もちょっと分からなくて」
「……」
私の声に相手の人は返事をしなくて。
そりゃ当たり前か、と思いながら少し慌ただしくノートやペンをしまう。
「!!?」
そんな私の手を、その人は掴んで止めた。
「えっ、と、あの……」
「ねぇ、今日、どこ行くの?」
「……っ、?」
心臓が跳ねて、警戒心に体が固まる。
手を振り解いて出ていけばいいのに、動かない。
さっきの話聞いてたのか!なんて、なんの解決にもならないことを考えていた。
「っすいません、急いでるんで!」
手を振り払い、講義室を出る。
久しぶりに走って、急な出来事にびっくりしてしばらく心臓はバクバクとしていた。
新手のナンパだったんだろうか。
そんな女同士のなんて、滅多あるもんじゃないと思ってしまう。だとするならあれはなんだったんだ。
手を握られて、どこに行くのか問われて……。
────
…あんな風に声をかけられるならそういうことに慣れているのかもしれない。
私にどうこうというよりも、ただこういう機会に来たかっただけなのかも。
「どうしたの?」
思考が飛んでいることに気づいたのは
今日初めて会いながらお酒を交わす相手で。楽しいはずの飲み会は、現実に引き戻されて浮かれることが出来なくなる。
「いや、なんかここ来る前にどこに行くのか手掴まれてさ。知らない人だったんだけど、来たかったのかなって。そうだとしたら申し訳なかったなーなんて…」
「ええ?そんなの怖いよ。そもそも急に来ようとするなんて変な人すぎ。知り合いでもないのに。理佐が気にすることないって」
「私たちだって今日初めて会ったのに?」
「愛佳の紹介でしょ。そういう目的で時間を合わせて会うのと急に知らない人が来るのじゃ全然違うじゃん」
「まぁ、そうだけど」
講義室から出た後、落ち着かなくてそのまま待ち合わせ場所に来た。少し早いはずが既に愛佳は来ていて、私が来ると驚いた顔をしていた。
それに何かあったのか聞けば、『こっちのセリフだよ』とよく分からない返事をされたけど、そんなに顔に出ていたんだろうか。でも息は切れていたし、しばらくは周りに気を張っていたからきっとそうなんだろう。
「理佐、顔みてないの?」
会話に割り込んできたのは愛佳で。
片手に持っているのはお酒のはずなのに、その顔は真剣で酔ってる感じはなかった。
理佐「え?」
愛佳「そいつ。知らない奴が急に手掴むなんて怖いじゃん」
理佐「びっくりしすぎて見てない」
愛佳「……声は?」
理佐「………知らないよ。何なの?」
食い下がる愛佳に苛立つ。
なぜ自分がそう苛立つのか分からなかったけど、たぶん相手との会話を邪魔されたとか、楽しいはずの場で警戒が足りないと暗に指摘されているんじゃないかとか
そういう不快感のせいだと思うし
それが隠せないのはきっと、お酒のせいだ。
「大好きなりっちゃんが失恋で弱ってるから楽しませてって呼んだくせに、何絡んでるの」
愛佳「!」
理佐「……友香、」
友香「心配しすぎだよ。理佐なら大丈夫」
愛佳「はいはい」
友香の仲裁に、愛佳は何かを諦めたように持っていたグラスを口元へと傾けた。
私もそれに合わせてお酒を口にする。
愛佳が私を気遣ってくれているのは知ってる。長濱さんとのことも、きっともっと口を出したいのに我慢しているのも分かってる。
愛佳が何となく怒っているのも気づいているけど、でも。
どうにもならないって分かってるから、お互いに触れないまま。
友香「家庭教師のバイト辞めたんだっけ?」
理佐「うん。今は居酒屋」
友香「そうなんだ。家庭教師探してるからやってくれないかなって思ったんだけどどう?」
理佐「…私じゃ役に立たないと思うよ。それに、私、人に教えるのあんまり向いてないって思うし」
友香「ええ?理佐なら面倒見良いしいいと思うけどな」
理佐「ありがと。でも、今回はごめん」
友香「ううん。こっちこそ」
家庭教師はきっと、もう二度とやらないと思う。
それは………
愛佳「そういえば、遅れてくる人、大丈夫?予定より遅くない?」
友香「あぁ、さっき連絡あってもう少しで着くって」
理佐「友香の後輩だっけ?」
友香「そう。1年生なんだけどサークルが一緒なの。すごく頭良くてね、いい子なんだから」
友香の大学は、私や愛佳の大学より全然レベルが高くて。大学名で就職が決まるくらいの有名なところ。
そんな友香とこうして飲み会をするくらいの関係なのは、愛佳のコミュニティの広さのおかげだった。
その繋がりで私も友香と知り合って、大学が凄いところなのはあとから知った。
愛佳「可愛い?」
友香「ふふ、可愛いよ。」
理佐「………」
愛佳「へぇー。可愛くて頭良くていい子。そんなのいる?」
確かに。成長する程に怖いことも知るし、人間の嫌な所も分かるし、それが自分の中にあるって気づいて
それが防衛に繋がっていくんだ。
相手とも、世の中とも。
愛佳「友香は?この後」
友香「茜が迎えに来るよ」
愛佳「え。遊ばないの?」
友香「茜と3人で遊ぶ?」
愛佳「それは素敵なお誘いだけど、茜に潰されるわ」
友香「あは。茜は体力すごいからね」
ニコニコで話す友香とは反対に愛佳は苦笑いで口角を上げていた。間違っても茜とは遊ばないだろうな、色んな意味で。
愛佳「理佐は?」
理佐「……どうしようかな、」
帰ろうかな。
もう少しで着くっていう後輩ちゃんを待って、普通にお酒飲んで。
頭が良くて、いい子で、可愛い。そんな子がいるなら心洗われるかもしれない。
「理佐、私と飲もうよ。私、理佐のこと好きだよ」
「、ありがと」
「あ!その反応は逃げるつもりだ。悩んでるくらいなら私と飲もうよー」
「あはは」
初めて会ったその人は、元気な人で。
物事をはっきり口にする、でも嫌味さや毒気はない。
飲んでたら、楽しい人。もし、触れ合うことがあっても、良い意味で引きずらないタイプ。
理佐「……そうだね、どこがいい?」
もしかしたら、心に巣食ったソレも薄れるかもしれない……
「……せんせー他の女の人と遊んでると?ねる、頑張ったのに」
「────………は、?」
脳が混乱して呼吸が出来なくなった。声帯が引き攣り、声も出せずに。
心臓さえも信号が途切れたみたいに冷えきって、血の気が引く。
それでも、耳と目だけは。
目の前のそれを脳に伝え続けた。
長い、黒髪は
少し明るくて。
制服に包まれていた身体は、大人びた格好で飾られていた。
声は、変わらなくて
消えそうだった記憶を色濃く思い出させる。
こんな、女性だっただろうか、、、。
あぁ、でも。
目元やその狙ったような顔は、変わらない。
「……先生?」
「…長濱、さん。こんなところで何してるの?」
飲み屋の席を覗き込んできた彼女は、当然のように私の隣に座る。
その雰囲気に、あの手を掴まれた瞬間が蘇った。
「!、あの…時の」
「ふふ。先生、全然気づかないけん、ねるのこと忘れちゃったのかと思った」
「……、」
長い髪を耳にかけて
長濱さんの横顔が、きれいに見える。
そうしてゆっくり、見上げるような視線に射抜かれた。
「せんせー、ねるのこと見て」
「…………見てるよ」
「ほんと?」
惚けた私の言葉に、ねるが、笑う。
可愛くて愛らしい。
でもどこか、小悪魔みたい。
この笑顔を、私はあの頃何度見れていたんだろうか。
「ね。ちょっと外行こ」
「え?でも」
「だめ。他の女の人んとこ行かんで」
「───…」
感動の再会
偶然の巡り合わせ
そんな綺麗なものじゃない。
そんな感情は、彼女の中にない。
長濱さんはあの頃より強くて、その姿に全部彼女の計画通りなんだって分かる。
だから、愛佳も、友香も、誘ってきていたあの子ですら、一つの声もあげずにいるんだろう。
「……ふふ」
「なん?」
「ううん、なんでもない」
素直に、彼女がここにいてくれて嬉しいと思う。
先生とか、高校生だとか
将来を決める分岐点だとか
後悔するかもしれない
そうなったとき責任なんて取れない、
そんなのが無くなって、目の前に彼女がいてくれる、それだけに
こんなに心が浮かされるなんて思わなかった。
でも、とりあえず
私は聞かなきゃいけないだろう。
「長濱さん、なんでここ所にいるの?」
そうして、長濱さんは
少しムスッとしながら笑う。
「理佐に会いに来たと」
───先生なんていらんけん、ねるのこと呼んでよ。
あの、電話口での言葉の意味を
私はやっと理解する。