傷つけたくない。
早貴は足早に校舎へと続く通路を進む。頭の中は舞美を手中に収めることで埋まっていた。
「ーーー中島早貴、さん」
しかし、声を掛けられたことで思考が中断される。不機嫌に顔を上げ、相手を見やると一瞬で身体が強ばった。
「…あんた」
「こんにちわ」
「……何の用ですか」
どんなに口調や態度が悪くなっても語尾くらいは意識した。先輩だからというのはもちろんだが、本能が危ないと言っている。可愛らしい笑顔に隠れているのは明らかな黒だった。
「大分修羅場だったみたいだね」
「…先輩には何もしてないじゃないですか」
何を優先して行動したら良いのか、恐怖のせいで見誤りそうになる。
距離はある。すぐなにかされる距離ではないのにすぐ動ける様に身体が力んで、今にも逃げそうなのに強張り過ぎて動けない。
「――あの子…ももに何か、した?」
「――っ」
身体に、若干の寒気。
「…なにもしてません」
「そう。ならよかった。
ーーー私に何もしなくて正解だったね」
「ッ!!」
早貴の目が見開く。嫌な汗が背中に滲み、心臓が異常な働きをし始めた。
「貴女が私に何をするつもりだったかなんて分かってるよ。だから忠告して止めてあげたの」
「……」
早貴に忠告された記憶はない。ただ、桃子の保険をかけようと下見に行った時、言い様のない悪寒に襲われ手を出すのを止めた。
あの時の悪寒は今自身を襲う寒気と同じもの――
「私に何かしたらももが何するか分かんないよ」
「!」
あったはずの距離がない。すぐ隣に相手がいる。
「ももに何かしたら私が何するかわかんないけどね」
刺さる視線に指先ひとつ動かせない。ドクドクと心臓だけが暴れている。
「舞美の何を狙ってるか分かるしそんなの貴女の勝手だけど、私達に関わって只じゃ済まないのは、中島さん、貴女だよ」
『最後の忠告だからね』そう言うと、早貴の来た道を辿るように離れていった。
圧力から放たれ、いつの間にか止まっていた呼吸が荒々しく再開する。
「っ、しみず、佐紀…!」
桃子が目の色を変え自分を見失う程に、桃子自身に存在する『あの人』
何もしてこなかったのは、知らなかったからじゃない。早貴の狙いから何が起きてるか全て知った上で何もしなかったのだ。
理解して漠然とした恐怖に襲われる。栞菜の怒りが幼稚に感じる程に、まったく別のものだった。
早貴は桃子へ何かするつもりなど全くない。だが、舞美を自分のモノにしようとすれば今回の様に桃子は関わってくる。
そのリスクを背負って舞美へ手を出す気は消えていた。
少し時間を置いてから、再び校舎へ歩き出す。前を向く早貴に桃子達に対する恐怖や焦りはあっても、反省や後悔などの感情はなかった。
既に、早貴が起こすべき行動はない。
最低ラインを越し良いところで留まっている。
あとは仕掛けた罠に舞美が行動を起こすのを待つだけだった。