♪ 嫌よ嫌よも好きと言え。
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普段は騒がしい学園内も、休日の今日は拍子抜けしてしまうほどの静けさが漂っている。
空から降り注ぐ初夏の暖かな日差し、そよ風に揺れる木々の音や鳥の囀り、時々遠くから響いてくる運動部の声。そんな穏やかな空気に浸りながら歩いていれば、あっという間に学園の正門前へと辿り着いた。
先輩に指定された待ち合わせ場所だが、辺りを見回す限りその姿はまだ無さそうだ。万が一遅刻なんてしようものなら、目も当てられない仕打ちが待っていること請け合い。一先ず最悪の展開を回避できたことに、私はホッと胸を撫で下ろした。
ポケットからスマホを取り出すと、画面には指定された時間の十分前の時刻が表示されている。もう少しゆっくり歩いて来れば良かったかなぁと思いながら、門の柱に背中を預ける。
空や辺りの風景を当ても無く眺めている内に、五分ぐらい経っただろうか。正門へと続くストリートの数メートル先に、分かりやすい人影が見えた。
「おはようございます、フロイド先輩」
声の届く位置までやって来た先輩を捕捉すると、私は正門の真ん中へと躍り出た。
よくよく見ると、今日のフロイド先輩の恰好はいつもと大きく違っていた。ビビッドカラーがお洒落なマウンテンパーカーにスキニーパンツ、肩には白地にビニール加工が施されたボディバックを掛けている。ラフな格好でありながら、まるでモデルのような着こなしに少しだけドキッとしてしまった。本物の芸能人ならヴィル先輩を見ているはずなのに、我ながらおかしなことである。
動揺する私を尻目に、フロイド先輩はギザギザの歯を奥歯まで晒しながら「はよ~」と眠たげに返す。緩い雰囲気はいつも通りで何となく安心した。
思わず欠伸が移りそうになるのを噛み殺していると、フロイド先輩は目尻に涙を溜めたまま「あれ?」とこちらを見下ろす。
「今日はアザラシちゃんいねぇの?」
「ああ、グリムなら……マジフト部の朝練に助っ人で呼ばれてますよ。近いうちに大会があって、練習の人手が必要らしいです」
我が相棒ながら偉いですよねーなんて言いながら、腕を組んで頷いてみたりして。いかにも感心といった雰囲気を作っているが、これはあくまでポーズだ。実際には、言っていることの半分は嘘なのだから。
昨夜、出かけることを伝えると最初はグリムも尻尾を振って乗り気だった。しかし先輩の名前を出した途端、「マジフト部の練習のが絶対マシなんだゾ……」とげんなりした顔で断られてしまったのだ。おまけに「あいつと出かけるなんて脅されでもしたのか?」と心配までされてしまい、私は苦笑いで濁した。そういう印象を植え付けるに至る前科があり過ぎる先輩だ。グリムにしてみれば当然の心配だろう。故に、僅かでも楽しみにしているような人間――私のほうが間違っているのだ。
そんな事情など知る由も無い先輩は、「へぇ」と何か含みのある笑顔で呟く。
「丸腰で来るとか勇気あんね、小エビちゃん」
「へっ? ど、どどどういう意味です……?」
「んーん。なんでもなぁい」
何もなかったらそんなに嬉しそうな顔にはならないだろう。
明らかに思惑が感じられる笑みを残し、フロイド先輩は背を向けてしまう。麓に続く道へと進むその背中を、私は探りを入れるようにしげしげと眺めながら小走りでついて行く。
「やっぱりグリムも連れてこようかな……」
「は?」
「な、なーんちゃって〜ははは」
独り言のつもりだったが、先輩にはしっかり聞こえていたらしい。迫力のある四白眼で睨まれては冗談で流すしか選択肢が無かった。それにしたって、そこまで気分を害するほどのことなのだろうか。腑に落ちない気持ちをぶら下げながらも、直接ぶつける勇気はない。私は黙々と足を動かすことでかき消すことにした。
坂道は上りより下りの方がキツいという話はあながち間違っていなかった。傾斜を味方につけ余裕のある足取りの先輩とは対照的に、私は転げそうになるのを踏ん張りながら忙しなく足を動かす。並ぶどころか背中を追いかけるだけで精一杯だ。
足の長さというハンデを少しは考えてはくれないものだろうか。心の中で苦情を訴えていると、意外にも伝わったのか先輩は足を止めた。車は急に止まれないとはよく言うもので、下りの勢いを緩められずブレーキをかけ損なった私は、フロイド先輩の背中に体当たりをかましてしまった。「うわ、いい匂いだな」なんて呑気に一瞬思ってから、慌てて離れる。謝罪の言葉を口にするが、振り返った先輩は体当たりしたことに関しては気にしていないようだった。
「ねえ、なんで小エビちゃんは制服着てんの?」
「えっ。ダメでしたか?」
「ダメじゃねぇけど。わざわざ休みの日まで着ることなくね?」
ぶつけてしまった鼻を撫でさすっている私を、先輩は怪訝そうに見下ろす。
「これ以外だと部屋着と式典服ぐらいしか無いので、選びようがないんですよ」
「……それ、マジで言ってる?」
「大マジですね」
フロイド先輩は開いた口が塞がらないといった様子でドン引いていた。そこまで引かれることだろうかと思いながら「ちゃんと洗濯はしてますよ」と付け足せば、「そういう問題じゃねぇし」とぴしゃりと言い渡されてしまった。
「小エビちゃんさぁ。陸の人間なら、冷蔵庫よりまずは服なんじゃねぇの?」
「ゔっ……ごもっとも」
一理どころか百理ぐらいありそうな指摘に、恥ずかしながら何も言い返せなかった。でも、冷蔵庫は生死に関わりかねない問題だし……そう反論もしたかったが、どうにも悪あがきにしかならない気がして止めておいた。
偉大なるグレートセブンに倣ってか、この学園には見目に気を使う生徒が数多く居る。フロイド先輩も恐らくそっち側の人だ。性別は違えど私も人並みにはオシャレに興味があるし、着飾る彼らを見る度に羨望を抱いたりもした。しかし縛りのある環境と侘しい財布事情、その上有事以外で学外に出る機会はゼロに等しい。そんな条件が揃ってしまえば気づかない振りをしてやり過ごすしかないし、それがまかり通ってしまうのだ。
「……いーこと思いついちゃった」
ぼんやり考えに耽っていると、頭上から妙に弾んだ声が降ってくる。見上げれば、案の定にんまりと笑うフロイド先輩。
ああ、これは嫌な予感がするパターンだ。頰を痙攣らせていれば、やはり予感は的中した。
「ちょっ、いきなり何ですか!?」
何の前触れも無しに地面から足底が離れ、視界が砂の色一色になる。腹部に巻きつく腕に気づいた時には遅く、既に私の体は先輩の小脇に抱えられていた。
ジタバタと足掻いてみるものの、空気を押し除けるだけで手応えなんてあったもんじゃない。それどころか「暴れると絞めちゃうよ」と腕に力を込められては、まだ命が惜しい私は抵抗を諦めるしかなかった。
一体何をするつもりかと先輩のほうを見れば、左手にはいつの間にやらマジカルペンが握られていた。ぶつぶつと呪文のようなものを唱えた先輩は言い終えると同時にペンを一振り。途端、暴風が身体に吹き付け、咄嗟に目を閉じる。服を剥ぎ取られてしまいそうなほどの風は、一瞬で止んだ。
――風の魔法でも使ったのだろうか。でも、何のために?
今の自分がどうなっているのか見たいような見たくないような。躊躇いながらギュッと目蓋を強く閉じていれば、何やらガヤガヤと賑やかな人の声が聞こえることに気づいた。おまけに美味しそうな食べ物の匂いまで嗅ぎ取れば、いよいよここが学園へと続く崖の道上では無いことを察する。
恐る恐る目を開けると、やはりそこは何もない道などではなかった。
「とうちゃーく」
目の前に広がったのは、石造りの建物の数々。夕日のような暖色で彩られた街並みには、たくさんの人々が石畳の路を行き交う。道の一角では青果物などの食材や、軽食を売っている露店が立ち並んでいるようだ。
さっきのは風の魔法ではなく、いわゆる転移魔法と呼ばれる類のものだったらしい。
辺りの光景は、元の世界で言うところのヨーロッパを思い出させた。テレビや雑誌といった平面でしか見たことのない景色の中に自分がいるのは、何とも不思議な感覚だ。
そうして景色ばかりに気を取られていたせいで、私はすっかり先輩の小脇に抱えられていたことを忘れていた。当然の如くそのまま歩き出す先輩に、あわあわと下ろすように言えば「歩くのおせぇんだもん」と不満げに却下される。残念ながら否定は出来ないが、いかんせん周囲の視線が痛い。子どもならまだしも高校生にもなってこの格好は、他人から見れば違和感しかないだろう。
「ち、ちゃんと追いつきますから!」
この通りと言わんばかりに両手を合わせて懇願すれば、フロイド先輩は渋々といった様子で降ろしてくれた。
些か久しぶりの地面に安心したのも束の間、黙ってスタスタと歩いて行ってしまう先輩。マイペースにも程がありやしませんか。しかし追いつくと言ってしまった手前待って下さいとも言えず、小走りどころかややマジの走りで追いかける。
休みの日まで体力育成の授業があるとは夢にも思わなかった。バルガス先生単位くれないかなぁと現実逃避していれば、徐に足を止めた先輩がこちらを振り返る。
「ゼーゼー言っちゃってどうしたの?」
「っせ、先輩、が……歩くの、はや、いから……!」
「ウケる。超必死じゃん」
わざわざ煽る為に足を止めるとは、本当に意地の悪い先輩だ。ニヤニヤと口元を歪めるフロイド先輩を、私は睨みつける勢いで見上げる。
「しょうがねぇから手でも繋いであげよっか? ん?」
そう言いながら、目の前に差し出された大きな右手。
心からの親切のつもりなのか、足の遅い私を小ばかにするつもりなのか、先輩の真意は分からない。ただ、今の自分には全部後者としか考えられなかった。
私はそっぽを向くと「結構です!」と断固とした口調でお断りする。
「あっそ」
返答を聞くや否や、フロイド先輩は興が冷めた表情で手を引っ込め、くるりと再び背を向けた。歩くペースはさっきよりも明らかに早くなり、私はほとんど全力疾走で追いかける。
何もない道ならまだしも、行き交う人を避けながら進むのはそれだけで体力を消費するものだ。目立つ容姿のおかげで見失わずには済んでいるものの、先輩の後ろ姿はどんどん遠ざかる。ターコイズブルーの頭が豆粒ほどになったところで、とうとう私の体力は底を尽きたみたいだ。歩くのもままならず、徐々にスピードを落とし足を止めた。倒れこみそうになるのを耐えながら、膝に手をついて息を整える。
そうしている間に、フロイド先輩の姿かたちはすっかり見えなくなっていた。
弾んだ呼吸が落ち着いていくのに比例して、血が上っていた頭もいくらか冷静になってくる。一人になったのを自覚すると、さっきまで見入っていたはずの街の風景が一転して怖く思えてきた。
地名も何も知らない街で、当てもなく先輩を探すのはかなりの労力を要する。その上、転移魔法で来てしまったから学園への帰り道も、交通手段もろくに分からない。考えれば考えるほどに不安が全身を満たしていくようだ。人ならたくさんすぐ傍を行き交っているのに、本当に独りぼっちにでもなってしまった気分になる。
「手、繋いで貰えば良かったかな……」
持ち上げた両手を眺めながらぼそりと呟く。
何にしたって今となっては遅く、無駄な後悔でしかない――そう思っていたのだが。
「だから言ったじゃん」
突然降ってきた声と同時に、左手が大きな手のひらに包まれる。ハッとして見上げれば、さっきまで追いかけていた先輩が真横にいた。
いつの間に戻ってきたのかとか、初めから置いて行かないでくれればとか。色々な感情が湧いてきたものの、不思議とぶつける気にはならなかった。茫然と先輩を見つめていると、「ほら行くよ」と手を引かれる。
「小エビちゃん小せぇから探すのダルかった~」
「……フロイド先輩がゆっくり歩いてくれたら済んだ話なんですけどね」
「なぁに? 〝あのこと〟バラされたいって?」
「滅相もございません!」
ブンブンと頭を振って前言撤回をすれば、フロイド先輩は「あはっ」と声を上げて笑う。
「噛みついたり流されたり~、面白いねぇ。小エビちゃん」
「そうさせているのはどなたなんでしょうね」
「オ・レ♡」
ちょっとした皮肉も嬉々として肯定されては形無しだ。はぁ、と諦めのため息を吐く。
ふと視線を下げると、合わせられた歩幅としっかり繋がれた私と先輩の手が目に入る。その斜め上には、鼻歌でも聞こえてきそうなぐらい上機嫌な横顔。……なんでだろう。この人こそが元凶だというのに、見れば見るほど抱いていた不平不満全部が絆されてしまいそうになる。
段々と緩んでしまう頬が悔しくて、私は懸命に引き締めた。
空から降り注ぐ初夏の暖かな日差し、そよ風に揺れる木々の音や鳥の囀り、時々遠くから響いてくる運動部の声。そんな穏やかな空気に浸りながら歩いていれば、あっという間に学園の正門前へと辿り着いた。
先輩に指定された待ち合わせ場所だが、辺りを見回す限りその姿はまだ無さそうだ。万が一遅刻なんてしようものなら、目も当てられない仕打ちが待っていること請け合い。一先ず最悪の展開を回避できたことに、私はホッと胸を撫で下ろした。
ポケットからスマホを取り出すと、画面には指定された時間の十分前の時刻が表示されている。もう少しゆっくり歩いて来れば良かったかなぁと思いながら、門の柱に背中を預ける。
空や辺りの風景を当ても無く眺めている内に、五分ぐらい経っただろうか。正門へと続くストリートの数メートル先に、分かりやすい人影が見えた。
「おはようございます、フロイド先輩」
声の届く位置までやって来た先輩を捕捉すると、私は正門の真ん中へと躍り出た。
よくよく見ると、今日のフロイド先輩の恰好はいつもと大きく違っていた。ビビッドカラーがお洒落なマウンテンパーカーにスキニーパンツ、肩には白地にビニール加工が施されたボディバックを掛けている。ラフな格好でありながら、まるでモデルのような着こなしに少しだけドキッとしてしまった。本物の芸能人ならヴィル先輩を見ているはずなのに、我ながらおかしなことである。
動揺する私を尻目に、フロイド先輩はギザギザの歯を奥歯まで晒しながら「はよ~」と眠たげに返す。緩い雰囲気はいつも通りで何となく安心した。
思わず欠伸が移りそうになるのを噛み殺していると、フロイド先輩は目尻に涙を溜めたまま「あれ?」とこちらを見下ろす。
「今日はアザラシちゃんいねぇの?」
「ああ、グリムなら……マジフト部の朝練に助っ人で呼ばれてますよ。近いうちに大会があって、練習の人手が必要らしいです」
我が相棒ながら偉いですよねーなんて言いながら、腕を組んで頷いてみたりして。いかにも感心といった雰囲気を作っているが、これはあくまでポーズだ。実際には、言っていることの半分は嘘なのだから。
昨夜、出かけることを伝えると最初はグリムも尻尾を振って乗り気だった。しかし先輩の名前を出した途端、「マジフト部の練習のが絶対マシなんだゾ……」とげんなりした顔で断られてしまったのだ。おまけに「あいつと出かけるなんて脅されでもしたのか?」と心配までされてしまい、私は苦笑いで濁した。そういう印象を植え付けるに至る前科があり過ぎる先輩だ。グリムにしてみれば当然の心配だろう。故に、僅かでも楽しみにしているような人間――私のほうが間違っているのだ。
そんな事情など知る由も無い先輩は、「へぇ」と何か含みのある笑顔で呟く。
「丸腰で来るとか勇気あんね、小エビちゃん」
「へっ? ど、どどどういう意味です……?」
「んーん。なんでもなぁい」
何もなかったらそんなに嬉しそうな顔にはならないだろう。
明らかに思惑が感じられる笑みを残し、フロイド先輩は背を向けてしまう。麓に続く道へと進むその背中を、私は探りを入れるようにしげしげと眺めながら小走りでついて行く。
「やっぱりグリムも連れてこようかな……」
「は?」
「な、なーんちゃって〜ははは」
独り言のつもりだったが、先輩にはしっかり聞こえていたらしい。迫力のある四白眼で睨まれては冗談で流すしか選択肢が無かった。それにしたって、そこまで気分を害するほどのことなのだろうか。腑に落ちない気持ちをぶら下げながらも、直接ぶつける勇気はない。私は黙々と足を動かすことでかき消すことにした。
坂道は上りより下りの方がキツいという話はあながち間違っていなかった。傾斜を味方につけ余裕のある足取りの先輩とは対照的に、私は転げそうになるのを踏ん張りながら忙しなく足を動かす。並ぶどころか背中を追いかけるだけで精一杯だ。
足の長さというハンデを少しは考えてはくれないものだろうか。心の中で苦情を訴えていると、意外にも伝わったのか先輩は足を止めた。車は急に止まれないとはよく言うもので、下りの勢いを緩められずブレーキをかけ損なった私は、フロイド先輩の背中に体当たりをかましてしまった。「うわ、いい匂いだな」なんて呑気に一瞬思ってから、慌てて離れる。謝罪の言葉を口にするが、振り返った先輩は体当たりしたことに関しては気にしていないようだった。
「ねえ、なんで小エビちゃんは制服着てんの?」
「えっ。ダメでしたか?」
「ダメじゃねぇけど。わざわざ休みの日まで着ることなくね?」
ぶつけてしまった鼻を撫でさすっている私を、先輩は怪訝そうに見下ろす。
「これ以外だと部屋着と式典服ぐらいしか無いので、選びようがないんですよ」
「……それ、マジで言ってる?」
「大マジですね」
フロイド先輩は開いた口が塞がらないといった様子でドン引いていた。そこまで引かれることだろうかと思いながら「ちゃんと洗濯はしてますよ」と付け足せば、「そういう問題じゃねぇし」とぴしゃりと言い渡されてしまった。
「小エビちゃんさぁ。陸の人間なら、冷蔵庫よりまずは服なんじゃねぇの?」
「ゔっ……ごもっとも」
一理どころか百理ぐらいありそうな指摘に、恥ずかしながら何も言い返せなかった。でも、冷蔵庫は生死に関わりかねない問題だし……そう反論もしたかったが、どうにも悪あがきにしかならない気がして止めておいた。
偉大なるグレートセブンに倣ってか、この学園には見目に気を使う生徒が数多く居る。フロイド先輩も恐らくそっち側の人だ。性別は違えど私も人並みにはオシャレに興味があるし、着飾る彼らを見る度に羨望を抱いたりもした。しかし縛りのある環境と侘しい財布事情、その上有事以外で学外に出る機会はゼロに等しい。そんな条件が揃ってしまえば気づかない振りをしてやり過ごすしかないし、それがまかり通ってしまうのだ。
「……いーこと思いついちゃった」
ぼんやり考えに耽っていると、頭上から妙に弾んだ声が降ってくる。見上げれば、案の定にんまりと笑うフロイド先輩。
ああ、これは嫌な予感がするパターンだ。頰を痙攣らせていれば、やはり予感は的中した。
「ちょっ、いきなり何ですか!?」
何の前触れも無しに地面から足底が離れ、視界が砂の色一色になる。腹部に巻きつく腕に気づいた時には遅く、既に私の体は先輩の小脇に抱えられていた。
ジタバタと足掻いてみるものの、空気を押し除けるだけで手応えなんてあったもんじゃない。それどころか「暴れると絞めちゃうよ」と腕に力を込められては、まだ命が惜しい私は抵抗を諦めるしかなかった。
一体何をするつもりかと先輩のほうを見れば、左手にはいつの間にやらマジカルペンが握られていた。ぶつぶつと呪文のようなものを唱えた先輩は言い終えると同時にペンを一振り。途端、暴風が身体に吹き付け、咄嗟に目を閉じる。服を剥ぎ取られてしまいそうなほどの風は、一瞬で止んだ。
――風の魔法でも使ったのだろうか。でも、何のために?
今の自分がどうなっているのか見たいような見たくないような。躊躇いながらギュッと目蓋を強く閉じていれば、何やらガヤガヤと賑やかな人の声が聞こえることに気づいた。おまけに美味しそうな食べ物の匂いまで嗅ぎ取れば、いよいよここが学園へと続く崖の道上では無いことを察する。
恐る恐る目を開けると、やはりそこは何もない道などではなかった。
「とうちゃーく」
目の前に広がったのは、石造りの建物の数々。夕日のような暖色で彩られた街並みには、たくさんの人々が石畳の路を行き交う。道の一角では青果物などの食材や、軽食を売っている露店が立ち並んでいるようだ。
さっきのは風の魔法ではなく、いわゆる転移魔法と呼ばれる類のものだったらしい。
辺りの光景は、元の世界で言うところのヨーロッパを思い出させた。テレビや雑誌といった平面でしか見たことのない景色の中に自分がいるのは、何とも不思議な感覚だ。
そうして景色ばかりに気を取られていたせいで、私はすっかり先輩の小脇に抱えられていたことを忘れていた。当然の如くそのまま歩き出す先輩に、あわあわと下ろすように言えば「歩くのおせぇんだもん」と不満げに却下される。残念ながら否定は出来ないが、いかんせん周囲の視線が痛い。子どもならまだしも高校生にもなってこの格好は、他人から見れば違和感しかないだろう。
「ち、ちゃんと追いつきますから!」
この通りと言わんばかりに両手を合わせて懇願すれば、フロイド先輩は渋々といった様子で降ろしてくれた。
些か久しぶりの地面に安心したのも束の間、黙ってスタスタと歩いて行ってしまう先輩。マイペースにも程がありやしませんか。しかし追いつくと言ってしまった手前待って下さいとも言えず、小走りどころかややマジの走りで追いかける。
休みの日まで体力育成の授業があるとは夢にも思わなかった。バルガス先生単位くれないかなぁと現実逃避していれば、徐に足を止めた先輩がこちらを振り返る。
「ゼーゼー言っちゃってどうしたの?」
「っせ、先輩、が……歩くの、はや、いから……!」
「ウケる。超必死じゃん」
わざわざ煽る為に足を止めるとは、本当に意地の悪い先輩だ。ニヤニヤと口元を歪めるフロイド先輩を、私は睨みつける勢いで見上げる。
「しょうがねぇから手でも繋いであげよっか? ん?」
そう言いながら、目の前に差し出された大きな右手。
心からの親切のつもりなのか、足の遅い私を小ばかにするつもりなのか、先輩の真意は分からない。ただ、今の自分には全部後者としか考えられなかった。
私はそっぽを向くと「結構です!」と断固とした口調でお断りする。
「あっそ」
返答を聞くや否や、フロイド先輩は興が冷めた表情で手を引っ込め、くるりと再び背を向けた。歩くペースはさっきよりも明らかに早くなり、私はほとんど全力疾走で追いかける。
何もない道ならまだしも、行き交う人を避けながら進むのはそれだけで体力を消費するものだ。目立つ容姿のおかげで見失わずには済んでいるものの、先輩の後ろ姿はどんどん遠ざかる。ターコイズブルーの頭が豆粒ほどになったところで、とうとう私の体力は底を尽きたみたいだ。歩くのもままならず、徐々にスピードを落とし足を止めた。倒れこみそうになるのを耐えながら、膝に手をついて息を整える。
そうしている間に、フロイド先輩の姿かたちはすっかり見えなくなっていた。
弾んだ呼吸が落ち着いていくのに比例して、血が上っていた頭もいくらか冷静になってくる。一人になったのを自覚すると、さっきまで見入っていたはずの街の風景が一転して怖く思えてきた。
地名も何も知らない街で、当てもなく先輩を探すのはかなりの労力を要する。その上、転移魔法で来てしまったから学園への帰り道も、交通手段もろくに分からない。考えれば考えるほどに不安が全身を満たしていくようだ。人ならたくさんすぐ傍を行き交っているのに、本当に独りぼっちにでもなってしまった気分になる。
「手、繋いで貰えば良かったかな……」
持ち上げた両手を眺めながらぼそりと呟く。
何にしたって今となっては遅く、無駄な後悔でしかない――そう思っていたのだが。
「だから言ったじゃん」
突然降ってきた声と同時に、左手が大きな手のひらに包まれる。ハッとして見上げれば、さっきまで追いかけていた先輩が真横にいた。
いつの間に戻ってきたのかとか、初めから置いて行かないでくれればとか。色々な感情が湧いてきたものの、不思議とぶつける気にはならなかった。茫然と先輩を見つめていると、「ほら行くよ」と手を引かれる。
「小エビちゃん小せぇから探すのダルかった~」
「……フロイド先輩がゆっくり歩いてくれたら済んだ話なんですけどね」
「なぁに? 〝あのこと〟バラされたいって?」
「滅相もございません!」
ブンブンと頭を振って前言撤回をすれば、フロイド先輩は「あはっ」と声を上げて笑う。
「噛みついたり流されたり~、面白いねぇ。小エビちゃん」
「そうさせているのはどなたなんでしょうね」
「オ・レ♡」
ちょっとした皮肉も嬉々として肯定されては形無しだ。はぁ、と諦めのため息を吐く。
ふと視線を下げると、合わせられた歩幅としっかり繋がれた私と先輩の手が目に入る。その斜め上には、鼻歌でも聞こえてきそうなぐらい上機嫌な横顔。……なんでだろう。この人こそが元凶だというのに、見れば見るほど抱いていた不平不満全部が絆されてしまいそうになる。
段々と緩んでしまう頬が悔しくて、私は懸命に引き締めた。