♪ 嫌よ嫌よも好きと言え。
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通りを抜けた先にあったのは、街のメインストリートだった。
車やマジカルホイールが行き交う道路を挟んだ歩道には、昔の洋画で見るようなお洒落な店舗が軒を連ねている。建物の造りは近代的とは異なるものの、漂う空気感は元居た世界でも味わった覚えがあった。
例えるなら……東京で言うところの表参道とか、その辺り。貧乏学生には些か敷居が高そうなところなんか、特にそっくりだ。
お上りさんよろしく辺りを見回しながら歩いていれば、「こっち」という声と共に繋いでいた手を引っ張られる。私はフロイド先輩に引かれるがまま、ある店舗へと吸い込まれた。
「いらっしゃいませ」
そこはどうやら、レディースファッション専門の店のようだった。店内には形も色も多彩な洋服たちがセンス良く陳列されている。にこやかに出迎えてくれた店員さんもまた、ファッション誌から飛び出してきたような華やかさを身に纏っていた。
勿論、ここへは買い物をする為に来たのだろう。だが何故よりによってレディースなのだろうか?
男二人で来るにそぐわない店なのは誰が見ても明らかだし、今の自分は(出来はともかく)男を演じている身。買い物はおろか、店内を見て回る気なんてとても起きない。
「ねぇ、小エビちゃんはどっちのがいいと思う?」
服を選ぶ先輩の影に隠れていれば、両手にハンガーをぶら下げたフロイド先輩がこちらを振り返る。私の目の前には片やピンク、片や水色を基調としたワンピースが掲げられた。
真剣に選ぶ様子から察するに、誰かへのプレゼントなのだろうと推し量れる。着る人が分からなくてはイメージし難いが、個人的に選ぶとしたら水色のほうだった。
「ハァ〜? 絶対こっちのが似合うし」
「私に聞く必要ありました?」
あろうことか、フロイド先輩は私が指差した方をラックに戻した。
既に答えが決まっていたのならわざわざ聞かないでほしいものである。白い目で見ていると、グイッと胸元にピンクのワンピースを押しつけられる。
「じゃ、着てみてよ」
「……へ? 私がですか?」
「当たり前じゃん。まさかオレに着ろとでも言いたいわけ? 小エビちゃん趣味悪〜」
「違いますけど、なん──ちょっ、押さないで下さいよ!?」
「ハーイ、試着はあちらでーす」
二の句も継がせぬ勢いで背中を押され、体がみるみる店の奥へと追いやられる。ブルドーザー並の馬力に勝ち目はなく、まんまとフィッティングルームと書かれた扉に押し込められた。
「待っててあげるから、着替え終わったら声掛けてねぇ」
何とか脱出しようと試みるものの、外から押さえつけられているのか扉はビクともしない。私は早々に無駄な抵抗を諦め、腕に抱えていた服を広げ眺めた。
ワンピースを着るのなんて、いつぶりだろうか。緊張か、はたまた高揚感か。心なしか震える手で制服を脱ぎ、心臓をドキドキさせながらワンピースに袖を通す。
そして恐る恐る鏡に目を向けると、見慣れない〝女〟の自分が立っていた。
「か、かわいい……」
プロテクターで胸を潰していながらも、計算し尽くされた造りのお陰で身体の線を綺麗に見せてくれている。ぴったりとした上半身とは対照的に、腰の下ではAラインに広がるスカートが小波のように揺らめき脚をくすぐった。
「えへへ。たまにはこういうのもいいかも」
呟きながら自然と頬が緩む。ナルシストでもあるまいし、とは思いながらも、今は鏡の中の自分から目が離せなくなってしまった。
調子に乗り、くるりと回ってスカートを弄んでいれば「小エビちゃんまだ~?」と、催促の声が耳に届く。おまけに荒っぽいノックの音まで聞こえてきたものだから、すぐに我に返った。
いくら横暴なフロイド先輩といえど、さすがに他所の設備を壊すわけ……ある。遠い目をしていれば、案の定「すみません、お客様」と焦る店員さんの声まで聞こえきた。
この姿を他人、まして男と偽っている相手に見せるのはかなり抵抗がある。しかしガタガタと悲鳴を訴えている扉に、考える余地も無いことを悟る。腹を括った私は、深呼吸をひとつ挟んでからそっと扉を開けた。
「お……お待たせしました」
ぎこちない笑顔を作り、前に立つフロイド先輩を見上げる。視線を合わせた先輩はといえば、パチクリと目を瞬かせるとそのまま固まってしまった。
――あまりにも似合わな過ぎて驚いたのだろうか? それにしたって無言だけは勘弁してほしい。まだ大笑いされたほうが対処のしようがあるというものだ。
いよいよ居た堪れなさが限界に達した私は、再び扉を閉めようとした……が、すかさず大きな手が扉の縁を掴む。手の主はもちろん目の前の、いやにニコニコしているフロイド先輩だ。
「ねね、これも履いてみてよ」
足元に目線を落としてみれば、履きなれたローファーの隣に真新しい一足の靴が並んでいた。真珠色に輝く、エナメルのパンプスだ。ファッションの類に明るくなくとも、これが上質な靴であることは一目瞭然だった。
早く早く、と急かす声に後押しされ、躊躇いながら足を差し込んでみる。足に吸い付くような履き心地の良さに、思わず「わぁ」と感嘆の声が漏れた。
「……やっぱり」
「え?」
「オレ、この間小エビちゃんに似合う靴無いって言ったじゃん? これならぜーったい、似合うと思ったんだよねぇ」
大当たり~、と絆されてしまうような柔らかい笑顔を浴び、言葉が詰まる。
――これはいつもの先輩の気まぐれだ。呑気に喜ぶんじゃない。浮かれかけた自分に、すかさず頭の中で平手打ちをお見舞いする。
ただ、先輩のこんな笑顔を向けられる人はさぞかし幸せなことだろう――そう思うと、何故か少しだけ。ほんの少しだけ、卑屈な気分になった。
「プレゼントなら、その方に似合うものを選んだほうがいいんじゃないですか」
声色にも表情にも卑しい気持ちが滲み出ている気がして、フロイド先輩の顔が直視できない。逃げるように下を向いていると、「ハァ?」と気の抜けた声が降ってくる。
「だから、小エビちゃんに似合うの選んでんじゃん」
「……私、の?」
ぽかんと聞き返す私の声に、フロイド先輩は「そーだよ」と怪訝な顔をしながら頷いた。
「だって制服着てついて来られっと課外学習みたいで萎えるじゃん。せっかく休みなのにさぁ~」
そう言いながら頬を膨らませるフロイド先輩。まさかそんな理由で、とは思うがそういうところが先輩らしいと言えばそうだ。
――あのフロイド先輩が、自分の為に選んでくれた。その事実だけで、さっきまで抑え込もうとしていた気持ちがみるみる膨らんでしまう。
ニヤけそうになるのを堪えて束の間。見過ごせない一点に気付いてしまった私は、緩みかけていた口角を固まらせた。
「ちょっと待ってください。プレゼントは嬉しいですけど、これって……女物、ですよね?」
怖々と確認すれば、「女なんだから別にいーじゃん」と実にあっけらかんとした答えが返ってくる。
「それはそうで──ん?」
流れのまま頷きかけて、思考が停止する。
先輩の言葉を頭の中で反芻し、ようやく噛み砕いた私のこめかみに一筋の冷や汗が流れた。一方、フロイド先輩は〝何か問題でも?〟とでも言いたげに首を傾げている。
「なんで、私が女だって知ってるんですか?」
周囲に人はいないものの、内容が内容の為極力声を小さくして尋ねた。
「なんでって、小エビちゃん図書室で女向けのファッション誌とかも読んでたでしょ? それにー……」
「わぁっ!?」
「ほらぁ。締めるとフグみたいに柔らけぇの」
「ふ、ふぐ……」
ふぐ。漢字で書くと河豚。その字面のインパクトはあまりに強かった。真正面からハグ、もとい締め技を食らいながら呆然としてしまう。
――明日からダイエットをしよう、そうしよう。一人決意を固めている隙に、フロイド先輩はさっさと会計を済ませてしまったようだ。用はもう済んだとばかりに店外へ出て行く背中を慌てて追い掛ける。
「あのっ、すぐは無理ですけど、ちゃんとお金は払いますから」
「いーよ。オレが買いたかったから買っただけだし」
フロイド先輩はつまらなそうにこちらを一瞥すると、先へと歩いて行ってしまう。私は慣れないパンプスに足をもたつかせながら、慌てて先輩の隣に駆け寄った。
軽く上がってしまった息を整えながら、ふと横に視線を向ける。ピカピカに磨かれたショーウィンドウには、フロイド先輩と自分の姿が並んで映っていた。
言われてみれば確かに、制服の時は先輩に引率されているようだったかもしれない。しかし今なら……遊びに来た友人、ぐらいには見えているのだろうか。
「あ、オレあそこの店見たかったんだよねぇ」
「え……わっ、いきなり腕を引っ張らないで下さいー!」
――それから数時間、フロイド先輩の(少々強引な)エスコートの元、靴屋からカフェに至るまでありとあらゆる店を二人で練り歩いた。学園内が世界のすべてだった自分には、何をとっても目新しいものばかり。そのことを差し引いても、相手があの散々畏怖してきた先輩でありながら思いの外素直に楽しんでしまっていた。
とはいえ「一口ちょーだい」と何の躊躇いもなく私の食べていたジェラートを齧られた時は、とても一口の量ではなかったのと、恋人同士がするような行為に、二重の意味で驚いてしまったが。
店を梯子し移動を繰り返しているうち、私たちは海岸沿いの道まで来ていた。防波堤に沿ってのんびりと歩きながら水平線に沈んでいく夕日を横目に眺める。
世界が違っても海という存在にこんなにも心が惹かれてしまうのは、生き物としての本能なのだろうか。ぼんやり感傷に浸っていると、不意に視界の端にいたフロイド先輩がしゃがみ込んだ。
何か落としたのかと様子を見ていれば、おもむろに靴を脱ぎ始める。あっという間に裸足になった先輩は、道の傍らにあった階段を飛ぶように蹴って砂浜に降り立った。
「小エビちゃんも来なよ~」
笑顔で手招きする先輩に、どうしたものかと階段の上で佇む私。しかし、一考したところで先輩からの誘いを無碍にする選択肢は皆無に等しい。苦笑を漏らしながらも踵に指を引っ掛けた。
――お日様を存分に吸った砂浜は、まだほんのり温かかった。久しぶりのヒールでくたびれた足裏を柔らかい砂が優しく包み込んでくれているようだ。
私はパンプスを、フロイド先輩は履いていた靴と私の制服の入った紙袋を片手にぶら下げて、橙色に染まる砂浜を並んで歩く。
「フロイド先輩」
「なぁに?」
鼻歌混じりに歩いていた先輩は、私の呼び声に首を傾げた。
「今日は何から何までありがとうございました」
「なにが? 小エビちゃんはオレの買い物に付き合っただけじゃん」
……そういえばそうだったか。本来の立場をすっかり忘れていた自分に苦笑していると、真意を探るかのようにフロイド先輩は鋭い視線をこちらに寄越す。
私は本心からお礼が言いたいだけなのに、変に勘繰られては堪らない。先輩から醸される雰囲気に気圧されながらも口を開いた。
「私……こんなに可愛い恰好するのなんて、久しぶりだったんです。それに街に来るのだって初めてで、すごく嬉しくて――」
今日一日を思い返し、楽しさを噛み締める。体に蓄積された疲れすら心地よく思える、そんな感覚を味わったのは一体いつぶりだろうか。
「フロイド先輩より、私のほうが対価を貰っているみたいですね」
何となく照れ臭くて、あははと笑いを溢す。対するフロイド先輩は、眉をぴくりとも動かさず涼しい表情のまま、何故かポケットからスマホを取り出す。すいすいと慣れた様子で画面に指を滑らせると、途端にニヤリと鋭利な歯並びを覗かせた。
「そうでもねぇけど?」
大きな手に摘まれたスマホの画面が、これ見よがしにこちらに向く。自然と視線がそこに誘導されると――ジェラートを頬張る私の姿が、画面いっぱいに写っていた。しかも、ご丁寧なことに全身で。
「こ、これっ……いつの間に撮ったんですか!?」
「ナイスショットでしょ? 小せぇ口をめいっぱい開けて食べてる小エビちゃん♡ 餌にがっつく稚魚みたいでおもしれ〜」
言葉通り、画面を眺めながらけらけらと軽やかな笑い声をあげるフロイド先輩。
食事中の気の抜けた姿を切り取られたことも十分心外だが、それより何より〝全身〟ということが一番の問題だ。もしこの写真が他の生徒に見られようものなら、私が女であることが一瞬でバレてしまう。そんな事態だけは絶対に避けねばならない。
「がっついてはないです。ていうか今すぐ消して下さい」
「嫌に決まってんじゃん」
「即答ですか……」
素直に言うことを聞いてくれるような人物なら、かのオクタヴィネル寮長も手を焼かない。小エビと称されている私がどうこうできるわけがなかった。
もはやヤケクソでスマホを引ったくってみようと試みるが、ひょいと遥か頭上に掲げられてしまう。それだけでも苛立たしいのに、「え、もしかして今ジャンプしたの? 三ミリしか浮いてねーじゃん」とわざとらしく驚いた表情で言われ、危うく血管の一本が切れそうになる。
「つーかさぁ、対価払い足りねぇ〜って言ってたのは小エビちゃんだし。むしろこれ一枚でチャラにしてあげるオレ、超やさしくね?」
「ソーデスネ。消してくれたら尚優しいですけどね」
「ざーんねん。世の中の厳しさを教えてやるのも先輩の優しさなのデス」
フフン、と鼻を鳴らす都合の良い優しさを振りかざす先輩。ギリギリと歯噛みしながら睨むことしかできない自分のなんと情けないことか。
「ま、どーしてもって言うなら消してやってもいいけど。次出掛けた時、なに奢ってもらうか楽しみ〜」
完全に悪巧みをする人間の笑顔だ。こうなってはもはや為す術なし。
「……分かりました。すっごく不本意ですけど、写真を消してもらうのは諦めます。ただ、被写体になった人間にも意見する権利ぐらいはありますよね?」
「へぇ。なに? 聞くだけ聞いてやるよ」
余裕のある笑みで手を翻す様は、自分の置かれた立場を弁えろと言わんばかり。だが私も負けじと、眉間に力を入れて頭上にある彼の目を見据えた。
「他の人には絶……っ対に、その写真を見せないで下さい。それだけはお願いします」
「こんなに面白ぇのに? ジェイドとアズールにもダメなわけ?」
「もちろんダメです」
「うーん……ま、いっかぁ」
このマイペースな先輩が言うことを聞いてくれるか否か。勝率は半々もしくは二割ぐらいと弱気な賭けだったが、今回は奇跡的に勝ちをもぎ取れたらしい。フロイド先輩は面白いのになぁ、とぼやきながらスマホをポケットに仕舞う。変顔をしたわけじゃないのにどこがお気に召したのだろうか。どこか複雑な気持ちを抱きつつ、ホッと胸を撫で下ろす。
――冷静に考えれば、これで自分の弱みをフロイド先輩一人に全て曝け出してしまったのだ。重々警戒しなくてはならないというのに「学園の近くまで泳いで帰る」と言って聞かない先輩を説得するのに必死で、この時の私に考える余裕なんてなかった。
車やマジカルホイールが行き交う道路を挟んだ歩道には、昔の洋画で見るようなお洒落な店舗が軒を連ねている。建物の造りは近代的とは異なるものの、漂う空気感は元居た世界でも味わった覚えがあった。
例えるなら……東京で言うところの表参道とか、その辺り。貧乏学生には些か敷居が高そうなところなんか、特にそっくりだ。
お上りさんよろしく辺りを見回しながら歩いていれば、「こっち」という声と共に繋いでいた手を引っ張られる。私はフロイド先輩に引かれるがまま、ある店舗へと吸い込まれた。
「いらっしゃいませ」
そこはどうやら、レディースファッション専門の店のようだった。店内には形も色も多彩な洋服たちがセンス良く陳列されている。にこやかに出迎えてくれた店員さんもまた、ファッション誌から飛び出してきたような華やかさを身に纏っていた。
勿論、ここへは買い物をする為に来たのだろう。だが何故よりによってレディースなのだろうか?
男二人で来るにそぐわない店なのは誰が見ても明らかだし、今の自分は(出来はともかく)男を演じている身。買い物はおろか、店内を見て回る気なんてとても起きない。
「ねぇ、小エビちゃんはどっちのがいいと思う?」
服を選ぶ先輩の影に隠れていれば、両手にハンガーをぶら下げたフロイド先輩がこちらを振り返る。私の目の前には片やピンク、片や水色を基調としたワンピースが掲げられた。
真剣に選ぶ様子から察するに、誰かへのプレゼントなのだろうと推し量れる。着る人が分からなくてはイメージし難いが、個人的に選ぶとしたら水色のほうだった。
「ハァ〜? 絶対こっちのが似合うし」
「私に聞く必要ありました?」
あろうことか、フロイド先輩は私が指差した方をラックに戻した。
既に答えが決まっていたのならわざわざ聞かないでほしいものである。白い目で見ていると、グイッと胸元にピンクのワンピースを押しつけられる。
「じゃ、着てみてよ」
「……へ? 私がですか?」
「当たり前じゃん。まさかオレに着ろとでも言いたいわけ? 小エビちゃん趣味悪〜」
「違いますけど、なん──ちょっ、押さないで下さいよ!?」
「ハーイ、試着はあちらでーす」
二の句も継がせぬ勢いで背中を押され、体がみるみる店の奥へと追いやられる。ブルドーザー並の馬力に勝ち目はなく、まんまとフィッティングルームと書かれた扉に押し込められた。
「待っててあげるから、着替え終わったら声掛けてねぇ」
何とか脱出しようと試みるものの、外から押さえつけられているのか扉はビクともしない。私は早々に無駄な抵抗を諦め、腕に抱えていた服を広げ眺めた。
ワンピースを着るのなんて、いつぶりだろうか。緊張か、はたまた高揚感か。心なしか震える手で制服を脱ぎ、心臓をドキドキさせながらワンピースに袖を通す。
そして恐る恐る鏡に目を向けると、見慣れない〝女〟の自分が立っていた。
「か、かわいい……」
プロテクターで胸を潰していながらも、計算し尽くされた造りのお陰で身体の線を綺麗に見せてくれている。ぴったりとした上半身とは対照的に、腰の下ではAラインに広がるスカートが小波のように揺らめき脚をくすぐった。
「えへへ。たまにはこういうのもいいかも」
呟きながら自然と頬が緩む。ナルシストでもあるまいし、とは思いながらも、今は鏡の中の自分から目が離せなくなってしまった。
調子に乗り、くるりと回ってスカートを弄んでいれば「小エビちゃんまだ~?」と、催促の声が耳に届く。おまけに荒っぽいノックの音まで聞こえてきたものだから、すぐに我に返った。
いくら横暴なフロイド先輩といえど、さすがに他所の設備を壊すわけ……ある。遠い目をしていれば、案の定「すみません、お客様」と焦る店員さんの声まで聞こえきた。
この姿を他人、まして男と偽っている相手に見せるのはかなり抵抗がある。しかしガタガタと悲鳴を訴えている扉に、考える余地も無いことを悟る。腹を括った私は、深呼吸をひとつ挟んでからそっと扉を開けた。
「お……お待たせしました」
ぎこちない笑顔を作り、前に立つフロイド先輩を見上げる。視線を合わせた先輩はといえば、パチクリと目を瞬かせるとそのまま固まってしまった。
――あまりにも似合わな過ぎて驚いたのだろうか? それにしたって無言だけは勘弁してほしい。まだ大笑いされたほうが対処のしようがあるというものだ。
いよいよ居た堪れなさが限界に達した私は、再び扉を閉めようとした……が、すかさず大きな手が扉の縁を掴む。手の主はもちろん目の前の、いやにニコニコしているフロイド先輩だ。
「ねね、これも履いてみてよ」
足元に目線を落としてみれば、履きなれたローファーの隣に真新しい一足の靴が並んでいた。真珠色に輝く、エナメルのパンプスだ。ファッションの類に明るくなくとも、これが上質な靴であることは一目瞭然だった。
早く早く、と急かす声に後押しされ、躊躇いながら足を差し込んでみる。足に吸い付くような履き心地の良さに、思わず「わぁ」と感嘆の声が漏れた。
「……やっぱり」
「え?」
「オレ、この間小エビちゃんに似合う靴無いって言ったじゃん? これならぜーったい、似合うと思ったんだよねぇ」
大当たり~、と絆されてしまうような柔らかい笑顔を浴び、言葉が詰まる。
――これはいつもの先輩の気まぐれだ。呑気に喜ぶんじゃない。浮かれかけた自分に、すかさず頭の中で平手打ちをお見舞いする。
ただ、先輩のこんな笑顔を向けられる人はさぞかし幸せなことだろう――そう思うと、何故か少しだけ。ほんの少しだけ、卑屈な気分になった。
「プレゼントなら、その方に似合うものを選んだほうがいいんじゃないですか」
声色にも表情にも卑しい気持ちが滲み出ている気がして、フロイド先輩の顔が直視できない。逃げるように下を向いていると、「ハァ?」と気の抜けた声が降ってくる。
「だから、小エビちゃんに似合うの選んでんじゃん」
「……私、の?」
ぽかんと聞き返す私の声に、フロイド先輩は「そーだよ」と怪訝な顔をしながら頷いた。
「だって制服着てついて来られっと課外学習みたいで萎えるじゃん。せっかく休みなのにさぁ~」
そう言いながら頬を膨らませるフロイド先輩。まさかそんな理由で、とは思うがそういうところが先輩らしいと言えばそうだ。
――あのフロイド先輩が、自分の為に選んでくれた。その事実だけで、さっきまで抑え込もうとしていた気持ちがみるみる膨らんでしまう。
ニヤけそうになるのを堪えて束の間。見過ごせない一点に気付いてしまった私は、緩みかけていた口角を固まらせた。
「ちょっと待ってください。プレゼントは嬉しいですけど、これって……女物、ですよね?」
怖々と確認すれば、「女なんだから別にいーじゃん」と実にあっけらかんとした答えが返ってくる。
「それはそうで──ん?」
流れのまま頷きかけて、思考が停止する。
先輩の言葉を頭の中で反芻し、ようやく噛み砕いた私のこめかみに一筋の冷や汗が流れた。一方、フロイド先輩は〝何か問題でも?〟とでも言いたげに首を傾げている。
「なんで、私が女だって知ってるんですか?」
周囲に人はいないものの、内容が内容の為極力声を小さくして尋ねた。
「なんでって、小エビちゃん図書室で女向けのファッション誌とかも読んでたでしょ? それにー……」
「わぁっ!?」
「ほらぁ。締めるとフグみたいに柔らけぇの」
「ふ、ふぐ……」
ふぐ。漢字で書くと河豚。その字面のインパクトはあまりに強かった。真正面からハグ、もとい締め技を食らいながら呆然としてしまう。
――明日からダイエットをしよう、そうしよう。一人決意を固めている隙に、フロイド先輩はさっさと会計を済ませてしまったようだ。用はもう済んだとばかりに店外へ出て行く背中を慌てて追い掛ける。
「あのっ、すぐは無理ですけど、ちゃんとお金は払いますから」
「いーよ。オレが買いたかったから買っただけだし」
フロイド先輩はつまらなそうにこちらを一瞥すると、先へと歩いて行ってしまう。私は慣れないパンプスに足をもたつかせながら、慌てて先輩の隣に駆け寄った。
軽く上がってしまった息を整えながら、ふと横に視線を向ける。ピカピカに磨かれたショーウィンドウには、フロイド先輩と自分の姿が並んで映っていた。
言われてみれば確かに、制服の時は先輩に引率されているようだったかもしれない。しかし今なら……遊びに来た友人、ぐらいには見えているのだろうか。
「あ、オレあそこの店見たかったんだよねぇ」
「え……わっ、いきなり腕を引っ張らないで下さいー!」
――それから数時間、フロイド先輩の(少々強引な)エスコートの元、靴屋からカフェに至るまでありとあらゆる店を二人で練り歩いた。学園内が世界のすべてだった自分には、何をとっても目新しいものばかり。そのことを差し引いても、相手があの散々畏怖してきた先輩でありながら思いの外素直に楽しんでしまっていた。
とはいえ「一口ちょーだい」と何の躊躇いもなく私の食べていたジェラートを齧られた時は、とても一口の量ではなかったのと、恋人同士がするような行為に、二重の意味で驚いてしまったが。
店を梯子し移動を繰り返しているうち、私たちは海岸沿いの道まで来ていた。防波堤に沿ってのんびりと歩きながら水平線に沈んでいく夕日を横目に眺める。
世界が違っても海という存在にこんなにも心が惹かれてしまうのは、生き物としての本能なのだろうか。ぼんやり感傷に浸っていると、不意に視界の端にいたフロイド先輩がしゃがみ込んだ。
何か落としたのかと様子を見ていれば、おもむろに靴を脱ぎ始める。あっという間に裸足になった先輩は、道の傍らにあった階段を飛ぶように蹴って砂浜に降り立った。
「小エビちゃんも来なよ~」
笑顔で手招きする先輩に、どうしたものかと階段の上で佇む私。しかし、一考したところで先輩からの誘いを無碍にする選択肢は皆無に等しい。苦笑を漏らしながらも踵に指を引っ掛けた。
――お日様を存分に吸った砂浜は、まだほんのり温かかった。久しぶりのヒールでくたびれた足裏を柔らかい砂が優しく包み込んでくれているようだ。
私はパンプスを、フロイド先輩は履いていた靴と私の制服の入った紙袋を片手にぶら下げて、橙色に染まる砂浜を並んで歩く。
「フロイド先輩」
「なぁに?」
鼻歌混じりに歩いていた先輩は、私の呼び声に首を傾げた。
「今日は何から何までありがとうございました」
「なにが? 小エビちゃんはオレの買い物に付き合っただけじゃん」
……そういえばそうだったか。本来の立場をすっかり忘れていた自分に苦笑していると、真意を探るかのようにフロイド先輩は鋭い視線をこちらに寄越す。
私は本心からお礼が言いたいだけなのに、変に勘繰られては堪らない。先輩から醸される雰囲気に気圧されながらも口を開いた。
「私……こんなに可愛い恰好するのなんて、久しぶりだったんです。それに街に来るのだって初めてで、すごく嬉しくて――」
今日一日を思い返し、楽しさを噛み締める。体に蓄積された疲れすら心地よく思える、そんな感覚を味わったのは一体いつぶりだろうか。
「フロイド先輩より、私のほうが対価を貰っているみたいですね」
何となく照れ臭くて、あははと笑いを溢す。対するフロイド先輩は、眉をぴくりとも動かさず涼しい表情のまま、何故かポケットからスマホを取り出す。すいすいと慣れた様子で画面に指を滑らせると、途端にニヤリと鋭利な歯並びを覗かせた。
「そうでもねぇけど?」
大きな手に摘まれたスマホの画面が、これ見よがしにこちらに向く。自然と視線がそこに誘導されると――ジェラートを頬張る私の姿が、画面いっぱいに写っていた。しかも、ご丁寧なことに全身で。
「こ、これっ……いつの間に撮ったんですか!?」
「ナイスショットでしょ? 小せぇ口をめいっぱい開けて食べてる小エビちゃん♡ 餌にがっつく稚魚みたいでおもしれ〜」
言葉通り、画面を眺めながらけらけらと軽やかな笑い声をあげるフロイド先輩。
食事中の気の抜けた姿を切り取られたことも十分心外だが、それより何より〝全身〟ということが一番の問題だ。もしこの写真が他の生徒に見られようものなら、私が女であることが一瞬でバレてしまう。そんな事態だけは絶対に避けねばならない。
「がっついてはないです。ていうか今すぐ消して下さい」
「嫌に決まってんじゃん」
「即答ですか……」
素直に言うことを聞いてくれるような人物なら、かのオクタヴィネル寮長も手を焼かない。小エビと称されている私がどうこうできるわけがなかった。
もはやヤケクソでスマホを引ったくってみようと試みるが、ひょいと遥か頭上に掲げられてしまう。それだけでも苛立たしいのに、「え、もしかして今ジャンプしたの? 三ミリしか浮いてねーじゃん」とわざとらしく驚いた表情で言われ、危うく血管の一本が切れそうになる。
「つーかさぁ、対価払い足りねぇ〜って言ってたのは小エビちゃんだし。むしろこれ一枚でチャラにしてあげるオレ、超やさしくね?」
「ソーデスネ。消してくれたら尚優しいですけどね」
「ざーんねん。世の中の厳しさを教えてやるのも先輩の優しさなのデス」
フフン、と鼻を鳴らす都合の良い優しさを振りかざす先輩。ギリギリと歯噛みしながら睨むことしかできない自分のなんと情けないことか。
「ま、どーしてもって言うなら消してやってもいいけど。次出掛けた時、なに奢ってもらうか楽しみ〜」
完全に悪巧みをする人間の笑顔だ。こうなってはもはや為す術なし。
「……分かりました。すっごく不本意ですけど、写真を消してもらうのは諦めます。ただ、被写体になった人間にも意見する権利ぐらいはありますよね?」
「へぇ。なに? 聞くだけ聞いてやるよ」
余裕のある笑みで手を翻す様は、自分の置かれた立場を弁えろと言わんばかり。だが私も負けじと、眉間に力を入れて頭上にある彼の目を見据えた。
「他の人には絶……っ対に、その写真を見せないで下さい。それだけはお願いします」
「こんなに面白ぇのに? ジェイドとアズールにもダメなわけ?」
「もちろんダメです」
「うーん……ま、いっかぁ」
このマイペースな先輩が言うことを聞いてくれるか否か。勝率は半々もしくは二割ぐらいと弱気な賭けだったが、今回は奇跡的に勝ちをもぎ取れたらしい。フロイド先輩は面白いのになぁ、とぼやきながらスマホをポケットに仕舞う。変顔をしたわけじゃないのにどこがお気に召したのだろうか。どこか複雑な気持ちを抱きつつ、ホッと胸を撫で下ろす。
――冷静に考えれば、これで自分の弱みをフロイド先輩一人に全て曝け出してしまったのだ。重々警戒しなくてはならないというのに「学園の近くまで泳いで帰る」と言って聞かない先輩を説得するのに必死で、この時の私に考える余裕なんてなかった。