Wolf blood

「待って…、」


静かな空気に響く、少し切羽詰まった理佐の声は、苦しげで。


ねるはそれに、グラスを傾ける手を、止めてしまった。





「…りっちゃん?」

「……本当に、いいの?」

「………」


ねるよりも上にある理佐の顔。見上げれば切なく苦しそうな顔が、ねるを真っ直ぐに見つめてきていた。

その眼に言葉を詰まらせている間に、紅い液体の入ったグラスは、ねるよりも少し大きな理佐の手に縁を取られ
下げられてしまう。


「…本当に、吸血鬼になっていいの? 1度失ったらもう取り戻せない。……どんなに後悔しても人間には戻れないよ、」

「………」

「人間のまま、共に生きることだって出来る。そうすればーー」

「理佐は」

「!」


話途中にも関わらず、ねるの声が強く入ってきて理佐の心臓が跳ねる。

自分でも、『ここまできて』とは思う。
色んなことがあって、ねるの想いは知っているはずなのに
心の奥底でまだ、踏ん切りのつかない臆病な自分が ぐずぐずと泣いている。
それを置いてきぼりにして、ねるとこの先迷わずに歩ける自信はない。

でも、なにより。
迷って後悔することが、怖かった。



「理佐は…、ねるが一緒に生きてくこと嬉しくなかばい?」

「っ、嬉しいよ!でも、」

「……」

「でも、私の為に、ねるが……これから後悔することになるんなら、そんなの、どうでもいい、から」


理佐に根付く、劣等感は抜けきれない。
愛されていることは分かっているのに、それを受け入れていいとは思えない。
愛されるために、相手を優先させたくて
愛されているからこそ、その愛をこれから先も強請っていいとは思えない。

それは、相手から与えられているものであって
自分にその価値があるとは、思えなかった。




「……後悔って?」

「……それ、は…」

「いいけん。ちゃんと言って」

「…………、」

「理佐」



でも、それを真正面からいうのは間違ってる、ことくらいは理解している。
相手への否定であることも分かってる。

言い淀む理佐を見透かしたように、ねるはその先を名前を読んで催促する。

理佐は、喉の詰まりを誤魔化すように唾を飲み込んでから 想いを言葉へ紡ぎ出した。


「……。……これから、先。ねるが、私なんかより好きな人が出来ても、番になったらそれはもう、許されないよ」


ねるの目は、真っ直ぐ理佐を見つめたままで。
今までの繰り返しのような言葉にも黙って耳を傾けていた。


「そうなったら、その好きな人ともいられなくなる」


理佐の目は、ねるの手とそれに包まれるグラスに注がれている。

理佐には、それがまるで、ねるの想いに包まれる自分が
グラスという目に見えない壁に阻まれて、ねると合いいることなど出来ないと表現されているような感じられた。


「……永い、人生に嫌になっても、終わらせることも出来ないんだ。例え生きるのが嫌になったとしても、好きな人といられない事が苦痛で終わりを迎えたくても、私はねるに終わりを求められない。終わらせてあげることなんて出来ない。そんなこと、したくない」


ころす、なんてこと望まれても出来ない。
どんな鎖に繋いだとしても、君に生きてもらう。姿も、名も、存在すら知らない、自分ではない誰かを
どんな犠牲にしても
『番』となったなら、歯止めなんて効かない。


「もし、友香が選んだような道を望むんなら私はそれでもいいって思うんだ。私に合わせてねるが人とは違う道に入らなくていい、」


理佐は、ねるの目に気づかない。

そのグラスの中にいる自分の分身は
いくつものすれ違いと想いの先で、今やっと合いいることができる、その未来があるのに。







「……正式な番にならなくたって、ねるが私を選んでくれるなら充分だから、」

「……そうすれば、もし他に好きな人が出来ても、その人んとこ行けると?」

「……そう、」

「そうすれば、友達とも親とも一緒におれて、みんなと歳をとって、おばあちゃんになっていくとね」

「……うん。それって、素敵なことだよね、」

「そうやね、」



「…………」



「…………………」





グラスが、揺れる。
中の紅い液体は、理佐の心を表すようにぴちゃっと音を立てて跳ねた。



「……っ、じゃあ、やっぱりっーー!??」



顔に走った刺激に、思わず顔を上げる。
逃げるように振り払ってからねるを見れば、ねるの両手は自分に向けられていた。
何かを掴むようなその両手と、自分の両頬に残る痛みに、抓られたのか、と混乱した頭で導き出した。

少し睨むようなねるの目に、理佐はたじろぐ。
苦し紛れにぶつかっていた視線を外せば、ねるは両手を降ろして、呆れたような顔に変わった。


「……それでりっちゃんは?」

「ーーーぇ、」


「理佐は、それからまたひとりで生きていくと?」


「………、」


ねるの言葉に、理佐の視線が戻り
再び互いの視線が重なる。

あまりに真っ直ぐな瞳に、今度は理佐はその視線を外せなくなった。


「ねるが友達と遊んで、歳をとって、おばあちゃんになって、………それでねるがいなくなった後、どうするったい」


その先……?

理佐は漠然とした恐怖に襲われ、背中に悪寒が走る。
けれど、それを振り払って目の前のねるに焦点を合わせた。自分の恐怖のためにねるの自由を奪いたくなかった。


「………いつかまた、ねるに会えるよ」

「……その未来があったとして、それまでは?」

「ねるのことを想ってる。ずっと、好きでいる。私にとって、ねるは、そういう人。だから、」

「はあぁーーーー、」

「ーー………、」


理佐の言葉が終わる前に、ねるは深く長いため息をつく。
さすがにこの時ばかりは、ねるの視線が外れ、理佐の視界はねるの黒い髪に染まる。

ため息が切れ、けれどそれでもねるの視線は戻ってこなかった。

代わりに、とすっ、とねるの体重がかかる。
じわじわ伝わってくる、ねるの重みと温もり。 抱きしめたい衝動に襲われたけれど、その前にねるの言葉が投げられて、手が止まった。


「ねぇ、りっちゃん」

「……え?」

「なんで、いっつも理佐がおらんの?」

「………?」

「理佐の未来には、ねるがおる」

「でも、理佐が言ったねるの未来に理佐がおらん」


グラスを持つ手と反対の手を、ねるに取られる。
指を1本1本を撫でるように、肌感や、骨を確かめるようにねるの指が這わされていく。



「今までもそう。記憶消した時も、ねるに縋っちゃいけんって、ねるの世界に自分がいたらいけんってしよる」


………理佐は、
いつでも、後回しで。
いつでも、ないがしろで。

理佐は、好きな相手には
2歩も3歩も下がって、邪魔しないように影響しないように。
そっと、そこにいるだけを、望んでいる。






「……りっちゃん」


それを寂しいと思ってしまうのは、理佐には失礼なのだろうか…


「ねるは、りっちゃんにもっと自分のこと好きになってほしい」


ねるは、理佐の手をなぞる。
この手を、こうして触れるのはきっと自分しかいない。……そうあってほしい。


「ねるの為に、他の誰かのために、自分のこと捨てんでいい」


理佐の手は、いつもねるに優しく触れる。

愛おしく、大切だと思う。

そして。
優しく、愛していきたい。


「ねるは、りっちゃんのそういう所も全部、愛しとるけど、でも、理佐が理佐自身を認めてあげんと、これからもねるの為やーってすれ違うとよ」


だけど、

だからこそ。


「あんなん、もう嫌ったい」

「……」

「理佐とすれ違うんは、理佐がいなくなる、そんなの、もう嫌…」

「ーーねる、」

「りっちゃん、」



それと同時に、愛して欲しいと思う。


理佐に、理佐自身を。



「ねるの大好きな理佐のこと、愛してあげて、?」

「……、」

「大事にして」


ねるのこと好きでいてくれる、その先で
ぐるっと一周して。
自分のこと、愛してあげて欲しい。


「ゆっくりでよかよ、ちょっとずつでよか」


ねるの、喉が引き攣る。
声が、出しづらい。

でも、今、伝えなければ

今、だから。
伝えたいと、強く思う。


「理佐の思う、ねるの未来に」


『今』のこの瞬間から、これから先。
一瞬だって離れることがないようにと思う。



「ねるの隣に、りっちゃんにいて欲しい、っ」



その願いは……あなたにしか叶えられない。



「ずっと、一緒におって…」


言葉と同時、ねるの頬に涙が伝い、
それを理佐の手が優しく拭う。

変わらない、その手つきにねるは詰まっていた息を吐く。
濡れた理佐の手にねるは手を重ねて、頬を擦り付ける。

一瞬戸惑った動きを見せた手は、それでもゆっくりとその頬を包み込んだ。



撫で上げる手に、顔を上げさせられて

気づけば、強く紅い瞳が、ねるを見つめている。


吸い込まれるようにして、近づき
柔らかい唇に、触れる。


「………、」

「ーー………ねる、」





少し低い、理佐の声。

熱の篭ったその声が、鼓膜を刺激して

ねるの、口腔内に紅い液体が流れ込むーーー。










叶うなら。




『番』が、『楔』が、
どんなに重い鎖でも、構わない。



純粋で、傷だらけの、キレイな理佐はきっと知らない。

ねるの愛は、重くて、
どんな鎖より、脆さを知らないこと。

吸血鬼という、血なまぐさい世界があったとしても
喜んで、その沼に落ちるよ。





沈んだ先は、きっと、
誰にも邪魔されない、2人きりの世界やと思う。





そのための、番も、楔も、契約も。

そのすべてよ、
私と、理佐を離させないで。


もう二度と、離れないように固く。





この血は、


そのためのーーーー。





















『ーーーーっ、、……っ!』



身体が、あなたに染まっていく。

深く沈む、その中で




あなたの手は






熱くて、


冷たくて、



酷く優しく、


乱暴だった。




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