【hkok】春うらら
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うるさいぐらいの笑い声が、無機質な物体から響き渡る。耳障りなそれはいつもなら好んで鑑賞したりしない、テレビのバラエティー。気が紛れない時にはつい頼ってしまいがちで、今はまさにその使い時だった。
「遅いなぁ…」
テーブルの上に並んだ、ラップに包まれた食事を指で弾く。食べてくれる人がいなくてはこの食事たちもさぞかし寂しいだろう。そしてそれはおそれながら作った私にも当てはまる。
手元に寄せていた置き時計はすでに、午後十時を指していた。夜中でもあるまいし、遅いというには早すぎるかもしれない。だが以前から比べて彼――土方さんの帰りが遅くなったのは紛れもない事実だった。
仕事が忙しかったり、道場の方と話し込んでいる可能性も考えないわけじゃない。それらを考慮した上で、だ。
何より、帰ってきた時の土方さんの様子が一番の疑問だった。
話していても変によそよそしいというか、心なしか表情も強ばっている。進んで話してくれていた道場での話も、今ではこちらから聞かなければ話題にすら出ない。それも一言、二言でその会話は止まる。
何かあったのか聞いても返ってくるのは「何でもない」の一辺倒。もしくは不自然な笑顔でかわされてしまう。
「(なんて、私は浮気を疑う奥さんかい)」
土方さんには土方さんの生活があるのだ。もう私があれこれ干渉するいわれはない。少し寂しくはあるが、この空気に馴染むことができたのは喜ばしいことだ。
嬉しい、何よりだ。
呪文のように自分に言い聞かせて、気持ちを入れ替えようとする。しかし何故か逆に虚しくなり、どうしようもなくなる自分がいた。
深い深いため息を吐き出すと、テーブルに突っ伏して視界を遮った。一切を映さないそこに意識を集中させ、何も考えられなくする。
妙な安心感に包まれて、私は沈んだ。
「馳走になったな」
「いえ、大したものも出せなくてごめんなさい」
「土方先生、またね!」
「…ああ、しっかり休めよ」
一段上に立つ二人を見、軽く手を振って背を向けた。
荘介に構ってたら今日は一段と遅くなっちまった、やや急ぎ足になりながらアパートの階段を下る。カンカン、と拍子よく踏み鳴らす音が静かな此処には大きめに響く。最後の段を降り、あとは歩くばかりだと踏み出そうとした時だ。やや高めの俺の名前を呼ぶ声が背後から聞こえた。何事かと後ろを振り向けば慌てて階段を下る一人の女の姿があった。
「土か、――ひっ」
「!」
最後の一段で足を踏み外したのか、彼女の身体は前のめりに傾く。さして離れたところにいなかった俺は、難なくその小さい身体を抱き留めた。
怪我をするのは荘介だけで十分だ。胸にもたれる母親に安否を問うと、ややあってから礼の言葉と共にそそくさと身体を離した。暗がりのせいでよくは見えないが、その顔は赤くなっているように見える。しかし病気のようではないため特に気には留めず、何かをためらっている目の前の彼女を見据えた。
「これを、」
控え目に差し出された、一枚の紙切れ。中を開くと見慣れない文字が規則正しく並べられていた。瞬間的に理解はできなかったが、見ているうちにこれが数字というのを思い出した。その数字とやらが何を差すのか分からないばかりに、無意識のうちに眉を寄せてしまう。本人の目にはさぞかし不機嫌に見えただろう、彼女は控え目に言葉を付け足した。
「私の携帯番号です。何かあった時にでも、よろしかったら…」
「…けいたい…」
確かそんな名前のものを名字も持っていたような。何だっけか、文や声を一瞬で伝えることのできるからくりだったか。
再度紙の上の数字を眺めていると、目の前の彼女は踵を返しかけていた。「おやすみなさい」と頭を下げたその人は今度こそ背を向けて戻っていった。
数十分後、一人の男は自宅となっている部屋の前に立つ。もう家主も床に就いているだろうと推し量った土方は、ポケットをまさぐると合い鍵を取り出す。そうして手元に握られた鍵を差し込み解錠の方向に回すが、何故かそれは意味を成さなかった。
まさかと思いノブを捻ると――案の定それは開いてしまった。
ふと土方の頭には「平成は平成で危険なんですよ」と以前言われた台詞と、毎日と言っていいほど流れるテレビの物騒なニュースが浮かんだ。
家主のあまりの不用心さにがっくりと肩を落としながらも、部屋に足を踏み入れる。
「今帰った、…ぞ」
しっかり施錠をし居間に足を向けると、そこにはテーブルに突っ伏して眠る名字がいた。すかさず土方の眉はぴくりと反応する。「寝るなら布団で寝ればいいのに」という悪態が口からついて出そうになったが、テーブルに視線を落とせばそれは霧となって消えた。
透明な膜に包まれた一人分の食事。彼女の分であればわざわざ残しておく必要はない……紛れもなくこれは自分のだと理解すると、土方は脱力しながら名字の横に腰を落とした。
「…すまなかった」
深く眠る彼女に、聞こえていないと分かりながらも土方は謝罪の言葉を口にする。
ただでさえ仕事をこなして疲れているというのに、律儀に土方の分の食事を用意して帰りを待っていた名字。それとは反対に、呑気に生徒の家で夕食をカッ食らっていた自分。男は額に手を当て、くしゃりと髪を掴んだ。
己に苛立つ心を抑え、眠る名字の顔を見やる。隣りに座る土方の気配に気づかないあたりに、彼女がどれほど深く眠りに就いているかが窺える。普段とは違うあどけない表情に土方の苛立ちは自然と凪いだ。
改めて自分の失態を心の中で詫び、名字の頬にかかる髪を除ける。身じろぎながらも起きない彼女の様子に思わず笑んだ。
土方は腰を上げ居間の隅に纏められた布団から厚めの毛布を一枚抜き取っては、それをそっと名字の背中にかける。しっかりと彼女を包んだのを確認すると、再びテーブルの前に腰を落ち着かせ、
「いただきます」
並べられた食事を、名字の気持ちごと噛み締めた。
『馳せる思い』
「…美味いな」
「遅いなぁ…」
テーブルの上に並んだ、ラップに包まれた食事を指で弾く。食べてくれる人がいなくてはこの食事たちもさぞかし寂しいだろう。そしてそれはおそれながら作った私にも当てはまる。
手元に寄せていた置き時計はすでに、午後十時を指していた。夜中でもあるまいし、遅いというには早すぎるかもしれない。だが以前から比べて彼――土方さんの帰りが遅くなったのは紛れもない事実だった。
仕事が忙しかったり、道場の方と話し込んでいる可能性も考えないわけじゃない。それらを考慮した上で、だ。
何より、帰ってきた時の土方さんの様子が一番の疑問だった。
話していても変によそよそしいというか、心なしか表情も強ばっている。進んで話してくれていた道場での話も、今ではこちらから聞かなければ話題にすら出ない。それも一言、二言でその会話は止まる。
何かあったのか聞いても返ってくるのは「何でもない」の一辺倒。もしくは不自然な笑顔でかわされてしまう。
「(なんて、私は浮気を疑う奥さんかい)」
土方さんには土方さんの生活があるのだ。もう私があれこれ干渉するいわれはない。少し寂しくはあるが、この空気に馴染むことができたのは喜ばしいことだ。
嬉しい、何よりだ。
呪文のように自分に言い聞かせて、気持ちを入れ替えようとする。しかし何故か逆に虚しくなり、どうしようもなくなる自分がいた。
深い深いため息を吐き出すと、テーブルに突っ伏して視界を遮った。一切を映さないそこに意識を集中させ、何も考えられなくする。
妙な安心感に包まれて、私は沈んだ。
「馳走になったな」
「いえ、大したものも出せなくてごめんなさい」
「土方先生、またね!」
「…ああ、しっかり休めよ」
一段上に立つ二人を見、軽く手を振って背を向けた。
荘介に構ってたら今日は一段と遅くなっちまった、やや急ぎ足になりながらアパートの階段を下る。カンカン、と拍子よく踏み鳴らす音が静かな此処には大きめに響く。最後の段を降り、あとは歩くばかりだと踏み出そうとした時だ。やや高めの俺の名前を呼ぶ声が背後から聞こえた。何事かと後ろを振り向けば慌てて階段を下る一人の女の姿があった。
「土か、――ひっ」
「!」
最後の一段で足を踏み外したのか、彼女の身体は前のめりに傾く。さして離れたところにいなかった俺は、難なくその小さい身体を抱き留めた。
怪我をするのは荘介だけで十分だ。胸にもたれる母親に安否を問うと、ややあってから礼の言葉と共にそそくさと身体を離した。暗がりのせいでよくは見えないが、その顔は赤くなっているように見える。しかし病気のようではないため特に気には留めず、何かをためらっている目の前の彼女を見据えた。
「これを、」
控え目に差し出された、一枚の紙切れ。中を開くと見慣れない文字が規則正しく並べられていた。瞬間的に理解はできなかったが、見ているうちにこれが数字というのを思い出した。その数字とやらが何を差すのか分からないばかりに、無意識のうちに眉を寄せてしまう。本人の目にはさぞかし不機嫌に見えただろう、彼女は控え目に言葉を付け足した。
「私の携帯番号です。何かあった時にでも、よろしかったら…」
「…けいたい…」
確かそんな名前のものを名字も持っていたような。何だっけか、文や声を一瞬で伝えることのできるからくりだったか。
再度紙の上の数字を眺めていると、目の前の彼女は踵を返しかけていた。「おやすみなさい」と頭を下げたその人は今度こそ背を向けて戻っていった。
数十分後、一人の男は自宅となっている部屋の前に立つ。もう家主も床に就いているだろうと推し量った土方は、ポケットをまさぐると合い鍵を取り出す。そうして手元に握られた鍵を差し込み解錠の方向に回すが、何故かそれは意味を成さなかった。
まさかと思いノブを捻ると――案の定それは開いてしまった。
ふと土方の頭には「平成は平成で危険なんですよ」と以前言われた台詞と、毎日と言っていいほど流れるテレビの物騒なニュースが浮かんだ。
家主のあまりの不用心さにがっくりと肩を落としながらも、部屋に足を踏み入れる。
「今帰った、…ぞ」
しっかり施錠をし居間に足を向けると、そこにはテーブルに突っ伏して眠る名字がいた。すかさず土方の眉はぴくりと反応する。「寝るなら布団で寝ればいいのに」という悪態が口からついて出そうになったが、テーブルに視線を落とせばそれは霧となって消えた。
透明な膜に包まれた一人分の食事。彼女の分であればわざわざ残しておく必要はない……紛れもなくこれは自分のだと理解すると、土方は脱力しながら名字の横に腰を落とした。
「…すまなかった」
深く眠る彼女に、聞こえていないと分かりながらも土方は謝罪の言葉を口にする。
ただでさえ仕事をこなして疲れているというのに、律儀に土方の分の食事を用意して帰りを待っていた名字。それとは反対に、呑気に生徒の家で夕食をカッ食らっていた自分。男は額に手を当て、くしゃりと髪を掴んだ。
己に苛立つ心を抑え、眠る名字の顔を見やる。隣りに座る土方の気配に気づかないあたりに、彼女がどれほど深く眠りに就いているかが窺える。普段とは違うあどけない表情に土方の苛立ちは自然と凪いだ。
改めて自分の失態を心の中で詫び、名字の頬にかかる髪を除ける。身じろぎながらも起きない彼女の様子に思わず笑んだ。
土方は腰を上げ居間の隅に纏められた布団から厚めの毛布を一枚抜き取っては、それをそっと名字の背中にかける。しっかりと彼女を包んだのを確認すると、再びテーブルの前に腰を落ち着かせ、
「いただきます」
並べられた食事を、名字の気持ちごと噛み締めた。
『馳せる思い』
「…美味いな」