Unforgettable.
保健医というという仕事は意外と幅広い。目に見える外傷や体調不良を訴えてくる生徒の対応だけではない。
どこまでが保健医として関わり介入して良いのか、そしてそれが許されるのか。自分が仕事の範疇だと判断したとしてもそれが他から見てもそうだとは言えない。何処が境目なのか、ボーダーラインのあやふやな仕事だと思う。
しかしだからこそ、見逃してはいけない部分がある。
あやふやだから、目を背ければきっと、何も見えなくなってしまうから。
「…菅井先生」
でもこれは、きっと保健医の仕事ではないのだろう。
彼女は、彼女たちは。自分が把握すべき生徒であることは間違いないけれど、
私は保健医としていられないし、彼女も保健医としての菅井友香を求めていないと分かっている。
午後の講義が始まって直ぐ、彼女は保健室を訪れた。その表情に何しに来たのかすぐ分かった。
あの時、『親戚』だと明かした時からこうやって求めてくるのを待っていたのかもしれない。
「場所を移しましょうか、長濱さん」
「…答えてくれるんですか…?」
覚悟を決めたねるの目は菅井の言葉に戸惑いを見せる。
ねるの知る吸血鬼の世界は、秘密にすべきでひた隠しにされるものだった。だから、菅井が話をしてくれる姿勢に拍子抜けしたのだろう。
「あの子たちは色んなことを考えすぎちゃうことがあるからね。…愛佳がいるから、バランス取れると思っていたんだけど…」
「………」
仕事があるから、放課後でいい?
ねるは菅井の提案を承諾し、保健室を出た。
目的もなく歩いている途中で、さっきから自分の足元しか見えていないことに気づく。まだ自分がショックから立ち直っていないのだと知れる。
心が何も感じていないような気がしていたのは、傷ついてないという訳では無いのだろうな、と他人事のように感じていた。
息を吐いて顔を上げると、土生と小池の後ろ姿が見え、ちょうどいい。誰にも聞かれることはないだろうと何も考えずに声をかけた。
「はぶちゃん、みいちゃん」
「あ、ねるだ」
「…体調大丈夫なん?休んどったやろ」
「うん、大丈夫。あのさ、聞きたいことがあるだけど」
小池の心配を他所に、問いかけてくるねるに2人は違和感があった。
常に周りに気を遣うねるが、自分の主張を続けている。
「みんなで夜桜見に行ったやん」
「え?うん。あの時はバラけちゃってごめんね」
「あん時誰と一緒やった?」
「うちは土生ちゃんとおったよ」
「……そう。愛佳は…?」
「……うちらは分からん、ねえ土生ちゃん」
「………」
「土生ちゃん?」
言葉少なげだった土生が、小池の問いかけにも言葉を発さない。その代わり、ねるから目を離さなかった。
「はぶちゃん、なんか知っとるの?」
「……ねるは、それを知ってどうするの?」
「………」
『それ』とは何についてなのだろうとねるに一瞬の疑問が浮かぶ。
『愛佳がどうしていたか』?
それとも『理佐のこと』?
理佐とのことなんて、2人には話していないけれど、土生の目に見透かされているような気さえした。
ドクドクと心臓がうるさくなる。指先が冷たくなっていく。
それに気づかない振りをして、会話を続ける。
「……それ、なんか知ってるってこと?」
「何も知らないことはないよ。…少なくともねるよりは」
「っ、」
土生らしくない。こんな挑発的な言葉は初めてだった。
心が乱されていく気がする。
理佐のことが知りたかった。でもそれは、本当に純粋に『理佐のこと』だけだったのか。
ただただ、無遠慮に、不躾に、理佐の心に土足で入ろうとしているだけじゃないのか。
だって、自分と理佐の関係なんて『友達』以外なんの形容詞もつけられない。
下手したら『吸血鬼と獲物』になってしまうのかな、なんて訳の分からないことを思ってしまう。
黙り込むねるを目の前に、小池は土生の裾を引く。
土生は小さくため息をついた。
「ごめんね、ねる。……愛佳はてちといたよ。途中までね」
「っ!え?」
「理佐と見た桜は本当だよ。それは疑わなくていいからね」
「…うん、」
2人と別れて、再び廊下を歩く。
放課後まで時間は余る程だった。講義を受ける気にはとてもなれなくて、結局いつもの様に図書室へ逃げ込んだ。
あの時襲われた棚へ向かう。
『吸血鬼とよばれるモノ』という本はあの時と変わらず棚に並んでいた。
背表紙を撫でて、そのまま、自分の首元を撫でる。
ーーーあの日、理佐は『吸血鬼』という言葉に疑問を投げてこなかった。理佐が正体なのかという問いかけに、拒絶と誤魔化しを示しただけだった。
理佐にとって、ねるの『記憶』は『夢』にしたかったのだろうか。
ねるの中では、あの行為は理佐でしかない。自分の肌に触れたのは、理佐だ。
それを、『夢』にしたいのだろうか。
理佐に拒絶され拒絶してから、ねるは数日学校を休んだ。むしろベッドから出ることも起き上がることさえひどく苦痛だった。
身体が重すぎて、ひとつひとつの動作に倍以上の体力を使っているような気さえしていた。
さすがに親も、そんなねるをみて学校へ連絡してくれた。病院へ連れていかれそうになったけれど、『疲れ』だと言い張り拒んだ。あと一日でも寝込んでいたら引きずってでも連れていかれたと思う。
……今、首元には噛み付かれた痕がある。
大事な証だった。
夢ではない。確かな現実である証。
あの夜に、理佐ではないなにかにこの痕をつけられた現実はそれこそ夢だと思いたいけれど
今はそんなことどうでもいい。
いつかの日の様に理佐に会えば消されてしまうから、今日は午後から家を出て理佐と会わないようにすぐ保健室に向かった。
不安はあったけれど、菅井には消されなかったし、恐らく痕にも気づいていない。それでも話す姿勢を見せてくれたことは大事なチャンスだと思った。
……理佐。
貴女が夢だと言ったこの記憶は、どうしたらいい?
無かったことになんてできない。
理佐は、ねるに忘れて欲しいの?夢はいつか消えて、消えたことにすら気づけないから。
そうやって、ねるの前から消えていってしまうつもりなの?
いつも優しいのに、その優しさが当たり前すぎて消えてしまいそうで、怖いって思ってること知ってるのかな。
自分の事を後回しにばかりして、そこに居ないとばかりに最後にして。それが当然のことになって、いなくても気づかれない。
それはとても怖いよ。
でもきっと、理佐はそれを望んでるのかもしれないって思うんだ。
いつもどこかで、消えたいって
そんなこと、誰も望んでないのに。