家庭教師×生徒


「本当にいいんですか?」

「はい。身勝手なことをしてすみません」

「……いいえ。もう受験も間近ですから、よそ見をしている場合でもないでしょう」

「……はい」



「──……」




◇◇◇◇◇◇◇





不安で、怖くて。

家庭教師の日が、早く来て欲しいのにこのまま時間が止まって欲しいと強く願ってみたりした。

結局早く来ることもなく、時間が止まることも無く。不安と恐怖感が入り交じる1週間が経ち、先週の1時間後には、私は先生にこの先ずっと後悔する一言を放っていた。


──ねる

「っ!!」


ドアの向こうから、お母さんの声。

その先に続くのが『先生今日お休みだって』なのか、『先生来たよ』なのか。
怖くて立ち上がるのに、ドアを開ける勇気はなかった。

声が分岐点のようで、聞き逃さないように目を閉じる。














「どうしたの、立ったままで」



「──え、?」



目を開ける。

視界が開ける。


目の前には、先生がいた。




「……、、ぇ、??」

「あはは。ねる、間抜けな顔してる」

「え、お母さん、?」

「あぁ、大丈夫ですって降りてもらっちゃった。用事あった?」

「ない、けど…」


ないけど。

なんでそんな、何もなかったみたいに普通にここにいるの?


──あぁ、でも。前にもそんなことあった。ねるだけが、緊張して、不安で。問題を間違えて…。


「……。宿題、やってくれたんだね」

「……はい、」

「……今日は先に話がしたいんだけどいい?」


先生は机に出しておいた問題集を慣れた手つきで開いて、確認する。
そうして、立ち尽くすねるの手を引いて、ベッドに座らせた。

先生は、小さい子をあやすみたいにねるの足元に座って、優しい声で話し始める。


「……この間は傷つけてごめんね」

「……、」

「ねるのこと、突き放すつもりはなかったんだよ」

「…!」


先生の声が少し悲しそうで、苦しくなる。
ねるはあのセリフを、先生との別れになるって、嫌われたかもしれないって思っていた。もう二度と会えなくなることばかり悲観していた。
けれど、ねるが思ってきたよりずっと先生を傷つけてしまったのかもしれないって今目の前の先生を見て初めて気づいた。


「…ねる、?」

「……ごめんなさい、」


先生が気を使って『ねる』って呼んでくれること

意見をぶつけるんじゃなくて、差し出すようにしてくれてること。

……大人の対応を、してくれてること。


「ねるのこと、子供だなんて思ってないよ」

「ねるは……」

「……」


言葉に悩んで声が止まるのに、先生は何も言わずに待ってくれる。

やっぱり、ねるは子どもだ。
傷つけたことも気づかない。自分のことばっかりで、恋心に身も心も走らせて、忠告すら受け止められない。

先生の姿すら、なんで手を伸ばしてくれないのって苛立っていたり
好きですって言えばもっと真正面から向かえるのに、子どもだからと距離を取られ振られることに怯えて何もしない。

先生がこっちを向いてくれたらいい。
そうしたら、ねるだって──そんな思考は子ども過ぎて。今更でもバカみたいって思う。


「ねるは、これからのことどう思ってる?」

「……っ、」


でもやっぱり、先生が見る先は、生徒の将来のことで、ねるのことなんかじゃない、そんな当然のことに胸は苦しくなってしまう。


「……後悔なんてせんけん、」

「……」


それを無視して、必死に自分の将来に思考を巡らせた。先生の言いたいことは分かる。

この恋心に任せて、今の大学に進んでいいのかってこと。
ねるだって考えてる。
でも、後悔するかもしれないことも分かってるし、けどそもそも後悔なんてしないって思ってる。それくらい、ねるは先生に想いを向けている。

この思いが届いて欲しい。

けれど空気は冷えたまま。ひやり、と冷たい空気が流れた気がした。


「……私のいる大学は偏差値55くらい」

「、」

「ねるがこの先、学歴に関係のない仕事を選ぶなら特に関係ないね」

「………」

「別に私も、なにかしたくて大学にいるわけじゃないから強いことは言えないけど、ねるはしたいことある?」


”先生”の話は、今までにないリアルだった。
先生との時間はずっと勉学でしかなかったし、行く大学を決めていたから選ぶ選択なんてなかった。。
こんな将来に向けて、何がしたいとか、ならどの選択肢がいいとか、そんな話はしなかった。

──違う。ねるは、理佐を利用していただけで、先生として関わることはなかったんだ。


「本の仕事をしたいって言ってたね。それは執筆?それともライター的なこと?ねるなら司書のこと言ってそうだけどうちの大学にはその専門はないね」

「……、」

「調べたら専門のない大学でも講習受ければいいみたいだけど、知ってた?」

「……知っては、いました」

「うん。私が聞きたかったのはそういうこと。これから何をしたいの?どういう将来を考えてる?」

「──…」


先生の隣を歩きたい。
大学で会って、笑って。
一緒にあのラウンジで、外を眺めて。
雨が降ったなら、最高だって言う音を聞きたい。

一緒に…。


「……、」

「……ねるはちゃんと考えられてるって思ってるよ」

「…」

──理佐はねるのこと信用してる。ちゃんと分かってるって。




ぞわぞわと、動悸が強くなる。
ねるが考えてることと、先生の求めていることが違う。
こんなこと、なかった。

ねるはいわゆる優等生で。
馬鹿じゃないし、周りがどう思ってるのか余計な程に考えてしまうタイプで。
気を張って、考えを先読みして、この人はどういう思考を持っているかとか…。

だから。
こんなこと、なかったから。
不安が───










「ねる。よく聞いて」

「……やだ、」

「大丈夫だよ」

「やだ!」


動悸が激しいのは。
不安が強いのは。
こんなに、頭がまっしろなのは。





「今日は、ちゃんと突き放しに来たんだ」



──突き放すならもう来ないでください。



──理佐はちゃんと考えてるよ。

───大人として忠告してる。子どもは自分のやることをちゃんとやりなさい。



「───」


こんなことになるまで、自分を知らない。自分のすべきことを見失って、手を伸ばすことだけに夢中になって、それがどういうことになるか分からない。



「……そんな、家庭教師の契約だってあるばい」

「……親御さんとは話してあるよ。急にこんなことをするのは、ねるにも謝らないとって思ってる」


ごめんね。

その声に耳を塞ぎたかった。

耳を塞いで、ぼろぼろに泣いて。布団を被って寝たい。そして夢だったんだと安堵しながらカーテンを開けて空模様を見る。雨だったらいいな、なんて思いながら…。


膝の上で握りしめた手は、強く握り締めすぎて指先が白い。自分でもわかるくらい冷たくなっていた。


「…家庭教師として、ねるにちゃんと進んで欲しい」

「……ちゃんと、、って?」

「………恋をバカにするわけじゃない。ねるが想ってくれてること、信じてないわけじゃないよ」


なら、なんで。

バカにしてるから離れるんでしょ。
どれだけ想ってるか分からないから離れるんでしょ、?

突き放すならちゃんと突き放してよ。


「ねる、」

「っ、なんも、知らんくせに、!」

「……」


吐き捨てる言葉に、意味なんてなくて。
何も考えてないのに、否定だけはしたくて言葉が出ていく。

喉が痛くて、苦しくて。可愛くないひくつく声が漏れる。

なんで。
どこで。間違えてしまったんだろう。

先生と、デートをして。
花をもらって、ドライブして。
一緒に大学に行って。

車の中で迫られたりして。


このまま、大学に進むんだと思っていたのに。


「ねるが進む道を否定したりしない」

「──」

「私が離れても、私のいる大学に来てくれるならそれをねるの選んだことだって思うよ」

「……なら、」

「でも今は、これ以上近くにいられない」


先生の目は強くて。
まっすぐねるの目を見る。

それは確かに、ねるをバカにしているわけでも、信じていないわけでもなかった。


「私にも覚悟が必要だと思ってる。だからこそ今、ねるの将来を縛る存在にはなりたくない」

「そんなの、ならん」

「…なるよ。それは無意識で、誰かといるために選択肢を失くしちゃう。でもそれは当然で、なんの葛藤も不満も生じなくなる」


なら、いいじゃないか。
葛藤も不満もないなら、それが幸せなんじゃないの?


「ならそれでいいって思うでしょ?」

「、!」


先生は、見透かしたように優しく微笑む。
あやすようにしゃがんでいた先生は、ゆっくり立ち上がるとねるの横に座った。
俯いたままのねるの鼻腔を、先生の香りが過ぎる。


「…ねるに、それは早すぎるよ」

「……」

「まだ、縛られることに慣れて、自分の意思を無意識に無くすには早すぎる」


優しい声だった。
わざとらしいほど、優しくて。それに馬鹿みたいに泣きそうになる自分が嫌になる。

先生との。お別れを。
受け入れようとしてる、そのために泣く。

それくらい辛いんだってアピールしたくて。
でも結局。その別れは避けられも、否定も、先延ばしもできないって分かっている。

泣きたくない。
受け入れるための涙なんて流したくない。



「先生なんて、出来なかったね」

「…っ、」

「……この先の後悔なんて知らない」


…先生のつぶやきは、私の頭には届かなくて。
ただ、隣に座って、頭を撫でてくれる温かさだけが、ねるの中に残っていく。





「……ねるを、信じてるから」





色んな策を練り、手繰り寄せた糸。
それさえ手に出来たなら、後は自分次第だと思っていた。
逃がさないように、離れないように。上手に大切に扱えば、その先にいるあなたを少なくとも失うことはないんだって。


だから、まさか。こんな突然にぷっつりと切れることになるなんて思わなかった。

糸は未だ巻きついたまま、離れることはないのに
その先にあなたはいない。


こんながんじがらめなのに、
巻きついて離れないのに。

ずっと求めていたあなただけが、ねるの世界から消えた。




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