君は、理性を消し去る。
鼓膜に響いたその振動は、
脳を直接揺さぶってくるようだった。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
息は、無意識に止まり
本能が君を食い破らないように、無駄な行為を捨て、すべてを理性に注ぐのに
飛び込んできた君の存在は
そんなもの、なんの意味も無いかのように
すべてを消し去ってしまう。
約束した放課後は、あっという間で。
時計の針を追っているうちに、本当にただそれだけでその時を迎えてしまった。
メッセージを知らせる音がして、スマホを開く。それは予想通り小池からだった。
場所を確認する内容を見て、そういえば『放課後に学校で』という約束しか交わされていなかったと気づく。
でも、そこまで細かい約束がされていなくて良かったとも思った。近づくだけ、彼女の匂いは強くなって、その場所に行けなくなってたかもしれない。
それでも。
普段、学校で過ごしているだけあって彼女の痕跡は多く残っている。
移動教室の先に匂いがあれば、今日はその授業だったのかな、と思いを馳せた。
「土生さん?」
自分の名前が呼ばれて反射的に声の方に目を向ける。人の気配はなかったのに、と焦ったけれどその姿に安心したのは、その人だったからだ。
「友香…」
「ふふ。こんな時間に来ても授業はないよ?」
「……単位足らなくなるかな」
「…守屋先生が心配してたからそうかもしれないね」
ふふ、と笑を零して土生を見つめる菅井。
学校という場に学生と教務。状況にはあっているけれど、そんな会話はなんの意味もないことは分かっていて。菅井にとってもその会話はただの『流し』程度だと分かる。何しに来たのかなんてお見通しの様だった。
「………茜だけじゃないよ」
「え?」
「理佐も、愛佳も、織田さんや鈴本さんも心配してる」
何を、なんて聞く内容でもない。
でもだからこそ、自分の自己評価は他者とあっているか不安になってしまう。
普段気づかないズレは、こういう時に露になってしまうものだ。
「みんな待ってるから」
そう、なのだろうか。
理佐や愛佳はそうかもしれないけれど
織田や鈴本は、狼で…体育祭の時には傷つけてしまった。
そんな自分を待っててくれるのか?
でも、きっと。
菅井が言いたいのはそんな事じゃなくて。
戻っておいでって言ってくれているのだと分かる。
小池の名前を出さなかったのもきっと…敢えてなんだ。
「うん」
「じゃ、私は見回りして帰るから。学校来るの待ってるよ」
「…ありがとう」
菅井の姿を見送って、ふぅ、と息をつく。
まだ、小池にはメッセージを返していない。場所の指定はまだだ。
その返事をすれば、小池に会い話をすることになる。
「………、」
ここまできて。
そう思うのにまだ、もう少し、と引き延ばそうとする自分がいる。
小池の痕跡が、心臓を叩く。動悸は治まることを知らず、呼吸が浅い。時折深呼吸をしたり仕切り直すように息をつくけれど意味なんてなかった。
落ち着かない。
そんな状態で会うのが怖い。
誤魔化しを重ね当てもなく歩いていたはずが、気づけば自分の教室にたどり着いていて何気なしにそのドアを音を立てて開ける。
ガラガラ、という音がやけに大きく聞こえて誰もいない教室の静けさを際立たせた。
自分の席の隣に立ち、小池の席を見つめる。
夕日に照らされる教室は、どこかでみたホラー映画みたいだった。
「みいちゃんと授業受けたのもあの日だけ、かな…?」
菅井に処置された、あの時の傷はもう無い。
なのに、あの時の衝動は今まさに自分に襲いかかってくる。
……どうしよう。
小池に会って、果たしてろくに会話をすることが出来るのだろうか。
本能に押しつぶされて、その血を吸い尽くすことはないだろうか。
君を、殺すことにならないか…。
「土生ちゃん…?」
「ーーーー!!!」
鼓膜に響いたその振動は、直接脳を揺さぶってくる。
ーー思考はすべて吹き飛んだ。
ドクン、と心臓が跳ねる。
ーー本能が、渇望する。
喉が詰まるように呼吸が止まる。
見開いた目は、君を映せば止まれないと知っていて
体の命令に背こうとする理性が
君を捉えようとする本能とせめぎ合う。
教室の中を、目が泳ぎ、無駄に机や椅子、黒板、天井、掲示板を辿る。
ドアを映し、そして
制服に身を包んだ女子生徒を映す。
最後まで、君を逃がそうとして
最期まで、君を捉えようとする。
そんな私を知らずに、君は動き出して。
飛び込んできた君の存在は、理性すべてを消し去ってしまう。
「ーーーっ、!!」
びっくりしたのは、体は全く動いていないのにみいちゃんが腕の中にいた事。
「ーーぃ、ちゃ…!」
ろくに声も出せない。
かっこ悪い、自分。
本能が勝りすぎると身体が追いつかないと、初めて知った。
「土生ちゃん、良かった……生きとった…」
「!」
小池との最後のやり取りは、土生の中ではスマホを通したそれだったけれど
考えてみればその後小池は自分に会いに来ていて
枯渇したその身を目の当たりにしていたのだ。
死を目の前にしたこの身は、きっと恐怖でしかなかっただろう。
「あほ!なんで連絡くれんの…!」
「……っ、」
私の体を抱きしめる腕。
込められる力は、私を逃さないとしてくれている様で。
震える肩は君の儚さを語る。
いつだかに嫌いだと言っていた可愛らしい声は小さく震えて、。
君は全身で、私を求め、心配してくれている。
なのに。
キミが欲しいと唸る本能に、身体がスイッチを切り替えて君を喰らおうと準備していく。
ギシッと関節が音を立てた。
まだ。
まだ、追いつかないで欲しかった。
みいちゃんにちゃんと、伝えなくちゃいけないことがあるんだ。
「みい…ちゃん、」
「……っなに?」
「……、言わなきゃいけない、ことがあって」
「……、」
私が、吸血鬼だってこと。
君は私の番で、逃れられない運命だってこと。
それでも、君が…望むなら。
私は僅かな血で生きていこうと、思ってるんだ。
「みいちゃんが、好き…」
「……。」
「ごめん、」
「嫌や…」
……舌の根が乾かぬうちに。
そう思うのは、初めてかもしれない。
君から零れた拒絶の言葉は。
いや、きっと君の全てがどうあったとしても。
私が信じてやまなかった自負できるほどの『理性』を
塵のように吹き飛ばし、
ない事が必然だと押し付けられる。
煙を掴むような感覚は、悲しいとか虚しいとかそんな感情を追いつかせないままに
思考も思念も、体に司令を出す信号までも
すべて、
本能に染め上げられる。
君の僅かな血で、生きていこうなんて
叶わぬ願いで
到底、届くはずのない理想だと思い知る。
「!?」
「嫌だなんて、言わせない」
「土生ちゃ…!」
抱きついていた体を肩を掴んで引き剥がす。
力が加減できずに、みいちゃんは痛みに顔を歪ませていた。
でも、もう。何も。
「血を、」
ーーーみいちゃん、
「ちょうだい」
ーー君以外、なにもいらない。
「ーーー!!」
響いたのは、君の愛の言葉でも
私を呼ぶ、甘い声でもない。
酷く、気持ち悪い。
自分が「何」なのか思い知る。
君の細胞が悲鳴をあげ
その命の根源が
私に流れ込む。
ただ ただ。
本能だけに支配され、埋め尽くされた世界が広がる。