♪ 嫌よ嫌よも好きと言え。
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明くる日、監督生とフロイドが会うことはなかった。
元よりフロイドから監督生に会う理由など無い為、監督生にその気が無ければ顔を合わせないようにするのは簡単なことだ。
フロイドとしても、自身の周りをチョロチョロと泳ぎ回る目障りな小エビがいなくなり万々歳――の、はずだった。
監督生と取って代わるように現れた、形容し難いモヤモヤとした気持ち。身体の内側で付きまとうそれは、実体のある小エビより遥かにフロイドを不愉快にさせるものだった。
無理矢理掻き消そうとすれば、食堂でぶつけられた言葉と共に、彼女の悲しみを孕んだ表情までもが鮮明に思い出されてしまう。まるで忘れるなと説教されているようで、言い知れぬ苛立ちばかりが募る。
そうして内なる何かと葛藤する度、フロイドは周囲に当たり散らしていた。そんな調子で授業はおろか、ラウンジの仕事も言わずもがなといった絶不調を極めていた。
「っげほ、一体何事ですか。ホールにまで焦げ臭い匂いがして……って、犯人探しするまでもありませんね」
厨房へ駆け込んで来たアズールに睨まれていることなど露知らず、フロイドは何食わぬ顔でフライパンを振るう。その上にはもはや原型が不明の、真っ黒な未確認物体が転がっていた。
「おい、フロイド。僕は炭作りを頼んだ覚えはありませんよ」
「あ゛? なに?」
「……もう上がって結構だと言っているんです。
今日のお前はタチの悪いクレーマーより手に負えない」
はぁ、と苛立たしげに大きなため息を吐く支配人。赤字製造機と化しているフロイドは、ほとんど追い出される形で寮に帰されてしまった。
帰り際、「頭を冷やしたほうがいいんじゃないですか」とアドバイスを頂戴したフロイドは、自室に戻るや否やシャワールームに直行し、しこたま冷水を被った。
「アズールの嘘つき……」
確かに頭皮は冷えたものの、依然として中身はモヤモヤしたままだ。
途端に馬鹿馬鹿しくなったフロイドは、舌打ちをかましながら栓を閉める。大雑把に身体を拭いて服を着ると、髪も乾かさずベッドの海へとダイブする。就寝の準備は万全だが、そのまま眠る気分にはなれなかった。
仕方なく枕元に重ねてあった雑誌を適当に手に取り、眺めることにした。
「……十三分三十四秒」
しばらくして、唐突に響いた自分以外の声。そう広くない空間で、発生源はただひとつしか考えられなかった。
フロイドは読んでいた雑誌から、書斎と向き合う自身とよく似た横顔へと視線を移す。
「先ほどからフロイドが同じページを眺めている時間です」
言いながらジェイドもゆっくり目を合わせると「お得な情報でも載っていましたか?」と微笑みながら問う。
要領を得ない兄弟の言葉に、怪訝に思ったフロイドは改めて雑誌に目を落とす。そこには昨日、監督生に見せたスニーカーの写真がモデルの着用している姿と共に掲載されていた。
――バッカじゃねぇの、オレ。
フロイドは苦々しく舌打ちをすると、ポイッと雑誌を床に放り投げ、枕に顔を埋めた。
「おやおや」と言葉では困った風を装うジェイドだが、声色に隠しきれぬ笑いが滲んでいる。
「フロイドが悩みごととは珍しいですね。明日は隕石でも降ってくるんでしょうか」
「今はジェイドの冗談に付き合ってる気分じゃねーんだけど」
「ふふ、つれませんね」
フラれてしまったジェイドは、再び書斎と向き合う。長いピンセットを手に取ると、フラスコを大きくしたようなガラス容器の中に、鮮やかな緑を敷き詰めていく。
枕に顔半分を埋めたフロイドは、うきうきとした様子で趣味に精を出す兄弟を眺める。すん、と鼻を鳴らしてみればいつかのキャンプを思い出すような森の香りが鼻腔を通り、眉を顰めた。
「ジェイドのそれさぁ、部屋が土臭くなるから他所でやってよ」
「なら鼻でも抓んでおいてください。あと一時間ほどで終わりますから」
「死ねって言ってんの?」
遠回しにされた死刑宣告にムッとしたフロイドだったが、今は言い争う気力すら湧いてこなかった。口からはハァ、と何回吐いたか分からなくなるほどの溜め息を吐くばかり。
張り合いの無い兄弟の様子に、なかなかの重症だと察したらしい。ジェイドは手にしていたピンセットを置くと、机から彼のほうへと体を向ける。
「悩みの種は監督生さんですか?」
「……違うし」
「おや、外れてしまいましたか。残念です」
その顔には残念のざの字も滲んでいやしなかった。むしろ見事な大当たりを引き当てたかのような笑顔だ。
「最近の監督生さんは、フロイドの周りをしつこくついて回っているそうじゃないですか。てっきり僕は物証を残さずに消し去る方法でも考えているのかと」
「ジェイドじゃないんだから、そんな周りくどいやり方しねぇよ」
「ふふ、それもそうですね。……そういえば、監督生さんで思い出しましたが」
そこまで言いかけて「いえ、大したことではありませんよ」と勿体ぶるジェイドに、フロイドは苛立ちの滲む声色で「なに」と先を急かした。
「監督生さんが頻繁に学園の図書館を利用していらっしゃるのをご存知ですか?」
「知らねーけど。そんなの小エビちゃんがバ……」
――馬鹿だから。そう言おうとして実際口から出てきたのは「セーセキ良くないからでしょ」という響きの異なる言葉だった。
間違いなく自分の意思でそうしたはずなのに、何かに仕向けられた気がしたフロイドは、不快感に唇を噛む。そして話題を振っただけに過ぎないジェイドを恨めしく睨んだ。
そもそも図書館が勉強する為の空間だということは、気まぐれに足を運ぶフロイドも知るところだ。そこに一体何の疑問があるのか。以心伝心であるはずの兄弟の意図が、今の彼には分からなかった。
「ええ、そうでしょうね。ただ詳しく調べてみると面白いことが分かるかもしれません」
どこか引っかかる物言いに、フロイドは面白くなさそうに口を尖らせる。
「なにそれ。ジェイドはもう知ってるわけ?」
「知りませんよ。生憎、今は大変勤勉な寮長のおかげでラウンジの仕事が立て込んでいるもので、調べる暇も無いんです」
ジェイドはやれやれとでも言いたげにため息を吐いた。
「とはいえ対象は地位も権力も持たないあの監督生さんですからね。調べたところで我々の利益に繋がるとは到底思えませんが……暇つぶしには丁度いいかもしれませんよ」
含みを多分に持たせた物言いに、口元には企みを孕んだ仄暗い笑みが湛えられる。常人であれば悲鳴を上げて逃亡してしまいそうな表情も、身内にしてみれば彼の通常運転に過ぎない。フロイドは「ふーん」と生返事だけして毛布を被り、ジェイドに背を向けた。
「おや、もう寝てしまわれるんですか?」
半ば強制的に終わらせた会話に、ジェイドは拍子抜けした声を漏らす。
いつもであれば嬉々として話に乗るか、そうでなくとも下らない、馬鹿馬鹿しいぐらいの文句で返していたが、どちらもフロイドの気分では無かった。
「ジェイドのつまんねー話聞いてたら眠くなっちゃったんだもん」
「それはそれは……いい子守唄代わりになったようで何よりです」
クスクスと笑いでも付いてきそうな声に、目を閉じたフロイドの眉間に川が作られる。
「起床のアラームは八時でいいですか?」との問いにも含みを感じ、「好きにすれば」と不愛想なそれでフロイドは返した。
「お言葉に甘えてそうします。ちなみに、図書館の開館時間は八時半で──」
「ジェイドうるさい電気消すから早く寝な」
「ああっ、まだテラリウムが途中なのに……ひどいです!」
しくしく、とわざとらしくすすり泣く声などもはや聞こえないフリである。フロイドはマジカルペンを一振りして部屋の照明を落とした。
*
窓から吹き込む夕風は、外の新鮮な空気と本の古めかしい匂いを混ぜ合わせて、広い館内を抜けていく。
窓際の席に座っていた監督生は、捲れそうになるページを押さえながら紙の上に並んだ文字を目で追っていた。
そうした作業を繰り返すこと数分。最後のページまで行き着くと、小さくため息を吐きながら本を閉じる。どうやら期待していた収穫は無かったようだ。
――この世界で何も持ち得ない自分が真っ当に生きていく為には、一刻も早く在るべき世界へ帰らなければいけない。そう決意を新たにした監督生は、より本腰を入れて元の世界に帰る方法を調べ始めていた。
きっかけはもちろん、あの日の出来事だ。浴びせられた彼の言葉は、二日経った今でもはっきり思い出せてしまうほど彼女の脳内に深く刻み込まれていた。
悲しみに暮れているよりはずっと建設的な行動ではあるが、そんな考えに至る前は〝八つ当たりをした報復を受けるのでは〟と心配したものだ。しかしそれはただの杞憂だった。監督生はあれから一度たりともフロイドと口を利くことも、姿を見ることすらなかったからだ。
これ以上悩まずに済んでホッと安心をしている反面、心の中に隙間風が吹き込んでくるような――どこか寂しさを感じている自分に気づいた監督生は、大いに戸惑った。
考えに考え抜いた末、散々追いかけ回してきた反動だと強引に結論付けて収めたが。自身の天邪鬼加減にため息も出なかった。
――明日にはクルーウェル先生に事情を説明しないとなぁ。しばらくは冷蔵庫の無い生活か、と監督生は窓の外を遠い眼差しで眺める。
西日が眩しく目を細めれば、日差しを遮るようにひょっこりと横から顔が出てくる。
「ばぁ♡」
突然のことに、監督生は目を丸くしたまま固まってしまった。ややあって現実に戻ってきた彼女は、「フ、フロイド先輩?」とやっとの思いで口に出す。
男は返事の代わりに表情を緩ませると、隣の椅子を引いて平然と腰掛けた。
「何の御用でしょうか」
警戒心を露わにして告げる彼女とは対照的に、フロイドは無邪気な笑顔で徐に片手を掲げる。
「コレ、なぁーんだ?」
なぞなぞを出題するような口ぶりに、暖簾の如くぶら下げられた紙の束。監督生が物珍しげに目を瞬かせていると、よく見ろと言わんばかりに束が眼前まで迫ってくる。
次の瞬間にはパイ投げよろしく顔面に押し付けられるに違いない。危ぶんだ監督生は、躊躇いがちに両手で受け取る。
妙にニコニコしている男を怪訝に思いながらも、紙の上を目でなぞった。
「これって……課題のレポートじゃないですか!?」
「うるせっ。んな大声出さなくても見たら分かるでしょ」
鬱陶しそうに耳を塞ぐ彼に、監督生はハッと顔を白くする。驚きからつい、場にそぐわない声が飛び出してしまった。辺りを見回すが幸いにも視界で捉えられる範囲に人は居らず、安堵の息を吐いた。
改めてレポートの表紙を捲ってみれば、見かけだけじゃなく中身もしっかりとした形式で課題に沿った内容が綴られている。及第点どころか、最上の評価が下されるであろうことが素人目にも分かる出来だ。
「あんなに嫌がってたのに……どういう風の吹き回しですか?」
「いらねーなら捨てとくけど」
「わー! 要ります! 要りまくりますからっ」
墓穴を掘った監督生は、レポートを胸に抱え込んで守りの態勢をとる。
やっとゲット出来た冷蔵庫……もとい、努力の塊をみすみす彼の手で葬られるわけにはいかない。先輩の気が変わる前に、一刻も早く先生にお届けせねば。
意気揚々と腰を上げたものの、「ストップ」という声と共に腕を掴まれてしまい、再び着席する。おまけに向かい合った彼の長い足が両膝を挟み込み、たちまち身動きが取れなくなった。
「……ねえ。小エビちゃんの故郷ってどこ?」
「故郷? なんですか、藪から棒に」
「いーから黙って質問に答えろよ」
いやに威圧的な言い方をされ、監督生の身体が一回り小さくなる。
頭の隅では質問の意図に考えを巡らせながらも、「遠い東の方の国です」と口慣れた答えを述べた。この手の話題は初めてではなく、今となってはもはや定型文に等しい。後は当たり障りのない言葉を選びながら会話を完結に持っていくのが定石だ。
しかし、彼の一手はいつもと大きく違っていた。
「それって実在すんの?」
ドクリ、といやに大きく脈打つ心臓。動揺を悟られないよう「するに決まってるじゃないですか」と努めて平静を装うが、彼の目に宿った疑心の色は全く払拭出来なかった。
居心地悪く座る監督生に向かい、ゆるりと手が伸びてくる。思わず震えてしまった彼女を尻目に、その手は空気しか無いはずの肩の横で何かを引っ掴んだ。次の瞬間には、バサッと大きな音が机の上で響く。
「どこらへんなの? 教えてよ」
語気を強めて問う彼に、監督生はおずおずと視線を机に移動させる。そこには格子状に折り目のついた世界地図が広がっていた。
大変親切な作りをしたそれは、大きな国のみならず小さな島国まできちんと名前が記載され、全てを網羅しているようだった。
だがそんな優秀な地図を持ってしても、監督生が生まれ育った国は当然存在しない。机上に向けた目は、探すというよりは当てもなく彷徨っていた。
「……実は、辺境すぎて地図にも載ってないんですよ。ある意味凄いですよね」
はは、と相手の笑いを誘ってみるものの、今のフロイドは乗らなかった。全てを見透かしているような瞳に捕らえられ、肩を竦める。
「オレ、今から馬鹿なこと聞くけど笑ったら本気で絞めるから」
言いながら、フロイドは地図を元通りに畳むと空中に放った。
物騒な前置きをされた監督生は黙って息を飲む。単純に笑ってしまうほどの面白い話をされたならどれほど良いだろうか。いつになく真剣な彼の表情に、それは期待できそうも無かった。
「小エビちゃんって、別の世界から来た人間だったりすんの?」
喉元に刃を突きつけられたような心地とは、今がまさにそうだろう。咄嗟に笑って誤魔化そうとしてしまい、慌てて顔を俯けた。
早く否定しなければ。適当でも何でも良いから言い繕わねば。そう思えば思うほど、焦りばかりが募って喉の隙間を塞いでしまう。
――その迷いこそが、彼の疑問を肯定している何よりの証明だと思い至る余裕すら無かった。
「そっかぁ。そうなんだぁ」
答えは決まったとばかりに、フロイドは口の中で笑いを混ぜながら独り言のように吐き出した。
全身が心臓になったのかと錯覚してしまうほどの心音が、監督生の身体の内側で木霊する。額にはうっすら冷や汗を滲ませ、膝の上に置いていた拳を強く握りしめる。
何とか絞り出した「どうして」という一言も、頼りなく震えてしまっていた。
「んー? オレはただ、小エビちゃんが図書館で読んでた本ぜーんぶ調べただけ」
「全部……?」
復唱した言葉に、フロイドは口元の笑みを深めて頷いた。
監督生はこの世界に来た日から、時間さえあれば此処に通い詰めている。それはもちろん勉強の為でもあるが、今日のように元の世界に帰る方法を探す目的のほうが多かった。その為に読み込んだ本の量は十冊や二十冊といったものではない。転移魔法や地形に関する資料、魔導具、人物史などなど、とにかく手当たり次第手に取っては元の世界に繋がるヒントを見つけ出そうとしていた。
それを目の前の彼は全部読んだ、というのだ。
館外に持ち出しもしていない上、この膨大な量からどうやって調べたのか。そう疑問には思っても口には出さなかった。彼らの情報網を侮ってはいけないというのは、この学園では有名すぎる話である。図書館に所蔵されている全ての本の閲覧者を把握していてもおかしくはないのだ。
「フロイド先輩。どうかこのことは、内密にお願い出来ませんか」
一度バレてしまったことを抹消するのは至難の業だ。まして魔法も使えない監督生がどうこうできるわけもなく、神頼みする気持ちで頭を下げる。
「え〜、どうしよっかなぁ」
「一切の口外を禁止されているんです……お願いします」
「その口止めしてる奴って、どーせ学園長でしょ?」
今さら否定したところで既に手遅れなのだろう。確信を得てるような彼の口ぶりに、監督生は何も言わなかった。
「ま、オレは学園長の隠しゴトとか興味ねぇけど。
……アズールなら、喜ぶかもねぇ」
フロイドはにやりと口角を歪めて机に片肘をついた。
それだけはダメだ、と監督生は力強く首を横に振る。
彼の寮長――アズールは他人の弱味を握ることを好む。その対象が学園で一番に等しい権力を持つ学園長となれば、喜びも一入だろう。もしこの件が彼に知れたら、嬉々として強請る為の餌にされてしまうことは安易に想像がつく。
そして「私、優しいので」と自称する学園長も、自身に不利益な条件を提示されれば目の上のタンコブに等しい人間などあっさりと切り捨てかねない。その様な最悪の事態だけは、何としても避けたかった。
「そうそう、嫌だよねぇ。じゃ、人に頼み事する時は……分かってるよなァ?」
「っ、……はい」
特別な地位を持っていない監督生には、お願いをする自身が下の立場になるのは当然の道理だ。例え無茶な要求をされても拒む権利は無い。
それに、果たせる要求ならまだいい。いつかのように彼らに邪魔を入れられ、果たすことすら叶わなければいよいよこの生活もお終いだろう。
監督生の脳内に、学園を追い出され我が身一つで路頭に迷う未来が映し出された。絶望的な光景に押し出された涙がこぼれ落ちそうになり、隠すように顔を俯ける。視界の端からは追い討ちをかけるかの如く、黒い影が伸びてくるのが見えた。
――絞められる。ギュッと目を瞑ると、何かが帽子のようにすっぽりと頭を覆った。
「ごめん」
いつもの脅しでもなく、嘲笑うでもなく、挑発でもない。上目遣いで恐る恐る見上げたフロイドは、眉尻を下げ言葉通りの萎らしい表情をしていた。
「オレ、小エビちゃんの事情とか知らなかったし。ひでーこと言っちゃってごめんね?」
絞められるとばかり思っていた彼の手は、痛みを取り除くかのように頭を優しく撫でつける。
予想とは正反対の行動に呆気に取られた監督生は、抵抗することも忘れてされるがまま受け入れる。
「ひどいこと……?」
「は? まさか忘れたとか言わねぇよな?」
「わっ、忘れてません。けど……先輩に謝られるなんて思わなくて」
超が無限につくほどの気分屋で、二言目どころか出会い頭に「絞める」と言い、小エビを雑魚以下だと評する人物が、自身の発言を省みて謝るとは誰が思おうか。
しかし、良くも悪くもそんな人だからだろう。他でもない自分の気持ちを汲んで憂いてくれた事実は、監督生にかなりの衝撃と同時に言い知れぬ嬉しさをもたらした。渇いた土に水が染み渡っていくかのように、じんわりと胸が暖かくなる。
「なにニヤニヤしてんの?」
言いながら、フロイドは引き気味に顔を顰めた。
喜びを噛み締めていたつもりが、見ている方には相当不審に映ったみたいだ。大概失礼ではあるが、それも見逃せてしまうほどに今の監督生は機嫌を良くしていた。
「フロイド先輩が、調べてまで心配してくれたのが嬉しいんです。ありがとうございます」
「別に……暇だからやっただけだし〜。なのにお礼とか言っちゃって、お人好しすぎ」
「えへへ。よく言われます」
「バッカじゃないの? それバカにされてんだよ。小エビちゃんみたいなおバカ、いつか痛い目みるからね。バーカ」
「一周回ってバカが褒め言葉に聞こえてきました」
「あっそ。めでてぇ頭してんね」
悪態をぶつけるフロイドに、監督生は海中を漂うワカメのようにふやふやと顔を緩ませた。
笑みを浮かべれば浮かべるほど、口をへの字に曲げたフロイドの眉間に皺が足されていく。怖いはずのそれすら、今は可笑しく感じてしまっていた。
「おめでたくても大丈夫ですよ。フロイド先輩を相手にしてた今までを考えたら、大抵の人間はどうにかなりそうな気がしますから」
「なにそれ。褒めてんの? 貶してんの?」
「両方ですね」
「へぇ。小エビちゃんの癖にいい度胸してんじゃん。締めてやろ〜」
「ぎゃあっ」
長い腕は監督生の首の後ろを捕らえると、自らの肩口に引き寄せる。
「ちょっと、首は止めて下さ……い?」
これから味わうであろう苦しみに監督生は身構えていたが、待てど暮らせど腕は一向に締まる気配がない。
不思議に思い目だけを動かして窺い見ると、フロイドは腑に落ちない表情で肩の上に顎を乗せていた。
「いくら脅かしてやっても生意気に泣かなかったのに、あん時はあからさまに悲しそーな顔しちゃってさぁ……」
恨み言にしては、その響きはあまりに柔らかく濁りが無い。なんとなく口を挟むのも憚られた監督生は、黙って耳を傾けることにした。
「オレに付き纏って来ねぇ癖に、他のヤツとはいつも通りヘラヘラ喋ってるし……なんか知らねーけど、すっげえムカついたんだよねぇ」
「先輩……?」
思わず漏れてしまった声に、腕を緩めたフロイドが顔を覗き込む。蜂蜜色の瞳は水滴が水面を打つように揺蕩い、監督生を映していた。いつもの獰猛さを忘れてしまうほどの弱々しい表情に、縛り付けられたかのように目が離せなくなる。
数秒にも満たない時間が、永遠に感じ始めた頃。長い腕はゆっくりと離れていき、距離を戻した。
「……で、小エビちゃんはオレに何してくれんの」
「へ?」
一転していつもの笑顔を浮かべるフロイド。脈絡の無い問いをいきなり吹っ掛けられた監督生は、間の抜けた声を漏らした。
「課題のレポートは傷心した小エビちゃんへのお詫びの品ってやつ。黙ってることの対価はまだ貰ってねぇよ?」
にっこりと寛容さを象る唇とは逆に、その目は獲物を逃さんばかりに鋭く光っている。
さすがは取り立てに余念の無い男である。有耶無耶のままにはしてくれなかったかと、監督生はがっくり肩を落とした。
「ううっ……傷つきすぎてレポートだけじゃ足りそうにないです……」
「ピンピンしてる癖に調子乗ってんじゃねぇぞ? あ?」
取ってつけたような苦しい言い訳に、彼が乗じるわけも無く。仰々しく胸を押さえる監督生を、フロイドは冷ややかな笑顔で威圧する。瞬間冷凍さながらの空気を感じた監督生が即座に謝ると、フロイドは満足げに頷いた。
「じゃあじゃあ〜明日休みだし、近くの街まで買い物に付き合ってよ。小エビちゃんはただオレに着いて来ればいいだけ。簡単でしょ?」
その言葉の通りであれば、対価としては破格の条件だ。
しかし監督生は頷くのを躊躇った。というのも、先日フロイドに見せられた靴の写真が頭の中に思い浮かんだからだ。
たかが一足の靴であっても、冷蔵庫すら満足に買えない懐事情で手に入れられる代物では無い。もしそれを強請られてしまったら、対価は成立しなくなるだろう。
悩んだ末に「私、お金無いですよ」と正直に告げれば、フロイドは呆れた様子で左手を翻した。
「いらねーよ、オレの買い物だもん。小エビちゃんのペラッペラの財布なんて誰もアテにしてないから安心しな」
「……泣いてもいいですか」
「めんどくせーからやだ」
からからと笑いながら一蹴され、貧乏監督生は取りつく島もなく項垂れる。そうこうしている間に、フロイドはさっさと出かける時間と待ち合わせ場所を指定した。「一秒でも遅れたら締めるから」との忠告(脅迫)に、あたふたとスマホを取り出しスケジュールに記入する。
ついでに互いの連絡先も交換すると、フロイドは欠伸をしながら腰を上げた。眠そうな眦をさらに柔らかくした双眸が、監督生を見下ろす。
「また明日ね。小エビちゃん」
くしゃり、と頭を撫で付けるとフロイドは出口へと踵を返した。大きな背中はあっという間に見えなくなってしまう。
「……明日、か」
ぼんやりとする頭は、眠りから醒めてもなお夢の余韻を引き摺っているかのよう。
昨日までは顔を合わせるのも嫌だったはずが、今は「ちょっと楽しみかも」なんて。とうとう自分は危ない趣味嗜好に目覚めてしまったのだろうか。
閉館時間を告げる鐘が鳴るまで、監督生は一人悶々と唸っていた。
【おまけ】
帰る道すがら、ちょうど魔法薬学室から出てくるクルーウェルに遭遇した監督生は、早速レポートを提出した。
「……ほう。上出来じゃないか」
感心した様子で紙を捲るクルーウェルに、「あの〜」と控え目に手を挙げる。
「これで寮の予算も通して下さるんですよね……?」
恐る恐る聞けば、クルーウェルはぴたっと表情を固まらせた。監督生が首を傾げると、思い出したかのように「ああ」と声を漏らす。
「その件なら既に申請は通してある」
「え?」
「冗談半分のつもりだったが……まぁ、よくやったじゃないか」
均整のとれた顔から作り出される素敵なスマイル。いっそ痛いぐらいの煌びやかなオーラを受けながら、監督生は抜け殻の如く脱力した。
つまり、この数日間は一人で勝手に足掻いていただけだったということである。なんと滑稽なことだろうか。結果オーライとはいえ、精神を擦り減らした日々を思い返すと涙がこみ上げてきそうになる。
「またリーチ弟がサボった時は頼んだぞ、仔犬」
「丁重にお断りさせていただきます!」
大層愉快そうに喉を鳴らすクルーウェルに、監督生は今度こそ断りの意思をはっきり告げ、寮へと逃げ帰るのだった。
元よりフロイドから監督生に会う理由など無い為、監督生にその気が無ければ顔を合わせないようにするのは簡単なことだ。
フロイドとしても、自身の周りをチョロチョロと泳ぎ回る目障りな小エビがいなくなり万々歳――の、はずだった。
監督生と取って代わるように現れた、形容し難いモヤモヤとした気持ち。身体の内側で付きまとうそれは、実体のある小エビより遥かにフロイドを不愉快にさせるものだった。
無理矢理掻き消そうとすれば、食堂でぶつけられた言葉と共に、彼女の悲しみを孕んだ表情までもが鮮明に思い出されてしまう。まるで忘れるなと説教されているようで、言い知れぬ苛立ちばかりが募る。
そうして内なる何かと葛藤する度、フロイドは周囲に当たり散らしていた。そんな調子で授業はおろか、ラウンジの仕事も言わずもがなといった絶不調を極めていた。
「っげほ、一体何事ですか。ホールにまで焦げ臭い匂いがして……って、犯人探しするまでもありませんね」
厨房へ駆け込んで来たアズールに睨まれていることなど露知らず、フロイドは何食わぬ顔でフライパンを振るう。その上にはもはや原型が不明の、真っ黒な未確認物体が転がっていた。
「おい、フロイド。僕は炭作りを頼んだ覚えはありませんよ」
「あ゛? なに?」
「……もう上がって結構だと言っているんです。
今日のお前はタチの悪いクレーマーより手に負えない」
はぁ、と苛立たしげに大きなため息を吐く支配人。赤字製造機と化しているフロイドは、ほとんど追い出される形で寮に帰されてしまった。
帰り際、「頭を冷やしたほうがいいんじゃないですか」とアドバイスを頂戴したフロイドは、自室に戻るや否やシャワールームに直行し、しこたま冷水を被った。
「アズールの嘘つき……」
確かに頭皮は冷えたものの、依然として中身はモヤモヤしたままだ。
途端に馬鹿馬鹿しくなったフロイドは、舌打ちをかましながら栓を閉める。大雑把に身体を拭いて服を着ると、髪も乾かさずベッドの海へとダイブする。就寝の準備は万全だが、そのまま眠る気分にはなれなかった。
仕方なく枕元に重ねてあった雑誌を適当に手に取り、眺めることにした。
「……十三分三十四秒」
しばらくして、唐突に響いた自分以外の声。そう広くない空間で、発生源はただひとつしか考えられなかった。
フロイドは読んでいた雑誌から、書斎と向き合う自身とよく似た横顔へと視線を移す。
「先ほどからフロイドが同じページを眺めている時間です」
言いながらジェイドもゆっくり目を合わせると「お得な情報でも載っていましたか?」と微笑みながら問う。
要領を得ない兄弟の言葉に、怪訝に思ったフロイドは改めて雑誌に目を落とす。そこには昨日、監督生に見せたスニーカーの写真がモデルの着用している姿と共に掲載されていた。
――バッカじゃねぇの、オレ。
フロイドは苦々しく舌打ちをすると、ポイッと雑誌を床に放り投げ、枕に顔を埋めた。
「おやおや」と言葉では困った風を装うジェイドだが、声色に隠しきれぬ笑いが滲んでいる。
「フロイドが悩みごととは珍しいですね。明日は隕石でも降ってくるんでしょうか」
「今はジェイドの冗談に付き合ってる気分じゃねーんだけど」
「ふふ、つれませんね」
フラれてしまったジェイドは、再び書斎と向き合う。長いピンセットを手に取ると、フラスコを大きくしたようなガラス容器の中に、鮮やかな緑を敷き詰めていく。
枕に顔半分を埋めたフロイドは、うきうきとした様子で趣味に精を出す兄弟を眺める。すん、と鼻を鳴らしてみればいつかのキャンプを思い出すような森の香りが鼻腔を通り、眉を顰めた。
「ジェイドのそれさぁ、部屋が土臭くなるから他所でやってよ」
「なら鼻でも抓んでおいてください。あと一時間ほどで終わりますから」
「死ねって言ってんの?」
遠回しにされた死刑宣告にムッとしたフロイドだったが、今は言い争う気力すら湧いてこなかった。口からはハァ、と何回吐いたか分からなくなるほどの溜め息を吐くばかり。
張り合いの無い兄弟の様子に、なかなかの重症だと察したらしい。ジェイドは手にしていたピンセットを置くと、机から彼のほうへと体を向ける。
「悩みの種は監督生さんですか?」
「……違うし」
「おや、外れてしまいましたか。残念です」
その顔には残念のざの字も滲んでいやしなかった。むしろ見事な大当たりを引き当てたかのような笑顔だ。
「最近の監督生さんは、フロイドの周りをしつこくついて回っているそうじゃないですか。てっきり僕は物証を残さずに消し去る方法でも考えているのかと」
「ジェイドじゃないんだから、そんな周りくどいやり方しねぇよ」
「ふふ、それもそうですね。……そういえば、監督生さんで思い出しましたが」
そこまで言いかけて「いえ、大したことではありませんよ」と勿体ぶるジェイドに、フロイドは苛立ちの滲む声色で「なに」と先を急かした。
「監督生さんが頻繁に学園の図書館を利用していらっしゃるのをご存知ですか?」
「知らねーけど。そんなの小エビちゃんがバ……」
――馬鹿だから。そう言おうとして実際口から出てきたのは「セーセキ良くないからでしょ」という響きの異なる言葉だった。
間違いなく自分の意思でそうしたはずなのに、何かに仕向けられた気がしたフロイドは、不快感に唇を噛む。そして話題を振っただけに過ぎないジェイドを恨めしく睨んだ。
そもそも図書館が勉強する為の空間だということは、気まぐれに足を運ぶフロイドも知るところだ。そこに一体何の疑問があるのか。以心伝心であるはずの兄弟の意図が、今の彼には分からなかった。
「ええ、そうでしょうね。ただ詳しく調べてみると面白いことが分かるかもしれません」
どこか引っかかる物言いに、フロイドは面白くなさそうに口を尖らせる。
「なにそれ。ジェイドはもう知ってるわけ?」
「知りませんよ。生憎、今は大変勤勉な寮長のおかげでラウンジの仕事が立て込んでいるもので、調べる暇も無いんです」
ジェイドはやれやれとでも言いたげにため息を吐いた。
「とはいえ対象は地位も権力も持たないあの監督生さんですからね。調べたところで我々の利益に繋がるとは到底思えませんが……暇つぶしには丁度いいかもしれませんよ」
含みを多分に持たせた物言いに、口元には企みを孕んだ仄暗い笑みが湛えられる。常人であれば悲鳴を上げて逃亡してしまいそうな表情も、身内にしてみれば彼の通常運転に過ぎない。フロイドは「ふーん」と生返事だけして毛布を被り、ジェイドに背を向けた。
「おや、もう寝てしまわれるんですか?」
半ば強制的に終わらせた会話に、ジェイドは拍子抜けした声を漏らす。
いつもであれば嬉々として話に乗るか、そうでなくとも下らない、馬鹿馬鹿しいぐらいの文句で返していたが、どちらもフロイドの気分では無かった。
「ジェイドのつまんねー話聞いてたら眠くなっちゃったんだもん」
「それはそれは……いい子守唄代わりになったようで何よりです」
クスクスと笑いでも付いてきそうな声に、目を閉じたフロイドの眉間に川が作られる。
「起床のアラームは八時でいいですか?」との問いにも含みを感じ、「好きにすれば」と不愛想なそれでフロイドは返した。
「お言葉に甘えてそうします。ちなみに、図書館の開館時間は八時半で──」
「ジェイドうるさい電気消すから早く寝な」
「ああっ、まだテラリウムが途中なのに……ひどいです!」
しくしく、とわざとらしくすすり泣く声などもはや聞こえないフリである。フロイドはマジカルペンを一振りして部屋の照明を落とした。
*
窓から吹き込む夕風は、外の新鮮な空気と本の古めかしい匂いを混ぜ合わせて、広い館内を抜けていく。
窓際の席に座っていた監督生は、捲れそうになるページを押さえながら紙の上に並んだ文字を目で追っていた。
そうした作業を繰り返すこと数分。最後のページまで行き着くと、小さくため息を吐きながら本を閉じる。どうやら期待していた収穫は無かったようだ。
――この世界で何も持ち得ない自分が真っ当に生きていく為には、一刻も早く在るべき世界へ帰らなければいけない。そう決意を新たにした監督生は、より本腰を入れて元の世界に帰る方法を調べ始めていた。
きっかけはもちろん、あの日の出来事だ。浴びせられた彼の言葉は、二日経った今でもはっきり思い出せてしまうほど彼女の脳内に深く刻み込まれていた。
悲しみに暮れているよりはずっと建設的な行動ではあるが、そんな考えに至る前は〝八つ当たりをした報復を受けるのでは〟と心配したものだ。しかしそれはただの杞憂だった。監督生はあれから一度たりともフロイドと口を利くことも、姿を見ることすらなかったからだ。
これ以上悩まずに済んでホッと安心をしている反面、心の中に隙間風が吹き込んでくるような――どこか寂しさを感じている自分に気づいた監督生は、大いに戸惑った。
考えに考え抜いた末、散々追いかけ回してきた反動だと強引に結論付けて収めたが。自身の天邪鬼加減にため息も出なかった。
――明日にはクルーウェル先生に事情を説明しないとなぁ。しばらくは冷蔵庫の無い生活か、と監督生は窓の外を遠い眼差しで眺める。
西日が眩しく目を細めれば、日差しを遮るようにひょっこりと横から顔が出てくる。
「ばぁ♡」
突然のことに、監督生は目を丸くしたまま固まってしまった。ややあって現実に戻ってきた彼女は、「フ、フロイド先輩?」とやっとの思いで口に出す。
男は返事の代わりに表情を緩ませると、隣の椅子を引いて平然と腰掛けた。
「何の御用でしょうか」
警戒心を露わにして告げる彼女とは対照的に、フロイドは無邪気な笑顔で徐に片手を掲げる。
「コレ、なぁーんだ?」
なぞなぞを出題するような口ぶりに、暖簾の如くぶら下げられた紙の束。監督生が物珍しげに目を瞬かせていると、よく見ろと言わんばかりに束が眼前まで迫ってくる。
次の瞬間にはパイ投げよろしく顔面に押し付けられるに違いない。危ぶんだ監督生は、躊躇いがちに両手で受け取る。
妙にニコニコしている男を怪訝に思いながらも、紙の上を目でなぞった。
「これって……課題のレポートじゃないですか!?」
「うるせっ。んな大声出さなくても見たら分かるでしょ」
鬱陶しそうに耳を塞ぐ彼に、監督生はハッと顔を白くする。驚きからつい、場にそぐわない声が飛び出してしまった。辺りを見回すが幸いにも視界で捉えられる範囲に人は居らず、安堵の息を吐いた。
改めてレポートの表紙を捲ってみれば、見かけだけじゃなく中身もしっかりとした形式で課題に沿った内容が綴られている。及第点どころか、最上の評価が下されるであろうことが素人目にも分かる出来だ。
「あんなに嫌がってたのに……どういう風の吹き回しですか?」
「いらねーなら捨てとくけど」
「わー! 要ります! 要りまくりますからっ」
墓穴を掘った監督生は、レポートを胸に抱え込んで守りの態勢をとる。
やっとゲット出来た冷蔵庫……もとい、努力の塊をみすみす彼の手で葬られるわけにはいかない。先輩の気が変わる前に、一刻も早く先生にお届けせねば。
意気揚々と腰を上げたものの、「ストップ」という声と共に腕を掴まれてしまい、再び着席する。おまけに向かい合った彼の長い足が両膝を挟み込み、たちまち身動きが取れなくなった。
「……ねえ。小エビちゃんの故郷ってどこ?」
「故郷? なんですか、藪から棒に」
「いーから黙って質問に答えろよ」
いやに威圧的な言い方をされ、監督生の身体が一回り小さくなる。
頭の隅では質問の意図に考えを巡らせながらも、「遠い東の方の国です」と口慣れた答えを述べた。この手の話題は初めてではなく、今となってはもはや定型文に等しい。後は当たり障りのない言葉を選びながら会話を完結に持っていくのが定石だ。
しかし、彼の一手はいつもと大きく違っていた。
「それって実在すんの?」
ドクリ、といやに大きく脈打つ心臓。動揺を悟られないよう「するに決まってるじゃないですか」と努めて平静を装うが、彼の目に宿った疑心の色は全く払拭出来なかった。
居心地悪く座る監督生に向かい、ゆるりと手が伸びてくる。思わず震えてしまった彼女を尻目に、その手は空気しか無いはずの肩の横で何かを引っ掴んだ。次の瞬間には、バサッと大きな音が机の上で響く。
「どこらへんなの? 教えてよ」
語気を強めて問う彼に、監督生はおずおずと視線を机に移動させる。そこには格子状に折り目のついた世界地図が広がっていた。
大変親切な作りをしたそれは、大きな国のみならず小さな島国まできちんと名前が記載され、全てを網羅しているようだった。
だがそんな優秀な地図を持ってしても、監督生が生まれ育った国は当然存在しない。机上に向けた目は、探すというよりは当てもなく彷徨っていた。
「……実は、辺境すぎて地図にも載ってないんですよ。ある意味凄いですよね」
はは、と相手の笑いを誘ってみるものの、今のフロイドは乗らなかった。全てを見透かしているような瞳に捕らえられ、肩を竦める。
「オレ、今から馬鹿なこと聞くけど笑ったら本気で絞めるから」
言いながら、フロイドは地図を元通りに畳むと空中に放った。
物騒な前置きをされた監督生は黙って息を飲む。単純に笑ってしまうほどの面白い話をされたならどれほど良いだろうか。いつになく真剣な彼の表情に、それは期待できそうも無かった。
「小エビちゃんって、別の世界から来た人間だったりすんの?」
喉元に刃を突きつけられたような心地とは、今がまさにそうだろう。咄嗟に笑って誤魔化そうとしてしまい、慌てて顔を俯けた。
早く否定しなければ。適当でも何でも良いから言い繕わねば。そう思えば思うほど、焦りばかりが募って喉の隙間を塞いでしまう。
――その迷いこそが、彼の疑問を肯定している何よりの証明だと思い至る余裕すら無かった。
「そっかぁ。そうなんだぁ」
答えは決まったとばかりに、フロイドは口の中で笑いを混ぜながら独り言のように吐き出した。
全身が心臓になったのかと錯覚してしまうほどの心音が、監督生の身体の内側で木霊する。額にはうっすら冷や汗を滲ませ、膝の上に置いていた拳を強く握りしめる。
何とか絞り出した「どうして」という一言も、頼りなく震えてしまっていた。
「んー? オレはただ、小エビちゃんが図書館で読んでた本ぜーんぶ調べただけ」
「全部……?」
復唱した言葉に、フロイドは口元の笑みを深めて頷いた。
監督生はこの世界に来た日から、時間さえあれば此処に通い詰めている。それはもちろん勉強の為でもあるが、今日のように元の世界に帰る方法を探す目的のほうが多かった。その為に読み込んだ本の量は十冊や二十冊といったものではない。転移魔法や地形に関する資料、魔導具、人物史などなど、とにかく手当たり次第手に取っては元の世界に繋がるヒントを見つけ出そうとしていた。
それを目の前の彼は全部読んだ、というのだ。
館外に持ち出しもしていない上、この膨大な量からどうやって調べたのか。そう疑問には思っても口には出さなかった。彼らの情報網を侮ってはいけないというのは、この学園では有名すぎる話である。図書館に所蔵されている全ての本の閲覧者を把握していてもおかしくはないのだ。
「フロイド先輩。どうかこのことは、内密にお願い出来ませんか」
一度バレてしまったことを抹消するのは至難の業だ。まして魔法も使えない監督生がどうこうできるわけもなく、神頼みする気持ちで頭を下げる。
「え〜、どうしよっかなぁ」
「一切の口外を禁止されているんです……お願いします」
「その口止めしてる奴って、どーせ学園長でしょ?」
今さら否定したところで既に手遅れなのだろう。確信を得てるような彼の口ぶりに、監督生は何も言わなかった。
「ま、オレは学園長の隠しゴトとか興味ねぇけど。
……アズールなら、喜ぶかもねぇ」
フロイドはにやりと口角を歪めて机に片肘をついた。
それだけはダメだ、と監督生は力強く首を横に振る。
彼の寮長――アズールは他人の弱味を握ることを好む。その対象が学園で一番に等しい権力を持つ学園長となれば、喜びも一入だろう。もしこの件が彼に知れたら、嬉々として強請る為の餌にされてしまうことは安易に想像がつく。
そして「私、優しいので」と自称する学園長も、自身に不利益な条件を提示されれば目の上のタンコブに等しい人間などあっさりと切り捨てかねない。その様な最悪の事態だけは、何としても避けたかった。
「そうそう、嫌だよねぇ。じゃ、人に頼み事する時は……分かってるよなァ?」
「っ、……はい」
特別な地位を持っていない監督生には、お願いをする自身が下の立場になるのは当然の道理だ。例え無茶な要求をされても拒む権利は無い。
それに、果たせる要求ならまだいい。いつかのように彼らに邪魔を入れられ、果たすことすら叶わなければいよいよこの生活もお終いだろう。
監督生の脳内に、学園を追い出され我が身一つで路頭に迷う未来が映し出された。絶望的な光景に押し出された涙がこぼれ落ちそうになり、隠すように顔を俯ける。視界の端からは追い討ちをかけるかの如く、黒い影が伸びてくるのが見えた。
――絞められる。ギュッと目を瞑ると、何かが帽子のようにすっぽりと頭を覆った。
「ごめん」
いつもの脅しでもなく、嘲笑うでもなく、挑発でもない。上目遣いで恐る恐る見上げたフロイドは、眉尻を下げ言葉通りの萎らしい表情をしていた。
「オレ、小エビちゃんの事情とか知らなかったし。ひでーこと言っちゃってごめんね?」
絞められるとばかり思っていた彼の手は、痛みを取り除くかのように頭を優しく撫でつける。
予想とは正反対の行動に呆気に取られた監督生は、抵抗することも忘れてされるがまま受け入れる。
「ひどいこと……?」
「は? まさか忘れたとか言わねぇよな?」
「わっ、忘れてません。けど……先輩に謝られるなんて思わなくて」
超が無限につくほどの気分屋で、二言目どころか出会い頭に「絞める」と言い、小エビを雑魚以下だと評する人物が、自身の発言を省みて謝るとは誰が思おうか。
しかし、良くも悪くもそんな人だからだろう。他でもない自分の気持ちを汲んで憂いてくれた事実は、監督生にかなりの衝撃と同時に言い知れぬ嬉しさをもたらした。渇いた土に水が染み渡っていくかのように、じんわりと胸が暖かくなる。
「なにニヤニヤしてんの?」
言いながら、フロイドは引き気味に顔を顰めた。
喜びを噛み締めていたつもりが、見ている方には相当不審に映ったみたいだ。大概失礼ではあるが、それも見逃せてしまうほどに今の監督生は機嫌を良くしていた。
「フロイド先輩が、調べてまで心配してくれたのが嬉しいんです。ありがとうございます」
「別に……暇だからやっただけだし〜。なのにお礼とか言っちゃって、お人好しすぎ」
「えへへ。よく言われます」
「バッカじゃないの? それバカにされてんだよ。小エビちゃんみたいなおバカ、いつか痛い目みるからね。バーカ」
「一周回ってバカが褒め言葉に聞こえてきました」
「あっそ。めでてぇ頭してんね」
悪態をぶつけるフロイドに、監督生は海中を漂うワカメのようにふやふやと顔を緩ませた。
笑みを浮かべれば浮かべるほど、口をへの字に曲げたフロイドの眉間に皺が足されていく。怖いはずのそれすら、今は可笑しく感じてしまっていた。
「おめでたくても大丈夫ですよ。フロイド先輩を相手にしてた今までを考えたら、大抵の人間はどうにかなりそうな気がしますから」
「なにそれ。褒めてんの? 貶してんの?」
「両方ですね」
「へぇ。小エビちゃんの癖にいい度胸してんじゃん。締めてやろ〜」
「ぎゃあっ」
長い腕は監督生の首の後ろを捕らえると、自らの肩口に引き寄せる。
「ちょっと、首は止めて下さ……い?」
これから味わうであろう苦しみに監督生は身構えていたが、待てど暮らせど腕は一向に締まる気配がない。
不思議に思い目だけを動かして窺い見ると、フロイドは腑に落ちない表情で肩の上に顎を乗せていた。
「いくら脅かしてやっても生意気に泣かなかったのに、あん時はあからさまに悲しそーな顔しちゃってさぁ……」
恨み言にしては、その響きはあまりに柔らかく濁りが無い。なんとなく口を挟むのも憚られた監督生は、黙って耳を傾けることにした。
「オレに付き纏って来ねぇ癖に、他のヤツとはいつも通りヘラヘラ喋ってるし……なんか知らねーけど、すっげえムカついたんだよねぇ」
「先輩……?」
思わず漏れてしまった声に、腕を緩めたフロイドが顔を覗き込む。蜂蜜色の瞳は水滴が水面を打つように揺蕩い、監督生を映していた。いつもの獰猛さを忘れてしまうほどの弱々しい表情に、縛り付けられたかのように目が離せなくなる。
数秒にも満たない時間が、永遠に感じ始めた頃。長い腕はゆっくりと離れていき、距離を戻した。
「……で、小エビちゃんはオレに何してくれんの」
「へ?」
一転していつもの笑顔を浮かべるフロイド。脈絡の無い問いをいきなり吹っ掛けられた監督生は、間の抜けた声を漏らした。
「課題のレポートは傷心した小エビちゃんへのお詫びの品ってやつ。黙ってることの対価はまだ貰ってねぇよ?」
にっこりと寛容さを象る唇とは逆に、その目は獲物を逃さんばかりに鋭く光っている。
さすがは取り立てに余念の無い男である。有耶無耶のままにはしてくれなかったかと、監督生はがっくり肩を落とした。
「ううっ……傷つきすぎてレポートだけじゃ足りそうにないです……」
「ピンピンしてる癖に調子乗ってんじゃねぇぞ? あ?」
取ってつけたような苦しい言い訳に、彼が乗じるわけも無く。仰々しく胸を押さえる監督生を、フロイドは冷ややかな笑顔で威圧する。瞬間冷凍さながらの空気を感じた監督生が即座に謝ると、フロイドは満足げに頷いた。
「じゃあじゃあ〜明日休みだし、近くの街まで買い物に付き合ってよ。小エビちゃんはただオレに着いて来ればいいだけ。簡単でしょ?」
その言葉の通りであれば、対価としては破格の条件だ。
しかし監督生は頷くのを躊躇った。というのも、先日フロイドに見せられた靴の写真が頭の中に思い浮かんだからだ。
たかが一足の靴であっても、冷蔵庫すら満足に買えない懐事情で手に入れられる代物では無い。もしそれを強請られてしまったら、対価は成立しなくなるだろう。
悩んだ末に「私、お金無いですよ」と正直に告げれば、フロイドは呆れた様子で左手を翻した。
「いらねーよ、オレの買い物だもん。小エビちゃんのペラッペラの財布なんて誰もアテにしてないから安心しな」
「……泣いてもいいですか」
「めんどくせーからやだ」
からからと笑いながら一蹴され、貧乏監督生は取りつく島もなく項垂れる。そうこうしている間に、フロイドはさっさと出かける時間と待ち合わせ場所を指定した。「一秒でも遅れたら締めるから」との忠告(脅迫)に、あたふたとスマホを取り出しスケジュールに記入する。
ついでに互いの連絡先も交換すると、フロイドは欠伸をしながら腰を上げた。眠そうな眦をさらに柔らかくした双眸が、監督生を見下ろす。
「また明日ね。小エビちゃん」
くしゃり、と頭を撫で付けるとフロイドは出口へと踵を返した。大きな背中はあっという間に見えなくなってしまう。
「……明日、か」
ぼんやりとする頭は、眠りから醒めてもなお夢の余韻を引き摺っているかのよう。
昨日までは顔を合わせるのも嫌だったはずが、今は「ちょっと楽しみかも」なんて。とうとう自分は危ない趣味嗜好に目覚めてしまったのだろうか。
閉館時間を告げる鐘が鳴るまで、監督生は一人悶々と唸っていた。
【おまけ】
帰る道すがら、ちょうど魔法薬学室から出てくるクルーウェルに遭遇した監督生は、早速レポートを提出した。
「……ほう。上出来じゃないか」
感心した様子で紙を捲るクルーウェルに、「あの〜」と控え目に手を挙げる。
「これで寮の予算も通して下さるんですよね……?」
恐る恐る聞けば、クルーウェルはぴたっと表情を固まらせた。監督生が首を傾げると、思い出したかのように「ああ」と声を漏らす。
「その件なら既に申請は通してある」
「え?」
「冗談半分のつもりだったが……まぁ、よくやったじゃないか」
均整のとれた顔から作り出される素敵なスマイル。いっそ痛いぐらいの煌びやかなオーラを受けながら、監督生は抜け殻の如く脱力した。
つまり、この数日間は一人で勝手に足掻いていただけだったということである。なんと滑稽なことだろうか。結果オーライとはいえ、精神を擦り減らした日々を思い返すと涙がこみ上げてきそうになる。
「またリーチ弟がサボった時は頼んだぞ、仔犬」
「丁重にお断りさせていただきます!」
大層愉快そうに喉を鳴らすクルーウェルに、監督生は今度こそ断りの意思をはっきり告げ、寮へと逃げ帰るのだった。