♪ 嫌よ嫌よも好きと言え。
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一年生と二年生。数字で言えば一年の違いといえど、その雰囲気はガラリと変わるものだ。
二年生の階に足を踏み入れた監督生は、緊張感に固まる身体を深呼吸をして解した。
今は授業の合間に設けられた十分程度の休み時間である。人がひしめく廊下を縫うように歩きながら、監督生はそれぞれの扉に掲げられた表札を見上げる。やがて『2ーD』と書かれた教室を見つけると、いそいそと近づき忍び込むようにそっと覗いた。
恐らく、次の授業は移動教室なのだろう。教室内の人影は疎らだった。これはタイミングが悪かったと心の中で悔やみながらも、監督生は教室全体を見回した。
――あ、と思わず声が漏れる。視線の先には教壇から一番遠い列の席、その端で机に突っ伏すターコイズブルーの頭を捉えていた。先ほどの後悔を撤回し、これはラッキーだとほくそ笑む。
それもそのはず。ターゲットの人物は授業だろうが休み時間だろうがお構いなしに学園内を放浪している為、エンカウントするだけでも相当な労力を要するのだ。
目標を見つけてしまえば自ずと度胸も決まり、監督生は「失礼します」と教室の中に足を踏み入れる。残っていた生徒は一瞥はすれど、気にも留めない様子で室内から出て行ってしまった。残ったのは立ち尽くす監督生と、その目の前に座って眠る彼だけだ。
「フロイド先輩、ちょっといいですか」
挨拶代わりに声を掛けてみたはいいが、鮮やかな色彩をした頭は机と対面したまま動かない。目覚ましのスヌーズのように徐々に音量を上げてみるがそれも効果なし。
他にも手段は色々思いつくものの、無理に起こすのは気が引けた。何せ相手は気まぐれな肉食魚の人魚だ。寝起きの悪さついでにパクリ、といかれてしまう可能性もなくは無い。
だが手をこまねいているその間にも、時間は消費されていくばかりである。
――肩を軽く叩く程度ならセーフだろうか。監督生はごくりと喉を鳴らし、恐る恐る片手を伸ばす。
残念ながら、目的の箇所には届かなかったが。
「い゛だぁーっ!?」
彼女より一回りも二回りも大きな手が手首を掴み上げる。遠慮のかけらも無い力加減は、真っ青な痣のブレスレットが刻まれるのではと心配になってしまうほどだ。そんなことは御免被りたい監督生は、涙を浮かべて「ギブ! ギブ!」と締め付ける手を繰り返しタップした。
「ん~? なんで小エビちゃんがいんの?」
ふぁ、と大きな欠伸をしたフロイドは、寝ぼけ眼で必死の形相を浮かべる監督生に目を遣るや否や「それ変顔ってやつ? おもしれっ」と両手で腹を抱えて笑い始めた。
馬鹿にされていることは言うまでもないが、結果的に解放された手首のほうが今の監督生には大事だった。薄ら赤く染まってしまったそこを労わるように摩りながら、元凶を恨めしく睨む。
「ハァ〜雑魚をビビらせて遊んでやろうと思ったのに。ハァ〜小エビちゃんとか締め甲斐ねーじゃん。ハァ〜がっかり」
一頻り笑って満足したらしいフロイドは、一転して退屈そうに頬杖をついた。
理不尽な言い分とは言え、立て続けにため息を繰り出されればさすがに居心地も悪くなるというものだろう。
「……雑魚にも満たない小エビですみませんね」
「あは。よく分かってんねぇ」
えらいえらーいと適当な褒め言葉を放り投げられ、こめかみに青筋が浮かぶ。しかしこの挑発に乗っていたら授業に間に合わなくなるだろうことは明らかだ。
スルーを決め込んだ監督生は、肩に下げていた鞄からプリントを手に取ると真っ直ぐフロイドに差し出した。
「なにこれ」
「昨日、クルーウェル先生からお預かりしたのでフロイド先輩に届けに来たんです」
「イシダイせんせぇが? ……ふーん」
そうしてプリントを摘んで眺めて、僅か数秒。
「いらねぇから小エビちゃん返してきて」
にっこりと笑みを湛えたフロイドは、監督生に紙を突き返した。
説明してすんなり受け取ってくれる相手ではないということは昨日から予想はしていたが。ここまで的確に当たらなくてもいいのに、と監督生は苦々しく眉を顰める。
だがここで〝はいそうですか〟と折れるわけにはいかない。何せこの課題には自身の生活、下手をすれば命もかかっているのだから。彼女は意を決して、彼の手を押し返した。
「残念ながら返品は不可です」
「は? 悪徳商法かよ」
この先輩には一番言われたくない言葉である。喉まで出かかった抗議を監督生は寸でのところで飲み込んだ。
「それに、クルーウェル先生が〝課題を提出しないと単位はやらない〟って言ってましたよ」
たかが小エビの力だけでは限界がある為、先生の威厳を借りて説得を試みる作戦だ。しかしこの先輩にはどちらにせよ効果は望めなかったようで。「単位とかどうでもいいし。課題もちょーめんどくさい」と華麗に一蹴されてしまった。
打つ手をなくした監督生はぐるぐると思考を巡らせるものの、良い方法は一向に浮かばない。どうしたら、どうしたら、と気持ちばかりが急いてしまう。
「……こ、困ります」
蚊の鳴くような声がぽつりと響く。慌てて口を塞ぐが、フロイドはしっかり耳に入れていた。怪訝に眉を寄せると、あまり高さの変わらない彼女の顔を見上げる。
「オレの課題なんだから、小エビちゃんが困ることねーじゃん」
当然の指摘を受け、監督生はゔっ、と言葉を詰まらせる。
――情に訴えかける手段なんてそれこそこの先輩に効果が無いし、逆手に取って弄ばれてしまう可能性だってあるのは承知していたはずだった。
こうなれば逃げるか、嘯くか、笑って誤魔化すか。様々な選択肢を思い浮かべては結果を想像してみるが、無惨にもルートは軒並みバッドエンドだ。
もはや考えることを諦めた監督生は「困るんですよ」と、やや語気を強めて言い放った。
「私は、フロイド先輩が課題を提出するまで監督するよう先生から仰せつかっているんです」
震える両足には気付かない振りをして、不機嫌そうに凄む彼と向き合う。すると表情通り「うぜぇ」と吐き捨てたフロイドは、おもむろに椅子から腰を上げた。
一瞬にしてそびえ立った壁を前にして、監督生は情けない声が出そうになってしまい、必死に唇を引き結ぶ。緩く口角を上げたフロイドは、見上げる彼女の顔へとその長身を屈める。
――逆光の中で明暗の異なる黄金色の瞳が鈍く光る様は、獲物を威嚇する獣のよう。来る前にトイレを済ませておいて良かったと、監督生は心の底から過去の自身を褒め称えた。
「やらねーって言ったら?」
「……やるまでずっと言い続けます」
今すぐにでも逃げ出したい気持ちをぐっと堪えて、挑発的な目を睨み返す。
体格、頭脳、力。何もかもが勝ち目の無い無謀な勝負だ。いっぱしの虚勢だけを張って対峙する。
「あっそ。好きにすれば」
途端、フロイドの表情からすっかり興味の色が削ぎ落ちた。
グシャッという効果音と共にプリントをポケットに突っ込んだ彼は、気だるげに頭を掻きながら監督生の横を通り過ぎる。
教室の扉を潜る大きな背中が見えなくなると、監督生は深いため息を吐いて全身の力を抜いた。
奇跡もあるかも、という心のどこかで僅かに抱いていた甘い期待は呆気なく粉々に打ち砕かれた。唯一の救いと言えば、プリントを受け取って貰えたぐらいだろう。だがあの様子では課題を作成するとは到底考えられない。
これからせねばならぬことを考えたらとても授業など受ける気分では無かったが、サボるなんて度胸はもっと無かった。監督生はどんよりとした気持ちをぶら下げ、教室に戻るのだった。
*
翌日。
「ぜぇーったい、やだ」
にんまりと柔らかい笑顔が、岩のように顰められた顔を見下ろす。
廊下を行き交う生徒は我関せずといった様子で、要らぬ火の粉を浴びないようにフロイドと監督生から遠ざかって行く。結果、周りには半径一・五メートルほどの円が描かれていた。
円の中心にいる二人以外では唯一、監督生の相棒であるグリムが落ち着かない様子で二人を見上げていた。
「そこを何とか……!」
「あれぇ、聞こえなかったの? い、や、だ」
――まさかその歳で赤ちゃんがえりか。イヤイヤ期なのか。悪態を吐きたくなる気持ちを押し込めて、監督生はぐぬぬと歯を食いしばる。
ここで怒ったところで言うことを聞いてくれるどころか益々面白がるのは、彼が〝金魚ちゃん〟と呼び度々揶揄っているリドルとのやり取りを見ていれば安易に予測がつく。
しかし状況は同じでも、監督生はリドルのように優秀な頭脳も、魔法という名の対抗手段も持っていなかった。いわば素っ裸のノーガード同然だ。そのまま立ち向かおうものならワンパンで伸されてしまうのは想像するまでも無い。
「小エビちゃんさぁ、そんなにオレに絞められたいわけ?」
「違います。でも課題はやって頂かないと困るんです」
「それは昨日聞いたっつーの。オレ、しつこいのキラーイ」
「嫌いで結構ですので課題を」
「あ〜もうカダイカダイうるせぇって言ってんの。どーしても止めれないなら、オレが口きけなくしてあげてもいーんだよ? ん?」
大きな手が首に添えられる。監督生がびくっと肩を揺らすと、フロイドはニタリと眦を細めた。
さすがにまずいと思ったのだろうグリムが、監督生の背中に飛び乗る。「離すんだゾ!」と首に巻きつく手をはたき落とそうと試みるが効果は無い。
「首細ぇ〜、マジで締め甲斐ねーじゃん」
回した指がくっついてしまいそうな細さにドン引きしたフロイドは、確かめるように握ったり開いたりする。
気道は辛うじて確保されているものの、緩やかな圧迫感と握り潰される不安から監督生は顔を顰めた。
「締めやすいの間違いでは……?」
「オレはもーっと締め応えあるほうがすきなの。すぐ潰れちゃったらおもしろくねーじゃん。小エビちゃんもそう思わね?」
「ちょっと……よく分からないですね」
「そっかぁ。小エビちゃんは潰されちゃう側だから分かるわけないよね、ごめんごめーん」
無邪気に笑って謝るフロイドに、監督生は何も言わずただ見詰める。見え見えの挑発に乗って絞められるより、気分屋の彼の飽きを待った方が早いと考えてのことだ。今はただ、我慢するのみだと自身に言い聞かせる。
「てかアザラシちゃん何? さっきからくすぐったいんだけど」
「ふなっ!?」
「はぁ……なんか飽きちゃった」
思ったより早くその時は来たようだった。
ため息混じりに呟いたフロイドは、首を掴んでいた手を下ろした。愉しげな表情はみるみる引っ込み、気怠げな雰囲気が上書きされていく。
「ジェイドのとこでも遊びに行こーっと。じゃあね〜小エビちゃん、アザラシちゃん」
ひらひらと手を振ると、左右に身体を揺らしながらフロイドは放浪の旅に出た。
――まるで嵐のようなひと時だった。監督生とグリムは揃って深い溜め息を吐き、自然とアイコンタクトをとる。
「子分、アイツちっともやる気がねぇんだゾ。言うだけ無駄なんじゃねえのか?」
「うーん……否定出来ないのが悲しいけど。
昨日の今日だし、もうちょっと頑張ってみるよ」
相棒の不安を払拭する為、今出来る精一杯の笑顔で答える。取り繕える表情とは裏腹に、隠しようのない不安が満潮の如く胸を満たしていた。
*
それからさらに三日が経った。進展は悲しいかな、もちろん無し。
だがこうして異世界に飛ばされ、危険な場面を何度も掻い潜ってきた監督生である。持ち前の気概で困難に立ち向かうのは朝飯前と言っていい。
例えそれが、呆気ない玉砕を重ねていても……だ。
「うわっ、また来たぁ。小エビちゃん暇すぎ」
――うんざりとため息をつかれる日も。
「あは。今、機嫌いーから締めてあげんね」
――人間ソーセージを作らんばかりに胴体を締め上げられる日も。
「はぁ? 汗くせーから近寄んないでくれる?」
……そう、冷ややかな目で言われる今だって。
今日も今日とて監督生は、中庭の木の上で寛ぐ彼を見つけ、何度と無く言ってきたことを繰り返す。そして彼の返事も同じくノー。それどころか残酷な言葉までぶつけられる始末だ。
確かに全力で探し回っていたせいで薄ら汗をかいてはいたが。そんなに臭いのだろうかと監督生は若干涙目になりながら、一緒に付いてきてくれたマブたちに訊く。デュースはすんすんと鼻を鳴らしてから「全然臭くないぞ」と首を傾げた。
「つーか、フロイド先輩行っちゃったけどいいわけ?」
「はっ!?」
エースの言葉を聞き見上げた木には、青々とした緑ばかりで人の姿形も無い。
――またやられた。監督生は脱力し、両手両膝を地面に付けた。
デュースの「熱中症か!?」という心配の言葉を背中に受けつつ項垂れていれば、グリムは「もう諦めたほうがいいんじゃねぇか?」と心配そうに監督生の顔を下から覗き込む。二人の優しさに感謝を述べながら、「私は大丈夫だよ」と些か頼りない笑顔を浮かべて立ち上がった。
諦める。グリムの言う通り、冷静に考えればそれが一番最良の手段だった。クルーウェルには力が及ばなかったと謝罪して、冷蔵庫の予算はほとぼりが冷めた頃に再度申請すればいい。
分かっていながら出来ないのは、監督生自身のつまらない意地と、捨てきれない僅かな希望のせいだった。
本当に鬱陶しいだけであれば実力行使でいくらでも拒絶できる。それなのに、絞められはしても怪我を負わせられたことが彼女にはまだなかった。当然、遊ばれているであろうことは考えるまでもないが。
図太い監督生はかえって都合が良いと判断し、外傷を負わない限り粘り続けてやろうと、密かに心に決めていた。
「協力はできねーけど。ま、頑張れよ」
ポン、と肩に置かれた手に振り返れば、白い歯を輝かせてサムズアップするエース。
――してくれないんかい、と突っ込むことは出来なかった。もし自身が逆の立場だったら恐らく同じことを言っていたはずだからだ。そう、だからイラッとするなんてお門違いだ。
監督生はにっこりと笑うと、エースの親指を渾身の力で握り締めるのだった。
二年生の階に足を踏み入れた監督生は、緊張感に固まる身体を深呼吸をして解した。
今は授業の合間に設けられた十分程度の休み時間である。人がひしめく廊下を縫うように歩きながら、監督生はそれぞれの扉に掲げられた表札を見上げる。やがて『2ーD』と書かれた教室を見つけると、いそいそと近づき忍び込むようにそっと覗いた。
恐らく、次の授業は移動教室なのだろう。教室内の人影は疎らだった。これはタイミングが悪かったと心の中で悔やみながらも、監督生は教室全体を見回した。
――あ、と思わず声が漏れる。視線の先には教壇から一番遠い列の席、その端で机に突っ伏すターコイズブルーの頭を捉えていた。先ほどの後悔を撤回し、これはラッキーだとほくそ笑む。
それもそのはず。ターゲットの人物は授業だろうが休み時間だろうがお構いなしに学園内を放浪している為、エンカウントするだけでも相当な労力を要するのだ。
目標を見つけてしまえば自ずと度胸も決まり、監督生は「失礼します」と教室の中に足を踏み入れる。残っていた生徒は一瞥はすれど、気にも留めない様子で室内から出て行ってしまった。残ったのは立ち尽くす監督生と、その目の前に座って眠る彼だけだ。
「フロイド先輩、ちょっといいですか」
挨拶代わりに声を掛けてみたはいいが、鮮やかな色彩をした頭は机と対面したまま動かない。目覚ましのスヌーズのように徐々に音量を上げてみるがそれも効果なし。
他にも手段は色々思いつくものの、無理に起こすのは気が引けた。何せ相手は気まぐれな肉食魚の人魚だ。寝起きの悪さついでにパクリ、といかれてしまう可能性もなくは無い。
だが手をこまねいているその間にも、時間は消費されていくばかりである。
――肩を軽く叩く程度ならセーフだろうか。監督生はごくりと喉を鳴らし、恐る恐る片手を伸ばす。
残念ながら、目的の箇所には届かなかったが。
「い゛だぁーっ!?」
彼女より一回りも二回りも大きな手が手首を掴み上げる。遠慮のかけらも無い力加減は、真っ青な痣のブレスレットが刻まれるのではと心配になってしまうほどだ。そんなことは御免被りたい監督生は、涙を浮かべて「ギブ! ギブ!」と締め付ける手を繰り返しタップした。
「ん~? なんで小エビちゃんがいんの?」
ふぁ、と大きな欠伸をしたフロイドは、寝ぼけ眼で必死の形相を浮かべる監督生に目を遣るや否や「それ変顔ってやつ? おもしれっ」と両手で腹を抱えて笑い始めた。
馬鹿にされていることは言うまでもないが、結果的に解放された手首のほうが今の監督生には大事だった。薄ら赤く染まってしまったそこを労わるように摩りながら、元凶を恨めしく睨む。
「ハァ〜雑魚をビビらせて遊んでやろうと思ったのに。ハァ〜小エビちゃんとか締め甲斐ねーじゃん。ハァ〜がっかり」
一頻り笑って満足したらしいフロイドは、一転して退屈そうに頬杖をついた。
理不尽な言い分とは言え、立て続けにため息を繰り出されればさすがに居心地も悪くなるというものだろう。
「……雑魚にも満たない小エビですみませんね」
「あは。よく分かってんねぇ」
えらいえらーいと適当な褒め言葉を放り投げられ、こめかみに青筋が浮かぶ。しかしこの挑発に乗っていたら授業に間に合わなくなるだろうことは明らかだ。
スルーを決め込んだ監督生は、肩に下げていた鞄からプリントを手に取ると真っ直ぐフロイドに差し出した。
「なにこれ」
「昨日、クルーウェル先生からお預かりしたのでフロイド先輩に届けに来たんです」
「イシダイせんせぇが? ……ふーん」
そうしてプリントを摘んで眺めて、僅か数秒。
「いらねぇから小エビちゃん返してきて」
にっこりと笑みを湛えたフロイドは、監督生に紙を突き返した。
説明してすんなり受け取ってくれる相手ではないということは昨日から予想はしていたが。ここまで的確に当たらなくてもいいのに、と監督生は苦々しく眉を顰める。
だがここで〝はいそうですか〟と折れるわけにはいかない。何せこの課題には自身の生活、下手をすれば命もかかっているのだから。彼女は意を決して、彼の手を押し返した。
「残念ながら返品は不可です」
「は? 悪徳商法かよ」
この先輩には一番言われたくない言葉である。喉まで出かかった抗議を監督生は寸でのところで飲み込んだ。
「それに、クルーウェル先生が〝課題を提出しないと単位はやらない〟って言ってましたよ」
たかが小エビの力だけでは限界がある為、先生の威厳を借りて説得を試みる作戦だ。しかしこの先輩にはどちらにせよ効果は望めなかったようで。「単位とかどうでもいいし。課題もちょーめんどくさい」と華麗に一蹴されてしまった。
打つ手をなくした監督生はぐるぐると思考を巡らせるものの、良い方法は一向に浮かばない。どうしたら、どうしたら、と気持ちばかりが急いてしまう。
「……こ、困ります」
蚊の鳴くような声がぽつりと響く。慌てて口を塞ぐが、フロイドはしっかり耳に入れていた。怪訝に眉を寄せると、あまり高さの変わらない彼女の顔を見上げる。
「オレの課題なんだから、小エビちゃんが困ることねーじゃん」
当然の指摘を受け、監督生はゔっ、と言葉を詰まらせる。
――情に訴えかける手段なんてそれこそこの先輩に効果が無いし、逆手に取って弄ばれてしまう可能性だってあるのは承知していたはずだった。
こうなれば逃げるか、嘯くか、笑って誤魔化すか。様々な選択肢を思い浮かべては結果を想像してみるが、無惨にもルートは軒並みバッドエンドだ。
もはや考えることを諦めた監督生は「困るんですよ」と、やや語気を強めて言い放った。
「私は、フロイド先輩が課題を提出するまで監督するよう先生から仰せつかっているんです」
震える両足には気付かない振りをして、不機嫌そうに凄む彼と向き合う。すると表情通り「うぜぇ」と吐き捨てたフロイドは、おもむろに椅子から腰を上げた。
一瞬にしてそびえ立った壁を前にして、監督生は情けない声が出そうになってしまい、必死に唇を引き結ぶ。緩く口角を上げたフロイドは、見上げる彼女の顔へとその長身を屈める。
――逆光の中で明暗の異なる黄金色の瞳が鈍く光る様は、獲物を威嚇する獣のよう。来る前にトイレを済ませておいて良かったと、監督生は心の底から過去の自身を褒め称えた。
「やらねーって言ったら?」
「……やるまでずっと言い続けます」
今すぐにでも逃げ出したい気持ちをぐっと堪えて、挑発的な目を睨み返す。
体格、頭脳、力。何もかもが勝ち目の無い無謀な勝負だ。いっぱしの虚勢だけを張って対峙する。
「あっそ。好きにすれば」
途端、フロイドの表情からすっかり興味の色が削ぎ落ちた。
グシャッという効果音と共にプリントをポケットに突っ込んだ彼は、気だるげに頭を掻きながら監督生の横を通り過ぎる。
教室の扉を潜る大きな背中が見えなくなると、監督生は深いため息を吐いて全身の力を抜いた。
奇跡もあるかも、という心のどこかで僅かに抱いていた甘い期待は呆気なく粉々に打ち砕かれた。唯一の救いと言えば、プリントを受け取って貰えたぐらいだろう。だがあの様子では課題を作成するとは到底考えられない。
これからせねばならぬことを考えたらとても授業など受ける気分では無かったが、サボるなんて度胸はもっと無かった。監督生はどんよりとした気持ちをぶら下げ、教室に戻るのだった。
*
翌日。
「ぜぇーったい、やだ」
にんまりと柔らかい笑顔が、岩のように顰められた顔を見下ろす。
廊下を行き交う生徒は我関せずといった様子で、要らぬ火の粉を浴びないようにフロイドと監督生から遠ざかって行く。結果、周りには半径一・五メートルほどの円が描かれていた。
円の中心にいる二人以外では唯一、監督生の相棒であるグリムが落ち着かない様子で二人を見上げていた。
「そこを何とか……!」
「あれぇ、聞こえなかったの? い、や、だ」
――まさかその歳で赤ちゃんがえりか。イヤイヤ期なのか。悪態を吐きたくなる気持ちを押し込めて、監督生はぐぬぬと歯を食いしばる。
ここで怒ったところで言うことを聞いてくれるどころか益々面白がるのは、彼が〝金魚ちゃん〟と呼び度々揶揄っているリドルとのやり取りを見ていれば安易に予測がつく。
しかし状況は同じでも、監督生はリドルのように優秀な頭脳も、魔法という名の対抗手段も持っていなかった。いわば素っ裸のノーガード同然だ。そのまま立ち向かおうものならワンパンで伸されてしまうのは想像するまでも無い。
「小エビちゃんさぁ、そんなにオレに絞められたいわけ?」
「違います。でも課題はやって頂かないと困るんです」
「それは昨日聞いたっつーの。オレ、しつこいのキラーイ」
「嫌いで結構ですので課題を」
「あ〜もうカダイカダイうるせぇって言ってんの。どーしても止めれないなら、オレが口きけなくしてあげてもいーんだよ? ん?」
大きな手が首に添えられる。監督生がびくっと肩を揺らすと、フロイドはニタリと眦を細めた。
さすがにまずいと思ったのだろうグリムが、監督生の背中に飛び乗る。「離すんだゾ!」と首に巻きつく手をはたき落とそうと試みるが効果は無い。
「首細ぇ〜、マジで締め甲斐ねーじゃん」
回した指がくっついてしまいそうな細さにドン引きしたフロイドは、確かめるように握ったり開いたりする。
気道は辛うじて確保されているものの、緩やかな圧迫感と握り潰される不安から監督生は顔を顰めた。
「締めやすいの間違いでは……?」
「オレはもーっと締め応えあるほうがすきなの。すぐ潰れちゃったらおもしろくねーじゃん。小エビちゃんもそう思わね?」
「ちょっと……よく分からないですね」
「そっかぁ。小エビちゃんは潰されちゃう側だから分かるわけないよね、ごめんごめーん」
無邪気に笑って謝るフロイドに、監督生は何も言わずただ見詰める。見え見えの挑発に乗って絞められるより、気分屋の彼の飽きを待った方が早いと考えてのことだ。今はただ、我慢するのみだと自身に言い聞かせる。
「てかアザラシちゃん何? さっきからくすぐったいんだけど」
「ふなっ!?」
「はぁ……なんか飽きちゃった」
思ったより早くその時は来たようだった。
ため息混じりに呟いたフロイドは、首を掴んでいた手を下ろした。愉しげな表情はみるみる引っ込み、気怠げな雰囲気が上書きされていく。
「ジェイドのとこでも遊びに行こーっと。じゃあね〜小エビちゃん、アザラシちゃん」
ひらひらと手を振ると、左右に身体を揺らしながらフロイドは放浪の旅に出た。
――まるで嵐のようなひと時だった。監督生とグリムは揃って深い溜め息を吐き、自然とアイコンタクトをとる。
「子分、アイツちっともやる気がねぇんだゾ。言うだけ無駄なんじゃねえのか?」
「うーん……否定出来ないのが悲しいけど。
昨日の今日だし、もうちょっと頑張ってみるよ」
相棒の不安を払拭する為、今出来る精一杯の笑顔で答える。取り繕える表情とは裏腹に、隠しようのない不安が満潮の如く胸を満たしていた。
*
それからさらに三日が経った。進展は悲しいかな、もちろん無し。
だがこうして異世界に飛ばされ、危険な場面を何度も掻い潜ってきた監督生である。持ち前の気概で困難に立ち向かうのは朝飯前と言っていい。
例えそれが、呆気ない玉砕を重ねていても……だ。
「うわっ、また来たぁ。小エビちゃん暇すぎ」
――うんざりとため息をつかれる日も。
「あは。今、機嫌いーから締めてあげんね」
――人間ソーセージを作らんばかりに胴体を締め上げられる日も。
「はぁ? 汗くせーから近寄んないでくれる?」
……そう、冷ややかな目で言われる今だって。
今日も今日とて監督生は、中庭の木の上で寛ぐ彼を見つけ、何度と無く言ってきたことを繰り返す。そして彼の返事も同じくノー。それどころか残酷な言葉までぶつけられる始末だ。
確かに全力で探し回っていたせいで薄ら汗をかいてはいたが。そんなに臭いのだろうかと監督生は若干涙目になりながら、一緒に付いてきてくれたマブたちに訊く。デュースはすんすんと鼻を鳴らしてから「全然臭くないぞ」と首を傾げた。
「つーか、フロイド先輩行っちゃったけどいいわけ?」
「はっ!?」
エースの言葉を聞き見上げた木には、青々とした緑ばかりで人の姿形も無い。
――またやられた。監督生は脱力し、両手両膝を地面に付けた。
デュースの「熱中症か!?」という心配の言葉を背中に受けつつ項垂れていれば、グリムは「もう諦めたほうがいいんじゃねぇか?」と心配そうに監督生の顔を下から覗き込む。二人の優しさに感謝を述べながら、「私は大丈夫だよ」と些か頼りない笑顔を浮かべて立ち上がった。
諦める。グリムの言う通り、冷静に考えればそれが一番最良の手段だった。クルーウェルには力が及ばなかったと謝罪して、冷蔵庫の予算はほとぼりが冷めた頃に再度申請すればいい。
分かっていながら出来ないのは、監督生自身のつまらない意地と、捨てきれない僅かな希望のせいだった。
本当に鬱陶しいだけであれば実力行使でいくらでも拒絶できる。それなのに、絞められはしても怪我を負わせられたことが彼女にはまだなかった。当然、遊ばれているであろうことは考えるまでもないが。
図太い監督生はかえって都合が良いと判断し、外傷を負わない限り粘り続けてやろうと、密かに心に決めていた。
「協力はできねーけど。ま、頑張れよ」
ポン、と肩に置かれた手に振り返れば、白い歯を輝かせてサムズアップするエース。
――してくれないんかい、と突っ込むことは出来なかった。もし自身が逆の立場だったら恐らく同じことを言っていたはずだからだ。そう、だからイラッとするなんてお門違いだ。
監督生はにっこりと笑うと、エースの親指を渾身の力で握り締めるのだった。