An-Regret.


ねるの震える手が、ゆっくりとアンクレットに触れる。
ぱき、と小さく音を立て乾いた血の破片が床に落ちる。ねるの涙が血を濡らすけれど、その欠片は乾いたまま。

その血はいつからだった?

乾きは。
傷は。
一体理佐が傷付いたのは、どのくらい前?


尾関『かわいそうにね。君が大人しく真祖との番契約をしていれば、こんなことになることもなかったんだ』

ねる「りっちゃ、……」

愛佳『………』




───あぁくそ。こんなことに振り回されている場合じゃないのに、身体はショックを顕著にしていく。

………目の前が、暗い。体の血液がすべて沈んだかのように体のだるさが襲ってくる。

部屋に漂う血の匂いは、オオカミに聞くまでもなく理佐のものだと分かる。
ずっとそばにいた。 あの空気に支えられてきた。
あの瞳に、救われてきた。

私が理佐に出来たことなんて、些細なことだ。

私にとって、理佐はすべてだった。

隣にいることなんて望まない。
向き合うことも、出来ないとわかっている。

せめて、背を押すことを、
背を任されることを、

あいつが大事だと、涙を流す相手を


ふたりが、離れることのないように──




──────!!!!


夏鈴『!!!?』

松田『夏鈴!!っ!?』

愛佳「……、」

松田『っ!?』

愛佳「…今回の仕事を担ったのはお前?飛んだミスだったな、」

松田『っ!』

愛佳「次はもっと上手くやれよ」


────!!!


松田『───!!!』



──それは、一瞬だった。
夏鈴は胸ぐらを掴まれると、抵抗も出来ないままに投げ飛ばされて壁に叩きつけられ、
無気力に立ち上がった志田愛佳は、夏鈴に気を取られたまりなの肩口を掴んで引き寄せると、ぐっと近づいた。
まりなは体を跳ねさせると、膝が折れてそのまま床へとその身を倒してしまう。

殴られたのだとすぐには理解できなかった。



保乃『ッまりな!』

ひかる『保乃ちゃん、離して』


押さえつけていたひかるが、私の力の緩んだ隙に抜け出そうとする。
それをまた体重をかけて抑え込んだ。


保乃『っ、だめ。大人しくしとって』

ひかる『死ぬよ、保乃ちゃん』

保乃『……、してみい。負けん』

ひかる「………」


冷や汗が伝う。
私たちの中で”戦闘力”という意味で力があるのは夏鈴だった。そして、まりなは選んだ相手の能力の増幅と自己への付加が出来る。
だから、ふたりが最も、ぶつかり合いに長けていたのに。  心の中で恐れていた、志田愛佳の存在が、この現状に押し付けられる。



愛佳「…」

尾関『……あの不良品がそんなに大事?』


その一言に、志田愛佳は尾関さんの胸ぐらを掴み力を込めると、その首を締め付けた。


愛佳「そう呼ぶなって言ったよな?」

尾関『…っ私は、あれに興味はない。真祖の番契約。それだけ』

愛佳「…なんでそんなに、平手とねるにこだわる?」

尾関『勘違いしないで。平手友梨奈、長濱ねる。その個人に対しても、私はなんの興味も執着もないんだ』

保乃「………」


私たち、”黒衣装”は。
尾関さんの過去を知らない。お互いがお互いを利用するだけの間柄でしかない。踏み込むべきではなかったし、踏み込み知り得たところで何がある訳でもない。

ただ、こうして相手とのぶつかり合いを目の当たりにして
決して相手が悪者というわけじゃないと分かっていた。
けれど、


尾関『重要なのは”真祖”と”番候補”だ。再三知らせを渡したはずだよ、番候補を出せって。出せないのなら、既に番となっている元番候補を利用するとも言った。この通達は1度じゃない。にも関わらず、動作を見せず、今に至った。この現状になったのは真祖が選んだことだ』

愛佳「……」

尾関『何度だって言うよ、あの不良品に興味はない。私の目的は真祖と、真祖の番だ』

『肩書きが重かろうが、苦しかろうが、その立場にたった以上、それを背負う以外ない。ただの偶然に”引き寄せる力”だと銘打たれるように、真祖の働きは全てに意味がある。それは全てを背負う、その証拠のはずだ』

愛佳「……」


尾関さんには尾関さんの、通すべき芯があって。
それは身勝手に行ったことでもなく、無断で強行した訳でもない。

たくさんの手紙や、多くの思考を経て
尾関さんは、今この行為こそが正しいと、信じている。


平手友梨奈にも、長濱ねるにも。
興味もなければ、馳せる思いもありはしない。
肩書きを背負う以上、その立ち位置に足をつけることを強いられている以上、
そうあるべきで、そう在らなければならないのだと。


尾関『あなたがここにいるのも、真祖の引き寄せる力だと、言っていいだろうね』

愛佳「……」

尾関『志田愛佳。君を異物と呼んだとき、私たちは君を本当にただの異物としか見ていなかった。けれど言い得て妙だったね』

『平手友梨奈を庇うのは、罪滅ぼしか?』


その言葉に、空気が一段と落ちる。
鳥肌が立つこともなく、ただただ悪寒だけが体を襲った。


愛佳「──…お前、死にたいの?」

尾関『っ、触れられたくないんだね、そうやって自分優位の世界は楽しいだろう、フラフラ楽しんで、けれど結局立ち位置は上だ』

愛佳「……」

ひかる「……?」

保乃『……るんちゃん。うちらに関わらんで。大事な人と静かにしとれば、傷つかんよ』


せめて、ひかるをこの場から無関係にしたくて訴えかける。けれど、尾関さんの一言同様、ひかるは私の言葉に
どこか苛立ちを感じていた。


ひかる「馬鹿にしないで。これは私の選択だよ」

保乃『…』

ひかる「誰かのせいにもしない。保乃ちゃんのせいにも、由依さんのせいにもしない。私は、ここに来る、ここで戦う。たとえ傷ついたって私は選んだんだ」

保乃『……後悔せんの』

ひかる「保乃ちゃんのこと傷つけたら後悔するかもしれない」

保乃『なにそれ』

ひかる「保乃ちゃんは友達だから。傷つけたくはないの。でも敵だって言うんなら、私は迷わない」

保乃『………』


………意思は、どこにある。

”みんながやるからやる、じゃあ後悔することになるよ”

それぞれの抱える意思も、見つめる先も私には無い。
”真祖のとこにつかせて欲しい”

私は、真祖がいるこの場所で何を見つけようとしたんだろう。



愛佳「お前の思念も、目的もよく分かった」

───!!!!!

尾関『!!!?』



志田愛佳は、大袈裟に空を仰いで息を吸うと、
ぐっと口を塞いで 無防備な尾関さんをを強く殴り付けた。

夏鈴たちとは比べられないほどに、振りかぶり、振り抜いたそれは
強い音とともに尾関さんを床へと叩きつけた。


尾関『っ、!?、は、、』

愛佳「ほんと、いい加減にしろよ。大人しくしてりゃ御託と屁理屈並べやがって」


尾関さんから、血が流れる。
伝うそれに一瞬の混乱をもつ尾関さんを無視して、志田愛佳は冷たく、握りしめた手から力を捨てるように振り払った。


愛佳「平手に怒られるからこのくらいで済んでるってこと、感謝しとけよ」


尾関さんは床に体を着いたまま、志田愛佳を見上げる。怒りよりも戸惑いを持った尾関さんを見て、私は敗北を感じ取った。

…けれど、まだ終わらないことを私たちは知っていた。


愛佳「他人の過去掘り起こすのがそんなに楽しいの。理佐にどんな経緯があったとして、なんでお前らにまで侮辱されなきゃいけない?なんでそうやっていつまでも蔑ろにされなきゃいけないんだよ」

ねる「、!」

愛佳「その立場と肩書きの重さも知らないやつが、そいつを語るな」

「自分にどれだけの価値が背負わされてるかなんて、他人が推し量れるものじゃないんだよ。」

ねる「まなか、!」


長濱ねるが慌てた声を出し、私は長濱ねるの存在を思い出す。
主軸にあるはずのこの人を、私はどこかで無力な人やと、哀れんでいた。

けど、長濱ねるの反応には当然とも思う。
志田愛佳は、足を進めると
倒れていた尾関さんを立ったままに跨ぎ、ともすれば、踏みつけるような動作を見せていた。


愛佳『尾関。お前がどういう過去を背負って、なんで吸血鬼に固執するのか知ってるよ。ただ平手にはその生業がもしかしたらお前の本意じゃないのかもしれないから大人しくしてろって言われたんだ』

尾関『!』

愛佳「お前みたいなやつを理解しようなんて、甘い真祖だよなぁ。……けど、そんなのもうどーでもいい。平手を追い詰めることも、強要することも許さない」

尾関『……もうあなたに許される必要はないはずだよ』

愛佳「そうだね、私にもうその力の資格はない」

尾関『……!』

愛佳「許しのいらない行為っていうのは、無責任だよなぁ?尾関。」

尾関『───!!!??』


極悪非道。 恐怖がよぎるほどの深い笑み。
いわゆる悪者がするような笑顔。

志田愛佳は、跨いだ形をそのままに上半身を倒し
尾関さんへ間近に見せつけた。

息を飲むほどの、その雰囲気に
私は体がすくむ。

志田愛佳は、口角を上げると再び尾関さんの首元を掴む。びくつく尾関さんを、守ろうとする思考すら私には浮かばなかった。

ひかるが抜けようとする動作にも気づかず、
もう1人の存在が現れることにも、気づけなかった。
















「……それ以上はダメだよ、ぴっぴ」




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