Unforgettable.
ねるから規則正しい深めの呼吸が聞こえてきて、眠りについたのだと知る。
背もたれに頭まで預けて、理佐も深く息を吐いた。
これ以上、ねるに嘘をつきたくない。
しかし、そのためには今まで以上の覚悟がいる。自分を消すよりも壁は厚く高いだろう。
「…………ぁ、」
そこで自分の中の選択肢がひとつなくなっていることに気づいた。
たったあれだけのねるとのやり取りで変わってしまうなんて、現金なヤツだとも思う。けれど、それに値するほど、ねるの存在は大きかった。
理佐は自身の手で口元を触り、そのまま喉へ手を移動させる。
この中を、ねるの血液が通り
今は自分自身の中に吸収されている。
こんなにも満ち足りた気分にあるのは、きっとねるの血のおかげなのだろう。
肌を貫いた感覚、
流れ込む血の味と熱量
ねるの呼吸、声、
その温かさ、
ねるから伝わるしがみつくような力……
「………っ、」
思い出して、全身が苦しくなる。
欲に駆られるということはこんなにも苦痛なのだと初めて知った。
ずるずると体を重力に任せて横にする。
ふー、と意識して息を長く吐いた。
真上にある電気を見つめて、思考を振り払うように
愛佳達のことを考えた。
あの後、ひとりじゃ不安で怖くて愛佳に連絡した。すぐ到着した愛佳に、『顔洗ってこい、物騒だな』と言われて、血だらけの現状に気づいた。それでもねるをそのままに出来なくて、離したくなくて。自分よりもねるを綺麗にしてあげたかった。
そのあと小池と土生も来てくれて馴染んだ顔に安心して、ふたりがねるの身なりを整えてくれて。やっと自分の顔を洗いに行けった。
情けなかったな、と思い返す。
それでも、助けてくれる友人が有難くて今日ちゃんとお礼できていたか不安になった。
今度あったら言わなきゃ…
そしてふいに、もう1人の存在を思い出す。
「………平手とも、話をしなきゃ…」
それが高くて厚い壁の正体だった。
それは、ねるにも話さなければならないことでもある。
『今度は理佐もねるの血を飲んでみたら?きっと止められないよ』
そういった平手の言葉が降ってきて、その言葉の意味が分かる気がした。
今までねるの血を飲みたいと思わなかったし、飲んだところでこんなにも求めるとは思っていなかった。
なのに今は
隠れていた本能が気を許せば存在を主張し出す。
自分の大人しい理性はソレを抑え込むにはあまりにも頼りなかった。
自分は紛れもなく吸血鬼だったのだと今更ながら感じられる。
考えていても中身はぐるぐると彷徨い続けて感情が左右されっぱなしだった。
理佐は早く眠ってしまいたいと固く目を閉じた。
「ーーーりさ、」
「ん、…」
柔らかい声が遠くから届いて、意識が引き上げられる。
「理佐」
「!、ねる?あ、大丈夫?」
理佐は慌てて起き上がる。ねるがベッドから理佐を呼んでいた。
ねるが起きる前に起きようと思っていたのに、既にねるは起きているし、陽も差し込んでいて後悔する。
「大丈夫やよ。理佐こそそんなとこで寝て、身体大丈夫なん?」
「あ、うん。平気、なんともないよ」
少し慌ただしくねるの元に行く。それでも近づき過ぎないような距離を取った。
ねるはそれに不満そうな顔をする。
「ごめん、でもまた襲っちゃうかもしれないし、」
「理佐ならいいって言っとるのに」
「……止められないかもしれない。そんなことしたら、ねるのこと……」
最悪な事態さえ、今の自分では否定できなかった。
そんなことを考えていると、ねるが申し訳なさげに言葉を発する。
「……ごめん。無神経やったよね」
「ううん、」
「でも、トイレ行きたくて……身体が重くて動けんけん、連れてって欲しかったんやけど……」
「ーーー………」
頭が真っ白になる。
力、の面なら問題ないけれど我慢できるかは問題山積みだった。
どれも理佐次第なのだけれど。
ーー愛佳呼んでたら間に合わないし、てか、めちゃくちゃ怒られそう…。
「あ、ええよ理佐、何とかやってみるけん…」
ごめん、というねるに情けなくて悲しくなる。それで転んで怪我でもしたら、後悔どころじゃない。
「……いい」
「え?」
「おんぶする、よ。連れてく」
片言のようになってしまうのは、許して欲しかった。
少しの問答を繰り返して、ねるが折れる。トイレを依頼するくらいなのだから体は相当辛いのだろう。
「じゃぁ、お願いします」
「ん、」
起き上がるのを手伝ってから背を向けると、視界の両端からねるの腕が伸びてきて首に回った。
それと同時に、背中へ一気にねるの熱が伝わってくる。ふわり、と鼻に掠る香りは自分の匂いに紛れてねるが潜んでいた。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ、…けど、あんまり耳元でしゃべんないで。死にそう」
「あ、ごめん」
現実的に死にそうなのはむしろねるなんだけど、と互いに思う。
ねるに集中しないように、色んなことを考えながらトイレまで運ぶ。
ドアの前でねるを降ろすと、ふらついて思わずねるの体を抱きとめる。
背負うことで視界からの情報をなしにしたのに、結局ねるの顔が間近に来てしまった。
ーー吸血を自覚した途端なんでこんなんばっかり………!!
戸惑う理佐を見て慌てたねるが、もたつきながらもトイレに入ったけれど、『呼ぶけん戻ってて!』と中から言われてしまい配慮に欠けた行為に頭を抱えながらソファーに戻った。
「あーーー、なさけないぃ……」
いくら吸血を抑えるのにいっぱいいっぱいだったとはいえ、女性のトイレをドア前で待つなんてデリカシーが無さすぎる。
嫌われてしまうかもしれない…。
自己嫌悪に陥っていると、ねるの呼ぶ声が聞こえてドア前に出てくるまで廊下で待った。
気まずそうな照れた顔で、ん、と両手を広げてくる。
メートル単位で離れているのに、キュンとして襲ってしまいたくなる。
逃げるように背を向けて、後ろ向きでねるに近寄った。
「なにしとんの、りっちゃん」
「うるさいな」
ふふ、と笑うねるをまた背負ってベッドに連れていく。
ベッドに降ろしてまた距離を取った。ベッドサイドに足を下ろしたままねるが理佐を見つめる
「なに」
「ずっとこんな離れとぉわけやないよね?」
「……たぶん」
「たぶんて」
「だって、初めてなんだもんこんなになるの。愛佳には落ち着くとは言われたけどいつとか、どの程度とか個人差があるから……」
「そっか。……けど、寂しいばい」
「………」
しゅんとするねるに申し訳ない気持ちが溢れるけれど、今はまだ、不用意に触れられない。
「がんばるから」
「ん?」
「ううん。ご飯作ってくるよ、ねるは休んでて」
「ありがと」
これから平手やねると話をしなければならないと思いつつ、こんな日常的なことが好きな人とできて一緒にいられて嬉しくて。
嫌なことを頭の片隅に追いやった。
まだ、もう少しだけ。
この限られた『日常』を過ごさせて欲しかった。
どんな形であれ終わりが来ることを、
長く生きてきた私達は、すこしだけよく知っているから。