Wolf blood
「ーーー……りさ、」
「………、」
記憶を修正して、ねるに返す。
あまりに勝手なその行為は、きっと誰からも許されるものではないのだろうな、と他人事のように思った。
けど、そんなのは目の前のねると向き合ってから考えるべきで
もっと言うなら、記憶なんて元から弄るものではないんだ。
ねるの声が、僅かに変わる。
戻された記憶に、色んな感情が渦巻いているように見えた。
「…なんで、ねるの記憶消したと?なんで、いなくなったと?」
「………、ねるに、」
少しだけ怖い、ねるの声。
記憶を戻してから、まだねると視線は重ならずその色が見えなかった。
「…私なんかが、ねるを縛り付けちゃいけないと思った」
「……」
「きっと、ねるが他の誰かを好きになって……離れる時に、私はねるが泣いても叫んでも、離せない…ねるを捕まえてねるの大事な時間を奪っちゃう。そんなの、したくなかった。しちゃいけないって、思った」
「………」
「だから、まだ人間に戻れるうちに……っ」
言葉が途切れる。
正確に言うなら、何かに遮断された。
「ーーー、え、」
ねるに向いていた顔が少しだけズレて、頬にビリビリとした鋭い痛みが走る。
視線を上げれば、怒ってるのに泣きそうなねるの瞳と視線が重なった。
「…理佐の…」
「ち、ちょっと待って!ねーー」
「ばかーー!!!」
視界に刺した、振り上げられるねるの右手は握りしめられていて身体が強ばる。
しばらく前の衝撃が、一気に蘇ってきて逃げることも止めることも出来なかった。
「っ…!!!!」
衝撃とともに少し鈍い音がして、体が地面に落ちる。
地面に着いた手には土がついたけれど、それを払うことも許されないまま
倒れ込んだ体の上にねるが馬乗りになって。思わず歯を食いしばった。
「ーーー……っ、?」
でも。そこから、なにも起きることはなくて恐る恐る目を開ける。視界に入ってきたねるの手は理佐の服を握りしめていて
それが痛々しくて、苦しくなった。
「………っ、」
「……ねる?」
長い髪が邪魔で、ねるの顔が見えない。
ただ、胸元のねるの手は強く握りしめられながら震えていた。
じんわり痛むのは左胸辺りで、殴られたのはそこだったのかと頭の端で思う。
「……………」
「ねぇ、裏切りって、なん、?」
「ーー…」
「ねるは、理佐に何をしたと?」
ーーーーー…戻ってきた、記憶。
理佐の言葉が悔しくて悲しくて、手を止められなかったけれど、
でも、すぐに罪悪感と自己嫌悪に陥る。
ねるは、理佐を傷つけた。
それだけは、間違いない。
なのに。
「…ねるは、なにもしてない」
「嘘!理佐はあの時、悲しい顔しとった!悲しかのも、記憶消したんも、それからや!」
理佐は優しすぎる。
自分を後回しにしすぎる。
ねるのために、隠すことが多すぎる。
「………ねる、」
「っ、」
「…ねるは裏切ってなんかない。本当だよ」
「やって、りっちゃん、!」
「……ねるが誰かを想うことをダメなんて言わない。ねるは由依を助けようと思った、その行動が間違ってるわけない」
「っちがう!そうやなくてっ」
あの時、理佐にあんな顔をさせたのは自分だ。
それがちゃんと分からなきゃ、理佐といられない。
今を居られても、きっとまた別れが来る。そんなのはもうたくさんだった。
「ちゃんと、教えて…っ、ねるは理佐に何したと?」
「………」
「理佐…!」
理佐の視線が逸らされて、悲しいのか悔しいのか、ぐっと胸が苦しくなる。息を仕方を忘れてしまったようだった。
手が痛くて、視線を向ければ握りしめた手が理佐の服をぐしゃぐしゃにしていて。
でも、緩めることなんて出来なくて
ちゃんと捕まえてなきゃ、理佐はまたどこかに行ってしまう気さえした。
「……番は絶対だ」
「……」
「真性も形式からなのも関係ない」
理佐の声が、理佐の落ち着いた声が触れる。
固く握りしめた手を、解くように、
理佐の少し大きな手が触れてくる。
好きで、愛しくて、触れたかったそれが目の前にあることが嬉しくて。
でも、
理佐を傷つけた過去に、悲しくて。
感情はごちゃごちゃで、
なんで、好きなのに
こんなに辛くて、悲しいんだろう。
なんで、苦しんだ先で一緒にいられるという予測も希望も立てられないんだろうか。
好きだけど、好きだから、別れよう。なんていうのは、ドラマや漫画の世界だとどこかで線引きしていたのに
その世界はあまりに身近で、今なら届いてしまいそうで。むしろ、自分は今その選択を迫られているのかもしれない。
「…人間で言う、浮気や不倫と一緒だよ。ねる」
「………ッ、」
「誓ったその人とは別の人と、吸血鬼でいう『そういう行為 』をすれば、それはその人への裏切りだっていうでしょ?」
「、なら、ねるは…」
「……ねるは番ってなんだと思う?」
「え?」
「ねるが知ってるのは、土生ちゃんと美波くらいかな。あのふたりは『番』だよ、真性の方のね」
「………」
「ただ、前にも言ったけど、真性の番に出会えることは稀だから。パートナーとした人を『番』とすることが多くなってる。……それが『形式』の人達。でも、それには形式を辿る必要があるんだ」
「ーー………」
まさか、と先を予測する。
遠回しなその言い方に、思考を巡らせる。
どんなに記憶を探しても、そんな形式を辿った記憶など見つからなかった。
「……ねるは、まだ私の番じゃない」
「ーーー」
目の前の理佐は、あまりに真剣な目で、気まずそうにその言葉を紡ぐ。
心臓の鼓動が激しくてうるさい。
心と体がバラバラになって、
体は動揺を訴えてきて、心は静かにして欲しいと苛立つ。
どこか体が浮ついているような感覚さえあった。
「『真性も形式からなのも』。それは番には契りが必要だからなんだ。でもそれをするには、ねるは人間じゃいられなくなる」
……
「友香は正確には契りを交わしていないよ。そういう道を選んだ。友香に番はなく、あの人は人のまま。あのふたりは、番とか契りとかそういう吸血鬼の枠には収まらずにふたりの在り方で生きたんだ。」
………、
「……ねるに、20歳まで待ってほしいって言ったのも、まだ選べるって言ったのも、そういうことだよ。それがねるを否定して傷つけてしまったのは…気付けてなかった」
…………、。
「けど、…だから、由依の言ったことは気にしなくていい。由依は、ねるを私の番だと思ってたし、だからあんなこと言ったんだ。私はねるが裏切ったとは思ってない。さっき言ったように、ねるが誰かを想うことがダメなわけないんだ」
「………やけん、ねるを縛り付けちゃいけんって思ったと?」
「………」
「やけん、理佐はねるから離れたとやろ?」
「………ねる、」
ずっと、なんで理佐は離れていったんだろうと、思っていた。
理佐のへたれで、ネガティブな考えが、また後ろ向きに進んでってて
だから、ねるはりっちゃんを捕まえて、……抱きしめたいと、思ってた。
そうしたらきっと、理佐は泣きながら笑って
ねるを、抱きしめてくれるって……。
「っ、ごめんなさい」
「………ちがうよ、」
何を、驕っていたんだろう。
理佐は過去に囚われて、苦しんで、引きずってると思い込んで。
そんなんじゃない。
理佐を傷つけたのは……ねるだ。
「…傷つけて、ねるが…理佐をそうさせた、!」
「ちがう、ねる。泣かないで」
「っ、嘘ばっか言わんで! 理佐は、ねるを『番』やって一生懸命守ろうとしてくれた!てちにも番にするって言っとった!由依さんにも怒ってくれた!」
ごめんなさい。
理佐、。
「 契りなんて関係なか!!理佐はちゃんとねるを番やって思ってたと!ねるはそれを裏切った!ちゃんと理佐を想えてなかったんはねるばい!!」
ーー悲しくて、泣きそうな。絶望の中に立つようなあの顔を、なんで最後まで忘れていたんだろう。
ねるが、しなくちゃいけないのは
理佐にちゃんと向き合って、その手を真っ直ぐに、掴むことだ。
「ちゃんと言ってよっ、」
「ーーっ、でも」
「理佐っ、」
あなたが、『それ』を口にしなきゃ、ねるたちは進めんよ。
一緒におれなくなる。
お願い。
理佐は、相手が誰だろうと傷つけたくないこと知っとるよ。
弱いところ見せて、相手の想いを潰すようなことしたくないこと知っとる。
優しくて、守ってくれよる。
でも、それだけじゃ、
またねるたちは、さよならしちゃうんよ。
「やだった、、、!」
そのか細い声は、
小さい子どもみたいで。
小さい子どもが、服を握りしめて、涙をいっぱいに溜めながら
わがままを言うみたいな声で。
胸が、締め付けられるように痛くなる。
「…っ、」
そんなの、ちがうのに。
「何があっても、私の事、想ってて欲しかった……!」
ーーでも、そんなこと許されるわけが無い。
「ねるに触れた由依が許せなくて」
ーー唯一の君にとって、自分が君の唯一じゃなくなっても、
そんなことを嫌だなんていうのは、贅沢だ。
「でも、ねるがそれを許したのを認めたくなくて…っ」
ーー自分なんかが、そんなわがままや贅沢を押しつけるなんてありえない。君が、そこにいてくれればいい。
「由依を信じたわけじゃない、、でも、ねる。…ねるの手が、由依のことを掴んでて……ねるが離れていくのが耐えられなかった…」
ーーなのに。感情と思考が、どんどんズレていって バラバラに崩れていって。
「私がねるを繋ぎ止めることも、捕まえて離さないことも、しちゃいけないって思った。でも、それ以上に、ねるが離れていくことを想像して生きていくのが怖くて…辛くて…」
ーー言うことも出来ないくせに、自分の中で処理もできない。
やっぱり私は、不良品なんだ。
「……理佐…」
「だから、逃げたんだ…っ、こわくて、だから、」
追えないように記憶を消して、
自分の中のねるだけは、誰にも邪魔されない唯一のものだから
それだけで、君だけに満たされて、生きていこうとした。
「理佐、」
「……っ、ごめん、ねる、ーっ!」
体が、何かに包まれる。
喉が引き攣って上がった隙に、首へ腕が回されて
ねるに、抱きしめられていると気づいたのは一拍後で。
私の手は反射的に上がるけれど、ねるの背に回ることをまだ迷ってしまう。
けど。
「謝らんで…」
ねるの、優しい声が耳元に響いて
ねるの熱が全身に広がって、
ねるの香りが、鼻腔を掠める。
「ねる、どんなりっちゃんも愛しとるよ」
「……っ、」
「傷つけて、裏切って、ごめんなさい」
心臓が、ドクンと大きく鼓動するのは
ねるに高鳴っているのか
ねるの血を欲しているのか、
どっちなんだろう。
「でも、離れんで。一緒におって。……ねると一緒に、生きてほしか、」
「……っ、」
けど、今。そんなことどうでもいい。
「ねるは、理佐の番になりたい。ちゃんと、理佐の番になりたか」
ねるの背に、ゆっくり、
腕を回す。
抱きしめて、ねるの華奢な体を確かめるように
体を密着させた。
まだ蕾の桜の下。
春先の、冷たさの残る空気に包まれる。
「ねる、」
「…………、」
すべてが安心する、その存在と
私のすべてを揺るがす、その存在が
たったひとつなんて、苦しいに決まってる…。
『一緒にいる』も、『離れない』も
きっともう、使い果たしてて。
迷い続けて、何度も突き放した私なんかが言っても、
言葉の信用性を失くすだけだから。
君と離れない、離れることを許さない。
代わりはなく、変わることの無い。
その楔を、ここに掛けたい。
「…私の、番になって」
最後まで、自分が信用出来なくて、モノに頼ってしまう私に
ねるは、口付けとともに笑顔を返してくれたーーー。