家庭教師×生徒
「2次ならまだ間に合うよ。でも急にどうしたの?何かあった?長濱さんがあの大学にこだわらないなら、もっと上もあるからいい選択肢かもしれないね」
はい。担任の先生からそう言って渡されたのは、2次受付を構えている大学のパンフレット。先生がいる大学よりランクは上だけど、学力的にはまだ手が届く。
「………」
「もっと上がよかった?」
「…一応もらってもいいですか?」
「うん、待ってて」
特に希望もなかったけれど、そうすべきかもという圧に押し出されて言葉が出ていった。追加でもらったパンフレットを抱えて教室で鞄にしまう。
広がるばかりの選択肢と重なる紙に意味が感じられなかった。
やりたい事。
本に関わる仕事、。
でも、いくら考えても喉のつかえは取れない。
「──……」
この正体がなんなのか分かっている。
けどそれは正解じゃないって、知っている。
「ねる?帰るん?」
「!みいちゃん」
「浮かん顔やね。また先生に意地悪されたんか?」
「……」
教室に荷物はひとつも見当たらなかった。だからもう帰ったと思っていたのに、みいちゃんは鞄を背負って教室の入口に立っていた。
「…みいちゃんこそどうしたと?帰ったと思った」
「…そろそろねる戻ってきたかなと思って」
「え?」
「何かあったんやろ?ここんとこ元気ないやん。ふーちゃんも土生ちゃんも心配しとるで」
「……ありがと」
心にぽっかり空いた穴。
何かが抜け落ちたみたいな思考。
日常は過ごせるのに、頭の中の通常は崩壊している感覚。
何かあったというには、先生との出来事は大きかった。
なのに誰も気づいてくれないから、傍から見たら大差ないんだと思っていた。
「…先生、辞めちゃった」
「え?」
「ねるの、将来のために、離れなきゃいけんって。ちゃんと、将来のこと考えてって」
「……」
もっとたくさん、先生は何かを言っていた。
選択肢を無意識に無くすには早いとか、
先生のいる大学には専門がないとか、
でも、そんなのは、今ここで話すには重要性は低くて。
ねるはただ、先生が辞めちゃったことと、離れてしまったことだけが、辛くて仕方がない。
みいちゃんは『そっか』と呟いて、あの静かなみいちゃんの足音が身近に感じられるほどにまで近くなる。
「…辛いな、」
「……、っ」
「好きな人が離れてまうんは、悲しい」
「──……」
みいちゃんの、優しい声が、喉を締め付ける。
苦しくて、力が入って
持っていた鞄はシワを強くした。
中で束になっていた資料が、くしゃりと歪んで音を立てる。
「……─こんなん、意味あると?」
「……、」
「こんな、偏差値が高くて、将来の選択が増えて…大事なことやって分かるったい、。でも、こんなの、ねるに……意味なか、!」
酷い矛盾だと思う。
頭では分かってる。大事なことなのも、ねるのやりたい事に手を伸ばせる場所にいくことが大学受験で考えるべきことなのも、
──やらなくちゃならないことだって、分かってる。
でも、
感情は。
そんなのは二の次で、好きな人の近くにいたい。雨の音を一緒に聞きたい、ラウンジで夕日も見たい、
先生の横で、笑った顔が見たい、。
なんの強制もなく『ねる』って呼んでもらって、
なんの理由もなく『理佐』って、呼びたい…。
──やりたいことが、たくさん溢れてる。
でもそれを『目の前の欲望だけに囚われるな』と言われたら何も言い返せないし、
きっと先生はそれを言っているんだと、役目や常識に塗れたもう1人の自分が、後ろから指をさす。
「…ねえねる。土生ちゃんな、違う道進むんや」
「─……、」
みいちゃんは、近くの椅子に座って何を見るわけでもなく話し始めた。
ねるからはみいちゃんの横顔しか見れない。
「土生ちゃん、大学に進まんで就職したいんやって。一緒の大学行こうって誘ったんやけど、振られた」
「…うん、」
「でも、うちはまだ何やりたいとか決まってへんから。もう少し探したい。そのために塾にも行って、うちにはレベル高いとこ目指しとる」
「………」
好きな人と、進む道を違えても──
ぞわぞわと脳内が黒く染まるのが分かる。
それは、
それは。
それが当然だと言いたいのだろうか。
好きな人と違えたって、将来のために、この先のやりたい事のために、
学力が高くて選択肢の増える大学に。
みいちゃんがそんなつもりで言ってるわけじゃないって思うのに、黒い感情に塗りつぶされていく。
「……えらかね、」
「………」
「あはは、今嫌味っぽかったばい」
折れた資料から力を抜いて、手のひらを押し付けながら伸ばす。
それでも一回折れたら元には戻らなくて、ひしゃげたそれはねるの心みたいだった。
だってらこんなにも心は黒く歪んで、上手く笑えないし、喉が痛くて引き攣る。
なんで泣きそうになってるのかと悔しくなる。
あぁ、いやだ。
友達を悪く捉える思考も、この感情も。
感情が捨てられたなら、効率的に、賢く、やりたいことなんて切り捨てて進められるのに。
─そうか。もしかして、みんなそうなのかもしれない。なら、ねるも。そうするべきなのか──
「でも、ねるは先生の大学進んだ方がええよ」
「………へ?」
「そんな泣きそうになりながら、やりたいこと捨てて進むことに意味があるなんてうちは思わん」
「──、でも、みいちゃんは、」
「ねるはさ」
「、?」
「うちが見てきた中で、先生と会ってからが1番ねるらしかったと思う」
「え?」
「先生捕まえるために自分の家庭教師にするとか、勉強頑張って先生の名前とか連絡先とか知って。すごい女の子やった」
「……それは、」
ただ、先生を、
「悪く思わんで欲しいんやけど、ねるって賢いやん。頭良くて、周りに気を使うて、にこにこして、なんか、優等生って感じ」
「……」
「せやから、」
確かに、自分は所謂優等生だと思っていた。勉強は好きだったし周りに気を使う、空気を読むなんていうのは『勉強が好き』って思うより前からだった。
そして、それがアイデンティティでもあった。
「うちは、ねるのこと応援する」
「───……」
「好きなことしよ?ねる」
まっすぐねるを見る強い目。
迷いも繕いも誤魔化しもない。
みいちゃんの白い肌が、黒い瞳を際立たせる。
「…………」
「ねる?」
「──……、、」
──世界が開ける、というのはこういう感覚だろうか。
視界が明るくなって
吸う息が軽い。
喉のつかえは、みいちゃんが取り除いてくれたみたいに消えた。
「おーい」
「………なに、起きてるよ」
「なんだ。放心してるんだと思ったのに」
ラウンジ。
テラス席。
空は、快晴。
ぼんやり眺めていた私の後ろからかかった声に、残念ながら脳が正常に動いて
数秒迷ったけれど無視しても意味無いかとたどり着いた。
愛佳「何凹んでんの、振ったくせに」
理佐「だから別に凹んでないってば」
愛佳「講義サボってる時点で凹んでるじゃん」
理佐「別に、今日は行かなくてもいいやつだし」
愛佳「へえ?」
理佐「……」
後ろ指さされる気持ちだったけれど、声の主は私の事なんて見ていなくて
なんの承諾もなくテーブルを挟んだ向かいの椅子に座り、外へと視線を投げていた。
愛佳「………」
理佐「…………、」
愛佳「そんな見ないでよ。イジりに来ただけだよ」
理佐「……」
責めないの?、そう思って、責められたいのかと気づく。
あまりに勝手。
あの子の意思を無視した突き放し。
でも、どの道私が家庭教師でいることに意味は無い。
……あぁ、でも。それこそが私がねるから逃げるための口実だったのかもしれない。
選択を奪い、占領して。
それを自覚した上で、そばに居続けるなんて。私はそんなに強くない。
背負いきれない。その選択を、この先ねるに『間違ってた』『こうすれば良かった』なんて、背を丸めて泣いたり、背を向けて拒絶なんてされたら……私はねるに何もしてあげられない。
「理佐」
「、」
「スマホ、鳴ってるよ」
「え?あ、」
着信を知らせるスマホ画面を開くと、そこには思いを馳せるあの子の名前だった。
「──、」
「……出ないの?」
「……、、」
分からないけど、怖いと思ってしまった。
ただ不安だったのかもしれない。でも、止まった指先を動かすことは出来なくて。そんなことしてる間に着信音はプツリと切れた。
「……」
「…、今度は私か。……はいもしもし」
罪悪感と安心感に『不在着信1件』の画面を眺めていたら、愛佳のスマホが視界に入り込んだ。
顔を上げれば、『通話中』の画面が突き出されていた。
──まさか。
「……」
「ねるから。理佐に代われってさ」
この行動力に、私はいつの間にかねるの手中に落ちていく。