火種が弾けて、世界は回り始める。
『ねるが好き』
何度も送られるその言葉は、ねるになんの価値にもならなくて
ふわふわと消えて飛散していく。
結局、りっちゃんはそれ以上何も言ってくれんかった。
ねるの言葉はずっと、繰り返しで。
りっちゃんの言葉も、優しいまま形を変えなかった。
───────
─────────────────
「ねる」
大学のラウンジで一人でいると、ほぼ必ず声をかけられる。
声の温度が違う、
声の音が違う。
あの過ちは、何を並べたところで言い訳なんて出来るわけがない。
そう、思う度に。胸が苦しくなる。
りっちゃんの色んな表情が、脳を占めていく。
てちに会う度、その声で呼ばれる度それは何度でもねるを襲う。
「ねる、」
「……なんよ」
「そんなに嫌だった?」
「…最低」
「……、」
ねるの言葉に、てっちゃんは黙り込む。
最低なのはねるなのに。てちのせいにして目を背けようとしてしまう。
そんな自分が嫌なのに、止められない。
「ねるにはさ、理佐しかいないの?」
「…、」
「理佐と別れたからって、そんなに落ち込むことないじゃん」
てちはあれから、特にわるびれる様子もなくねるの前に現れる。
前と変わることなんてなくて、ただ、あの時を彷彿させるかのようにてちはどこか距離が近い。
「なんか食べようよ、近くにカフェが出来たみたいだし一緒に行こ」
「…行かん」
「………」
こんなことして、理佐が帰ってくることなんてない。理佐と会えることなんてない。
分かってても、てちと以前みたいに関わる気にはなれなかった。
「ねる、」
「てっちゃん、ねるは……てちのこと大切やけど、てちが望むものにはなれんよ…」
「……」
「もう二度と、あんなこともせんけん」
ラウンジの端。
告白の返事などするような場所でも
過ちを反省する場でもないそこで
ねるは、ただこぼすようにてっちゃんに言葉を投げる。
この時は、てっちゃんの気持ちを考えることが出来なかった。
「───ね」
「平手ー」
「、ぴっぴ……」
「サークル部屋に忘れ物してるぞ、いい加減取りに来なよ」
「えぇ?、そんなのない、」
「いーから来い」
「……、」
大事なことをこんな形で返事をしてしまって酷かったかなと少しだけ反省する。それでも、『あの時、あの行為を受け入れてごめん』と口にしないことだけで精一杯だった。
謝ることこそ最低だと思う。
私はてちの名前を呼んで手を伸ばしたし、てちはねるへ、精一杯の愛情表現をしてくれた。
ふう、と息を着く。
ねるは、何を求めているんだろう。りっちゃんが言っていた通り、てちと距離を取ったからって、離れたからって何が起こる訳でもない。
りっちゃんと、付き合えるわけじゃない。
この大学のどこかにいるはずの、その人を探す気なんて起きなかった。
「……バカみたいやんなぁ、」
たとえ見つけたところで、あなたのそばにはいられないと分かってるから。
──────
あれから、時は経って。
りっちゃんと唯一の繋がりだった大学を卒業し、社会人になった。就活をして、それなりの会社に就職出来て、いつの間にか新人と呼ばれる時期が終わり、後輩ができた。負う責任も、任される仕事も増えた。
それをこなして、認められて。それはきっと、社会で生きていく上でとても大切で、大事な事。
けど、
私はついひと月前に、会社を辞め
憧れだった本に関わる仕事へ就いた。
図書館での求人を目にしたことが、きっかけだった。
「……、ふーちゃん、」
「招待状、返信期限過ぎてるんですけど?ねるさん」
「……ごめん」
「はい、ペン持って。出席に丸つけて。御消して」
「え、強制やん」
「期日守らない人に選択肢ないから。これ、タイムテーブル。遅刻厳禁、大人なら守ってよね」
「あ、ちょっと…」
──すいません、お願いします
「っ、はい」
職場に突然現れたふーちゃんとは、大学を卒業してからも連絡を取りあったり
食事に行ったりしている。
理佐や平手とのことも、知ってる。
泣いて、心の内側がぼろぼろになっても隣で背を撫でてくれたのはふーちゃんだった。
ねるのしたことを、否定も肯定もせず、ただ受け止めてくれた。
そんな彼女は、もうすぐ結婚をする。
「……服、買わんと」
相手はとても 印象の柔らかい人で。弾けるような笑顔は、ふーちゃんとよく合っている気がする。
「……、」
そんな彼女からの、祝うべきそれに返事を躊躇ってしまったのは
『理佐に会うかもしれない』と思ったから。
それが、会いたくないからなのか、会いたいけれど怖いからなのか。自分の中でも答えに手を余らせてしまった。
数ヶ月あった結婚式までの期間はあっという間に過ぎ、式場へと足を踏み入れた。
式は段取りよく進み、純白のウェディングドレスに身を包んだふーちゃんの今までで1番綺麗なその姿と、笑顔と、涙に
胸が締め付けられた。
「ねる、」
「!」
名前を呼ばれて振り返る。みんなで食事をする中、知った顔から知らない人達までが行き交うそこに、あの時から付かず離れずだった、大事な人がいた。
「てっちゃん…」
「…久しぶりだね。元気だった?」
「うん。てっちゃん、大きくなったね」
「なにそれ、ねるの子どもじゃないんだけど」
ねるの言葉に笑う、その姿は
どうあっても変わらない彼女らしさがあった。
隣にいても笑い合えるようになったのはいつからだろう、
てちを見ても、微笑まれても
食事に伸ばした手が触れても
まっすぐな瞳に映っても、
あの頃の熱は、もうない。
「てちは?変わりなか?」
「んー、今度会社辞めようと思って」
「そうなん?」
「うん。一緒に進んでくれる人がいるんだ…すごく信頼してる人」
「………、」
「少し、離れることになるけど……また会いに来てもいいかな」
「……うん」
てっちゃんは、大人になった。姿だけじゃない。あのことから逃げることなくねるのそばに居て、てっちゃんなりにねると向き合ってくれた。
そして今、別の大切な人と先に進もうとしている。
───ねるも、進まなきゃいけない。
大丈夫。
てちとのことは、自分の中でちゃんと整理ができた。てちと笑って話すことが出来る、でもその手を繋ぐことも共に歩くこともないと、はっきり答えは出ている。
その答えは、互いに心の中で、きちんと形になって消えず、見えないように寄せるでもなく、ねるの中に、ちゃんとある。
「……ねる、」
「ん?」
「………理佐と、連絡とってる?」
てっちゃんが躊躇ったのが分かる。
ねるもその言葉に一瞬にして胸が苦しくなった。
てっちゃんと区切りはついたのに、りっちゃんは心に染み込んで離れない。
「……とってなかよ。連絡先も知らん」
「……」
「あの時は泣いてばっかやったけど、ねるにとってあの時間は必要やったかなって思う」
あの頃、ぐちゃぐちゃになった心は、いくら涙を流しても枯れなくて。
どんなに声を漏らしたって、治ることはなかった。
痛くて、苦しくて。
なんでこんなにも届かないのかと八つ当たりして……自分のせいだと倍になって自分に突き刺さっていた。
でも、いつからか。
気づけば心は崩れながら形を保って、ゆるゆると心へと戻ってきた。
それは以前とは違う形だったし、未だに痛むことがある。
それでも、治らなくていい。
その傷と後悔と、痛みを負って
先に進めるんだと、知った。
「てっちゃん」
「……」
「…あんな言い方しかできんで、ごめん。離れても待っとるけんいつでも会いに来て」
「……。」
『友梨奈ちゃん』、と声がして、てっちゃんは後ろを振り向く。その先で、綺麗な女の人が待っていた。
「……ねる、」
「あ、彼女さん?ごめん、話長くして──」
「花、」
「え?」
「ホールに飾られてる花、見た?」
「うん、チラッとやけど…きれいやったとね」
「……結婚式の花なんて、滅多に見れないんだからよく見てきたらいいよ。もうすぐ二次会で見れなくなるかもだし」
「…うん」
てちと別れて、ねるは促されるままホールに向かった。
式を彩る花たちは、まだ飾られていて。
てっちゃんの意味深な言葉に、ねるはゆっくりと近づいて、花びらに触れる。
怒られるかな、と思ったけれど
なんとなくそんなことは、思考の外だった。
「………」
こういうの、フラワーコーディネーターさんがやるんやっけ。
綺麗、。こういうのセンスないけん、かっこよか。
どんな人だろう、そんな疑問を浮かばせながら指先で滑らかな花びらを撫でる。
今度、花の本を読んでみよう。そう思って、花全体を見るべく、1歩足を引いた。
「……良ければ1輪プレゼントするよ」
「───……、」
黒いワイシャツに、黒いパンツ。
締まるその格好は、背の高い彼女のスタイルを強く印象づける。
けれど、どこか柔らかく思うのは漂う花の香りと、その手に抱えられたしなやかな花たちのせいだ。
きっと、喉が詰まるほどに苦しいのも
胸が締め付けられるのも、花に魅せられたのだ。
声と、気配と、その瞳に
体が冷え、一瞬にして叩きあげられるこの感覚も。
「───こういうの、かっこいいでしょ?」
花の向こうに勝ち誇ったような強気な表情。
なのに、柔らかく、
包み込むような、優しい笑顔。
ぎゅうっと苦しくなって、声が出ない。
そんな私に、彼女は一輪の花を差し出した。
遠くでパチっと音が鳴る。
火種を表すかのような花たちは
穏やかに、優しく運命を回す合図だった。