An-Regret.



「──りさ、?」


愛佳に腕を引かれた先で理佐が横たわっていた。

理佐の匂いが強くなる、その度に。理佐が危険だと、本能が拒否を示していて。途中愛佳の引く力が強くなった気がしたけれど、それはねる自身が足を止めようとしたからだと、この時は気づかなかった。




武元『…長濱ねるさんですか?』

ねる「……」

愛佳「ねる、しっかりしろ」


声がする。視界は正確に世界を写すのに、脳が、感情がそれを受け入れられない。

血を流す、この状況は何?
この人は何をそんなに必死になっているの?
何故理佐は、ねるを見てくれないの?


武元『長濱ねるさん。渡邉理佐は枯渇しています、早く、その血をあげてください』

ねる「枯渇…、」


理佐の横にいる黒衣装の子が、焦ったように話しかけてくる。


…そっか。なら、血を、あげなくちゃ。


言われてることは分かるのに。しなくちゃいけないこともわかるのに、。
どこかで脳が壊れたみたいに、思考が行動に繋がらない。 血をあげるにはどうしたらいい?

目の前の理佐は、目を開けずに、指先ひとつ動かない。
その口元に血を寄せたところで飲み込むことは出来るの?  いつもみたいに、ねるを捕まえてよ。
その歯を、肌に突き立てて、破って、溢れる血を、1滴だって無駄にしない、その酷く優しい行為を。


愛佳「ねる、腕貸して」

「!!」


愛佳の声がして、腕を引かれる。少し早い口調と強い力に、膝を床に着いた。
距離が縮まった、その先で、理佐が弱々しく呼吸しているのが分かる。 お腹に当てられた手は出血を抑えているように見えて、ここに来てやっと、理佐が必死に生にしがみついていると感じられた。


「っりさ、!」

「……、ねる、痛むよ」

「うん」


理佐のそれにやっと、脳内が繋がり始める。
愛佳がねるの肌に触れ、痛みが走る。痛みの先を見れば、皮膚の裂けた所から赤い血がプツプツと姿を見せ始めていた。

滴が重力に伴って集まり、落ちる。
それを弱い呼吸によって僅かに開いていた理佐の口へと合わせた。

舌に触れ喉奥に雫がたどり着いたのか、理佐は弱々しく喉を動かす。
それを時間をかけて数回繰り返し、理佐はいつかの優しく強く立つ姿を消したまま、ゆっくりと目を開いた。




理佐「……、ねる」

ねる「理佐、」

理佐「……ねるだ、やっと会えた…」

ねる「っ、それは、こっちの台詞ばい、!」


小さい声で、ねるへと言葉を紡いでくれる。その瞳にねるを映してくれる。
いつのまにか握りしめていた理佐の手が、僅かに握り返してくる。
それが、堪らなく胸を締め付けた。


武元『……、』

愛佳「助かったよ、ありがとう」

武元『…いえ。そんな言われることしてません』

愛佳「……それでも、お前がいなきゃ理佐は助からなかった」


愛佳の声掛けに、黒衣装の子は視線を下げる。 傷の治癒は、あくまで傷を癒すだけ。その人そのものを改善する訳ではなくて。その出血による影響も、枯渇も、治せるわけじゃない。

でも、愛佳たちの会話がそういうことを言っているのではないとちゃんと分かっている。


理佐「……ねる、もう少し、もらっていい?」

ねる「うん、」


弱々しく少しだけ戸惑いを孕んで、それでも理佐はねるを見て、その声を発する。それだけに、ねるは。ねるの血は意味があるように思えた。
理佐の口元に、傷口を当てる。 垂れていたそれを舐め上げた上で、落ちるのを待つんじゃなく、理佐は口を開き、吸い付き、舌を使ってすくい上げ舐め取っていった。


ねる「っ、」

理佐「ありがと、」

ねる「、ぁ…」


理佐は言葉と同時に、ねるの傷を治す。癖ついた様なその動作は、少しだけ寂しい。理佐の痕が、ねるから消されてしまう感覚がしてしまうんだ。
以前似たようなことを理佐と話して、その時理佐はこれから離れることは無いと約束してくれた…。


理佐「?」

ねる「ううん、。大丈夫、?」

理佐「うん、ねるのおかげ」

愛佳「調子いいこと言うなよ、立てもしないくせに」

理佐「愛佳、」

愛佳「…悪かったよ…。許してくれなんて言わない」

理佐「………、。」


愛佳の言葉に、理佐が言葉を止める。
優しい理佐が、相手に何も言わないなんて酷く違和感だった。

それでも、それは数秒で。理佐は顔を上げる。


理佐「ありがと、愛佳。土生ちゃん達も…ここまで来てくれるなんて、迷惑かけちゃったね」

土生「……ううん、何もしてないから」

理佐「そんな事ない」

美波「……理佐、もしかして」
理佐「美波。あんまり土生ちゃんに心配かけちゃダメだよ。キレると怖いんだからさ」

井上『それはほんま思いましたわ』
美波「あんたらに言われたくないわ。って、そうやなくて──」

                   『───!』


みいちゃんは何かを言おうとしていたけど、てっちゃんたちの方から声がして弾かれる。声を荒らげる黒衣装の子は何を隠すことも無く、下劣な思いをぶちまけて
ねるがその言葉を理解出来ないでいる間に愛佳は走り出していた。


一瞬のその先で、愛佳は由依さんを止めるように押し付ける形になる。由依さんの声はあまりに悲痛で息が詰まる。けれど、理佐はそれにただ視線を向けるだけで。ゆっくりとみいちゃんたちの姿を眺めてから、再びねるへと戻ってきた。


理佐「ねる」


ねるは、その姿に何も言えなくて。
何か言うべきで、この現状に感情を表すことが理佐への想いの形だとも思ったのに
あまりの、惨い現実に
頭がついていかない。


「ごめんね、怖い思いさせた」

「…、」

「怪我、してない?」

「…しとらん」

「……、ねる」

「理佐、」

「……」



なんで、理佐がそんなに言われんといけん?
なんで、誰かを得ることすら邪魔されると?

あの時誓った、”唯一の存在”すら
嘘だと、虚実だと。

理佐は、それを分かっていて ねるに想いを告げたのだとしたら。

理佐はねるとのこれからをどう思っているんだろうか。



……ねるは、まだ理佐の番でいられているの?


その一言が言えない。怖い。

痛い思いをするよりも、怖い思いをするよりも。今は何よりも、理佐からの否定は心を抉ってくる。

あの時、これから離れることは無いと約束した言葉は番を破棄されたなら無効だと思う。
たった一言の約束事。既に破られた約束。
それを、今更怖がる必要なんてないはずなのに、

怖くて、不安で堪らなくなる。


「………」

「……ねる、」


握ったままだった理佐の手が、ねるを強く握り返す。
それに引き上げられるように、ねるは顔をあげた。


「酷いこと言って、ごめん」

「──……」


尾関や、黒衣装の言葉が記憶から溢れてくる。

番は唯一じゃないとか、ねるが理佐を苦しめて不幸にしたとか、ねるの信じ難いことばっかりだった。
理佐は、ねるの信じている世界とは全然違うところに生きているのかもしれない。

だとしたら、ねるは。何を信じていれば──




「私とこれからも、番でいてくれる?」



「……───え?」

「ねるを守るためには、番を破棄するしかないと思ったんだ。でもやっぱり……ねると離れるなんて、耐えられない」

「……なん、それ」

「平手のところにいけばきっと安全だよ。私みたいに危ないことも嫌な思いも避けられると思う。でも、」


弱々しさは変わらないのに、理佐はどこか覚悟を決めたような強い瞳でねるを見ていた。

薄らと紅く染まる瞳は
ねるの血を飲み下したせいなのだろうか。



「ねるが、私といることを許してくれるなら」



浮遊した思考が、理佐の言葉で引き戻される。



「これからも、一緒にいてほしい」



近くでは、土生ちゃんたちや黒衣装の子たちが見ている。
この状況でのプロポーズのような言葉は、証人を定めているようにも思えた。


理佐が、今の言葉を口に出すことがどれだけ怖い思いをしてるのか、理解なんてできない。

けど、理佐はきっとこの言葉を今まで言うことは無かったし、それがどれだけ大きいことなのか少しは分かるつもりだった。

そして、てっちゃんを引き合いに出してくる辺り、理佐らしさが抜けなくて、呆れてしまう。

……色んなことを考えなくちゃいけなかった。
尾関の言葉も、黒衣装の人の言い回しも。
理佐の番破棄にも、一転した願いも。

さりげなく、理佐らしさに絆されてしまったことも。


けど、


「ねるは、理佐しかおらん。ずっとそう言っとるったい」


ねるは、目の前に、優しい理佐がいてくれて、一緒にいてほしいという願いを顕にされて。
それだけで、心満たされてしまっていた。


そうして、少し顔を歪めながら体を起こした理佐に肩を引かれて ねるは惹き付けられるように顔を寄せる。

あまりに自然なそれは
まるで、結婚式みたいだった。

紅い瞳のままの理佐に射抜かれて、ゆっくりと同じタイミングで閉じられる瞼。
視界が閉じて、世界が理佐で埋まったまま。触れるだけの、キスをした…。









ゆっくりと離れて、視線が重なる。瞳は紅いまま、ねるを映していた。
重なっていた手を、改めて強く握られる。
理佐が自分の行動に対して、ねるへ手を貸してほしいと願ったのはこの時が初めてだった。


「…平手のところに行きたいの。立つのに手を貸して?」

「うん、」


理佐の腕と脇を支える。立ち上がるのに土生ちゃんも手を貸してくれたのに、理佐の体重が思ったよりもかかって一気に不安になる。
視線を回せば、黒衣装の子は、不安げにこっちを見ていた。



「理佐、」

「ごめん、重かったよね」

「ううん、そんな事なか。でも」

「大丈夫。少しだるいだけだから」

「……、」


少しだけ。そういうのに理佐はねるの手を離すことはなくて体重は僅かにねるに掛けられたまま、てちの元へ足を進める。気づけば土生ちゃんは足を進めていなくて、みいちゃんが土生ちゃんに駆け寄っていくのが分かった。ふたりはそのまま、ねると代わることも、手を貸してくれることも無かった。




そして。




「天は、私にひとりでいてほしいの?」





世界は暗転する。

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