火種が弾けて、世界は回り始める。


「あの!よく飲みに来てくれますよねっ、声とかっ仕草とか…ほんま好きで…!」

「ちょ、本当に待って、近い…!」


グイグイ来るその子は、タックル張りに抱きついた腕を離さなくて。力を込めてもそれは緩まなかった。

さっきの光景が頭に残って焦燥感を煽ってくる。こんなのを…もし、ねるに見られたら……


「ねる、どこまで行くの?」

「外に出るったい!」


ーーー……やばい、。



嫌な予感は、的中する。
近づいてくる声は、間違いなく予想そのもので。

僅かな期待を込めたけれど、目の前に廊下の奥から現れたのは平手と、ねる、だった。


足早に進むねるは、近づいてからやっと人の存在に気づいたのか、ゆっくりと視線が上げる。
腕を引いて歩いていた彼女は
私を見つけて顔をハッキリと強ばらせた。



「………、」

「………………、」



一気に張り詰める、無言の空気。

急に足を止めたねるの背中に、平手がぶつかるけど
ねるはそんなのには反応しなくて。

私とねるは、じっと視線が重なっていた。


ものすごく長い、時間だった。
他人と、こんなにも長く無言で視線が重なることなんてもう二度とないんじゃないかと思うほど。


口の中に溜まった唾を反射的に飲み込む。ごくっと耳障りな喉の音がして、やっと息を吐く。
固まっていた体の時間は、それを引き金に動き出した。


「っねる、これは…!」

「……っ、」


けれど、私の声と同時、ねるも気が戻ったように動き出す。
抱きつかれている私は言葉以外に動けるものはなくて、走り出すねるをすぐに追いかけることが出来なかった。


「理佐先輩、?」

「ごめん、離してっ」


目の前の子を引き離す。悲しげな瞳に少し心が痛んだけれど、それでも、ねるを追う意思は止まらなかった。


けど。


「理佐っ!」

「!!」


ぐんっ、と体が引き止められる。走り出す私の手を掴んだのは、平手だった。


「何!」

「ねるに告白した」

「っ、」

「こんなことしてる理佐には負けない」


力強く掴まれていた手を振り払う。
今にも噛みつきそうな眼を、睨み返した。


「負けるとか負けないとか、そんなのどうでもいい!」

「、」


苛立っていたせいで、口調が強くなってしまう。
でも、苛立ちの原因は追いかける足を止められたことでも挑戦的な言葉でもなくて。

こんな、不甲斐ない自分が情けなくて、苛立っていた。



本当は、私だって平手に負けたくない。
ねるを渡したくない。

けど、今はそんな感情なんていらない。

悲しげに揺れたねるを追いかけたくて。
抱きしめたくて。
思い返せば胸は刺されるように痛くなる。
早く、ねるの涙を止めたかった。


平手と好戦的な視線をぶつけて、弾かれるように外す。そのまま、ねるの向かった方へと走り出した。
足に自信があるわけじゃないけれど、鈍足なわけでもない。でも、ねるだって決して遅い走り方じゃなかった気がする。

だから、必死に足を動かして急かされる呼吸に気道を痛めつけた。

外に出る、と言っていたのを頼りにねるを探す。


「!?」


屋外に出た瞬間、肌が何かに当てられて反射的に空を見る。
どんよりした雲がぱらぱらと雨を零していた。嘘だろ、と思ったけれど今日は晴れていたかと問われたら空模様なんて気にしていなかったと、どうでもいいことを思い返した。

雨の、あまりのタイミングに舌打ちをする。そんなのはドラマの中だけにしてほしい。
ドラマならすぐ体を温めることが出来るだろうけど、ねるはこの雨に体を冷やしているかもしれない。




「あ、理佐ー」

「っ愛佳」


呼ばれた名前に反射的に振り向くと、愛佳がこっちに手を振っていた。愛佳はちゃんと傘を差していたから、この雨は降るべくして降ったのだと頭の片隅で完結した。



「ごめん、今話してる場合じゃ…」

「ねるちゃんならあっち。早く行きな」

「!」


私が向かおうとしていたのとは違う方向を愛佳は示した。


「紳士でかっこいいりっちゃんは姫を泣かせたりしないでしょ」

「っ、」


ねるを見たのなら、泣いてることなんて一目瞭然のはずなのに。敢えてそんなことを言う愛佳に息が詰まる。

ねるに、嫌われてしまっただろうか。
ねるの求める『りっちゃん』からかけ離れてしまったかな。

でも、そんなの。
泣いてる君から逃げる理由になんてなりえない。

愛佳にお礼を言って、また走る。
その後に、由依が現れたのは気づかなかった。


「まあ、泣かせたい気持ちも分かるけどね」

「……愛佳が言うとやらしい、」

「え?まさか小林、泣かすだけじゃ足りないの?…あ、もしかして泣かされたい派?」

「……バカじゃないの」














徐々に雨が強くなる。服は、ゆっくりと水分を取り込んで、冷たく重くなっていく。
濡れた髪は雫を作り、顔に張り付く。
服の隙間から入り込む雨が気持ち悪かった。

それでも、ねるの後ろ姿を見つけたらそんなものはどこかに消えたんだ。


「ねる、!」

「っ、…なんで来たと?」


掴んだ手に、ねるは体をビクつかせて。でも、その反応はどこか逃げるのを諦めているようだった。
冷えと疲労がその身に溜まっていると分かって、心が苦しくなる。


「……っ」

「彼女さん、泣いとったやないですか、」

「あの子は彼女じゃないよ」

「…でも、泣いてました」

「そう、だね。…でも、私はねるを追いかけたかった」

「…っ、」

「泣いてる子を放って来るなんて、最低だと思った…?」

「……、」


ねるからの返答がなくて、少し凹む。
最低だと、思っだろうか。

それでも、ねるを追いかけたいと思ったのは
嘘じゃない。 それだけ、君を…。君のことを…。


「ねる、こっち向いて」

「嫌です、」

「……お願い、」

「りっちゃんは、ねるをどう思っとるの?」

「!」


視線は私に向かないまま。
けれど質問より何より、ねるに『りっちゃん』と呼ばれて心臓が締め付けられるようだった。


「あはは。バカみたいやね、今の」


でも、こんなにも想ってるのに、君は悲しそうに笑う。
そうさせているのは私なのに、それが悔しくて仕方がなかった。


「……りっちゃんは、ねるのこと助けてくれて、優しくしてくれて…。でも、それがねるだけやないことくらい分かっとるよ…」

「……」


ねるが私を見つけてくれたあの日から、
ねるが私を追いかけてくれる、その事があまりに嬉しくて。
だから。
これからも追いかけてくれるって。
これからも追いかけてもらえるようにって…

でも。
そんなのが、これから先も続くわけないんだ。
私が、ねるに手を伸ばさなければ
君と永遠に離れてしまうかもしれない。

そんなことが、頭に過って
怖くて、君の腕を掴む手に力が入った。


「…ねるだけだよ、」


私の言葉に、ねるの体に力が入ったのが分かる。
体は背けられたままで、長い髪にねるの表情は読めない。 ねるの反応が見れない不安の中、私は必死に言葉を送る。

想いが、気持ちが、この、感情が。
君に届いて欲しいんだ。


「今だって、ねるじゃなかったら、追いかけたりしなかった。男に喧嘩なんて売らないし、ねるじゃなかったら…あの時ホテルに連れてってた」

「ー……」

「意味、分かる…?」



ねるは、ゆっくりと振り向いて
私の名前を呼ぶ。



「りっちゃん、」

「!」


声の厚みに、体がびくつく。
ねるは眉を寄せながら、真っ直ぐに私を見つめてくる。その視線から目を外すことが出来なかった。

求めてやまない、ねるの存在に
体が過剰に反応してパンクしそうになる。

その熱は、どこに向かうんだろう。


「……ねるは、……そうしてほしい、」

「ーーー……、」

「最低やと、思う…?でも…」




ーーーりっちゃんが、好きーー



「ーーーーー」



呼吸が止まっているのに、苦しさが感じられない。
襲い来る衝撃はそれほどに大きかった。

あの夜と被る…その言葉が、ねるが。
何を求めているのか分かる。



雨に濡れた髪。
張り付いたそれに、いつもの違う色を見せる肌。

悲しげな瞳と、震える声。

私は今、どんな顔をしているだろう、?


欲にくらんだ、目か。
熱を含んだ眼か。
愛しい人を見つめる瞳か、




その後のことを考えて怖くなって、ねるを掴む力が緩むけれど、
愛佳の言葉を思い出して、また力を込めた。


「…おいで、」

「……」


雨打たれたまま、ねるの手を引く。足を進める私に、ねるは遅れることなく着いてきてくれた。





着いた先のホテルで、ねるを浴室に引き入れる。容赦なく体温を奪う水と外気に、シャワーを出しっぱなしにする。


顔が触れ合うほどの近さで、ねるの顔色が悪いのがハッキリと分かった。少しでも、と頬を包んでみるけれど、私の手も大して温かいわけでもなさそうだった。


「寒い、?」

「……うん、」


シャワーから生み出される熱と蒸気が、浴室に充満し始める。それでも張り付いた服たちがそれからねるを遮っているのを見てなんの罪もない服たちに苛立ちを覚えた。


「…服、脱いで」

「……、」


私の言葉に、ねるは服に手をかける。
それでも冷えた指先は思うようじゃないのか襟元のボタンが外せないようだった。

その手が痛々しくて、そっとねるの手を握る。
ねるはそれにビクリと反応して、体を固めた。

ふたりの間に、何かが足りない。
だから、ねるは怖がっているのかもしれない、と思う。


君に、安心して欲しい。

泣かないで。
笑って。

その柔らかさのように、温かい君に戻って欲しい。


そのために、私は何が出来るんだろう。

わからないまま、ねるの震える手を包み込む。
両手で握って、その指先にキスを落とした。






「………ねる、好きだよ」




ゆっくり上がった瞳は、潤んでいて。

重なった瞬間に、断続的に続くシャワーの音が遠ざかっていった。




私が、誰かに愛の言葉を囁いたのは
これが初めてだったと、後から気づいたんだ。


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