♪ 嫌よ嫌よも好きと言え。
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(変な夢だったなぁ)
睡眠中にみる夢は変なものだと相場が決まっている。そのことを差し引いても今回の夢は妙なリアリティに溢れていた。
夢の中の自分は立ちながら無防備にも両目を伏せていた。かといって眠っているわけでもなく、意識ははっきりしている。証拠に視覚以外の四感は鮮明に誰かの気配を感じ取っていた。至近距離でかかる生暖かい吐息と、鼻腔を掠める爽やかなミントの香り。そして唇に押し付けられる柔らかな——。
「わあああああ!?」
瞬間、ユウは布団を跳ね除けて勢いよく起き上がっていた。バクバクと早鐘を打つ心臓を宥めつつ、眠気が吹き飛んだ目で辺りを見回す。悲しいかな、なんの変哲もないいつもの粗末な部屋だ。
(良かった、やっぱり夢だ)
侘しい部屋への悲壮感よりも、見慣れている光景の安心感のほうが今は勝っていた。ホッと安堵の息を吐く。
——そりゃそうだ、あんなことが現実に起こるわけがない。きっといつか見たドラマにでも影響されたに違いない。言い聞かせるかのようにうんうんと頷く。
「もう起きる時間なんだゾ……?」
すぐ隣から聞こえた寝ぼけた声。一緒に就寝していたグリムが、ベッドの上に座り込んで眠たそうに目を擦っていた。
「でっけぇ声で叫んでたけど、怖い夢でもみてたのか?」
「う~ん、そうかも? 忘れちゃった」
ふかふかの頭を一撫ですると、眠気に抗えなかったらしいグリムは「ったく人騒がせなんだゾ~……」とふにゃふにゃした声で言い残し、再び毛布に倒れ込む。アンモナイトのように丸まって眠る姿はネコそのものだ。微笑ましい気持ちで一瞥し、また起こしてしまわないよう静かにベッドから降りる。
所詮、夢は夢でしかない。気分を切り替えて、ユウはいつも通り身支度を整えていくことにした。昨日のうちに用意していた制服に着替え、歯磨きをしながら今日の予定を頭の中で確認する。
(魔法史のレポートは昨日のうちに纏めたし、忘れずに鞄に入れなきゃ。あとは……体力育成の授業は無かったから運動着は要らないな)
黙々と準備を進めれば、数十分もかからず完了した。しかし食堂の朝食にはまだまだ早い時間。二度寝をするには目もすっかり冴えてしまったし、それでなくとも遅刻の可能性を考えるととてもその気にはなれない。悩むこと数秒。コーヒーでも飲んで一息吐こう、という結論に至った。早速キッチンに移動し、ケトルに水を汲んで火にかける。沸騰を待つ間に、二個のマグカップと購買部で仕入れたインスタントコーヒーを棚から出す。一個はコーヒーの粉末のみ、もう一個は砂糖も入れて準備は完了だ。
ケトルがピーッと賑やかな音を立てると同時に、タッタッと階段を降りる足音が聞こえてくる。二度寝していたグリムが起きてきたのだろう。予想通り姿を現したグリムは、ひょいと軽い身のこなしでテーブルの上に着地すると、これ見よがしにマグカップを両手で掲げた。
「オレ様のはミルク多めにしてくれ」
「はいはい。火傷するからカップは置いてね」
両手からカップを取り上げるとご所望通りの砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを注ぐ。嬉しそうにカップを持ってとことこと歩くグリムの後ろ姿を見ながら、ユウもマグカップを持って談話室のソファに腰掛ける。
大きな窓から差し込む朝日。それを背に受け、熱々のブラックコーヒーを啜る。耳を澄ませれば歌を奏でるような鳥の囀りが聞こえてくる。早起きした日にしか味わえない贅沢な時間だ。隣に座るグリムは花より団子といった具合でコーヒーに夢中になっているようだが。猫舌の彼に合わせた温度にしたつもりだが、まだ少し熱かったらしい。一口飲む度にふーふーと湯気を吹いているのが横目に見えた。普段は生意気なことばかり言う口も、黙っているとネコみたいで愛らしい。
(口元……唇?)
ふわふわの毛で覆われた可愛らしい口が、一瞬だけ生々しいヒトの唇に変わり、元に戻る。言ってしまえばただの幻なのだが、それで片付けてしまうにはユウには既視感がありすぎた。あの唇の主は、今朝見た夢に出てきた『誰か』の正体に違いない。目を閉じていたのだからその色形など知りようがないはず。だがユウには妙な確信があった。微笑ましく眺めていた表情が緊張で強張る。
「子分? どうしたんだゾ?」
もう少しで掴めそうなのに、あと一歩が届かない。半ば意地になって凝視していると、マグカップをサイドテーブルに置いたグリムが徐々に遠ざかっていく。意味の分からない視線を浴び続け、さすがに居心地が悪くなったのだろう。そろそろと床に降りようとするグリムを、ユウはガッと両手で捕らえる。
「ふなぁ!? 離せー!」
ジタバタと抵抗する足を制しつつ、視線は口元から外さない。とはいえこのまま無策に見続けても思い出せるか怪しいところだ。何かアクションを起こさなねば、と考えたユウの脳内にひとつのアイデアが浮かぶ。
「ねぇグリム。ちゅーしよう」
「ハァ!? 絶対イヤ……ふなーっ顔を近づけるんじゃねぇ!」
「ツナ缶五缶……いや二十缶あげるから! お願い!」
「イヤなんだゾっ! 今はツナ缶よりオレ様の命のほうが大事だからな!」
両頬に肉球を押し付けられながら、ユウは愛らしい口へ唇を寄せようと試みる。対するグリムは必死の形相でユウの顔を遠ざけようとしていた。本能で命の危険を感じているのだろう、その身の毛は全身逆立っている。
「一瞬だけでいいから! 今なら何か思い出せそうなの!」
「絶対ロクな内容じゃねーんだゾッ! お断りだ!」
グリムの言うことはもっともだった。碌なものでないのは、ユウ自身も薄々気づいている。それでも、あの夢の内容は思い出さないといけない気がしたのだ。
「〜〜いい加減、諦めるんだゾッ!」
「いだっ!」
しばし膠着状態が続いたが、窮地に追い込まれたグリムの頭突きを額に受けこの戦いの決着がついた。小さい身体をしている割になかなかの石頭をお持ちだったらしい。正気に戻ったユウは、自身の額を両手でさすさすと労わる。
「食われちまうかと思ったゾ……」
安堵と呆れの混じったため息を吐き出すグリム。まるで怪物にでも襲われたかのような口ぶりは不本意だったが、強引な手段をとってしまったのは否定しようもない事実だ。
「すみませんでした……」
項垂れるように頭を下げると、腕を組んだグリムがやれやれとでも言いたげに首を振る。
「ったく。そんなにちゅーがしてぇなら、エースかデュースにでも頼めばいいじゃねーか」
「ヒト科はダメなんです」
魔獣にするのと、ヒト——ユウにしてみれば同族の異性——を相手にするのでは意味合いがだいぶ変わってきてしまう。だが魔獣の価値観ではそれは理解できないようだった。グリムは怪訝そうに顔を顰める。
「ならジャックはどうなんだ?」
「獣人属もダメ」
「……ユニーク魔法で狼になりゃいいんだゾ」
「どっちにしてもダメ。ていうかこんなこと頼んだ日には口利いてくれなくなっちゃうもん」
あのジャックに軽蔑の眼差しを向けられるのを想像し、思わず肩を震わせる。同級生である彼は、ユウと比較的近い価値観を持つ貴重な存在。そんな友人を失ってしまうのは、学園生活を送っていく上でかなりの痛手である。しかしユウの勝手な理屈など、グリムにとっては知ったことではないのだろう。
「なんなんだゾ、オマエ……」
もはや呆れて言葉も出ないらしい。グリムはやれやれとでも言いたげな顔で、サイドテーブルの上に移動し自分のマグカップを抱えた。
結局、夢の内容は分からず仕舞いだ。最初こそ別に思い出さなくていいかと諦めてもいたが、取っ掛かりを掴んだら全容を知りたくなってしまうというもの。それが困難であればあるほどに。難儀なものだと遠い目をしていると、再びコーヒーを啜り始めたグリムが「あっ」と声を上げた。
「獣人属がダメなら人魚の──」
「いっちばんダメッ!」
「ひぃっ!? まだ名前も言ってねぇんだゾ!」
咄嗟に大声が出てしまい、グリムのみならず本人も驚いた。両手で耳を塞ぐグリムに申し訳ないと思いつつ、何故こんなに必死になっているのかが引っかかった。そうして冷静に考え込む傍ら、心臓のほうはいやに早く脈打っている。まるで難解な事件の核心に迫っているかのようだ。
「人魚……あ、」
——完全に思い出した。思い出してしまった。夢と思い込んでいた、現実の出来事を。
「何がダメなの?」
「!?」
オンボロ寮にはユウとグリム、そして三人のゴーストしか住人がいない。だがその声はどの人物にも当てはまらなかった。先に声の主を見たグリムは、ただでさえ丸い目をさらに見開いている。答えを見る前から嫌な予感しかしなかった。
——どうか幻聴でありますように。ほぼ無いに等しい可能性を祈りながら、背後に立っている人物をユウはぎこちなく見上げる。
「フ、フロイド先輩……」
「なんでオメーがオンボロ寮の中にいるんだ?」
グリムが投げかけた疑問に、長身のその男は鋭い歯をチラつかせ笑う。
「窓から小エビちゃんの頭が見えたから。そんでー、二階の窓の鍵が開いてたから」
——戸締りはちゃんとしたほうがいいよぉ。忠告をしながら、フロイドはサイドテーブルに置いてあるマグカップを手に取る。それは私の、とユウが言い挟む間もなくカップに口をつけてしまった。
「うっわ、これ購買部で一番安いコーヒーじゃん」
げえ、と苦虫を嚙み潰したような顔で手に持ったマグカップを遠ざける。勝手に飲んだくせに酷い言いようである。寮の名に相応しくひもじい生活をしているのだから、ユウにとっては仕方のないことだ。それもこれもオンボロ寮の理念——節制の精神に基づく故だというのに(監督生権限で勝手に決めた)。
貶しながらもちゃっかり全部飲み干したらしい。カップは軽い音を立ててテーブルに置かれた。フロイドはソファーに座るユウの目の前に立つと、長い脚を折り曲げしゃがみ込む。
「それよりさぁ、人魚 の何がダメなわけ?」
その緩い口調とは裏腹に、鋭い目つきで見上げられる。まさか昨日の出来事を夢に見ただけでなく、思い出そうと躍起になっていたなんてご本人を前にして言えるはずがない。どうこの場を切り抜けるべきかユウが目を泳がせていると、隣のグリムがフンッと鼻を鳴らす。
「子分がいきなりオレ様にちゅーしたいとか言い出し——もがっ」
「あーっはは! なんでもないです! も〜グリムってば寝てる時に変な夢みちゃったみたいで! こらこらっ、ダメだぞっ」
余計なことを言おうとするグリムを抱き寄せ、すかさず口を手で塞ぐ。自身の罪を他人に擦り付けるのは心が痛むが、今回ばかりは許してもらおう。ユウは心の中で手を合わせた。もがもがと反論の声を上げようとするグリムを抑えつつ、肝心の相手の反応を窺い見る。
「ふーん」
興味があるのか無いのか。納得したのかしてないのか。はっきりと判別しかねる声色と表情で呟くフロイド。ただ、部屋いっぱいに居心地の悪い空気が漂っていることは確実だった。たらりと冷や汗がユウの背筋を流れる。
「オレ様は先に行ってるからな!」
「ちょっ、グリム……!」
するりとユウの腕から脱出した親分は、あっという間に談話室から走り去ってしまった。子分を見捨てるのは薄情だが、賢明な判断である。
「あ、じゃあ私も……」
ちょうど食堂も開く時間だし、自分もさっさと寮を出ることにしよう。ユウがいそいそとソファーから腰を上げようとした時だ。
「なぁに逃げようとしてんの?」
ダンッ、と体のすぐ横に弾丸の如き勢いで何かが突き刺さる。横目でそれが長い腕だと認識すると同時に、ぐいっと顎を掴まれ強制的に上を向かされる。陽の光に照らされ輝いているのに、その奥深くには仄暗さが潜んでいる瞳。ずっと見ていると引き摺り込まれてしまいそうだ。なのにどうしようもなく惹かれて目が離せない。これが俗に言う人魚に魅入られるということなのだろうか。
ユウがぼんやり思考を巡らせていると、柔らかく潤いを孕んだものが唇に触れる。夢、もとい昨日味わった感触とまったく同じ。強いて言うなら、今はコーヒーの香りが強いことぐらいだ。ちゅっと軽快な音が響く。
「今日はちゃんとリップ塗ってんね。えらいえらい」
「確かめる為にわざわざしたんですか」
撫でてるんだか押さえつけてるんだか分からない手を頭の上から退かしながら、ユウは抗議の意を唱えてフロイドを睨む。明らかに格下な小エビに睨まれたところでウツボの人魚である男が怯むはずもなく、「イライラしたからだけど?」とあっけらかんに答える。
「えっ。先輩ってイラついた人みんなにキスしたくなる人なんですか」
それなら少なくとも学園の三分の一の生徒とはしていてもおかしくはなかった。コロコロ気分が変わりやすい彼なら、そのうち全校生徒制覇だってあり得る。フランクな先輩は親しみやすいものだが、いくらなんでも程があるだろう。
「ちっげーし。小エビちゃんが一番イライラするからしたの」
舌打ち混じりにそう言うと、悲鳴を上げるソファーなどお構いなしにどかりと隣に腰掛ける。
「……私って、そんなにフロイド先輩をイラつかせるようなことしてます?」
「してる〜。つーか目に入るだけでなんかイラっとする」
「それは……私のことが嫌い、ということですか」
言いながらユウは俯き、落ち着かない気分を紛らわすように膝の上で指を揉む。
フロイドの発言をまとめれば、ユウの頭には自然とその結論が導き出された。どう考えたところでプラスの感情にはなりえないのは明らか。それなのに彼に正解を委ねる形で投げかけてしまった。まるで否定してくれるのを望んでいるかのよう。
「そーかもね」
もとから一縷の望みにも満たなかったかもしれない。それでもその望みすら絶たれれば、残るのは絶望しかない。ユウは目頭が熱くなるのを堪えるように、へらりとにやけているフロイドを全力で睨みつける。
「っ、じゃあ私も嫌いで──んぅ」
不意に腕を引かれ、ユウの体が傾く。抵抗を試みるも後頭部を掴まれれば、容易に引き寄せられてしまう。押し付けられる唇はただ黙れと言わんばかりだ。そこに感情なんて露ほども込められてない。ユウが苛立ちながら固い胸を叩くと、何の惜しげもなくあっさりと離れた。
「さっきから何なんですか、もう!」
「小エビちゃんがキライとか言うからじゃん」
「嫌われてる相手に同じ言葉を返して何が悪いんですか」
「オレはいいの〜。でも小エビちゃんはダメ」
「意味がわかりませんよ……それより、遅刻してしまうのでいい加減離して下さい」
「やだ。離したら逃げるでしょ」
当たり前だ、と言いかけた口がまた塞がれる。
なんで嫌いな相手にこんなことをするのか。なんで先に嫌いだと告げた張本人のほうが怒るのか。ユウにはフロイドの考えていることがわからなかった。ただ、意味の分からない理屈で捻じ伏せられるのも、一喜一憂する自身の感情に翻弄されるのも、もう限界だった。
ユウはギュッと目を瞑り、わずかに口を開けると——。
「……ってぇ」
拘束していた腕が緩んだ隙に距離をとる。痛みに顔を歪ませるフロイドの口角にはじわりと鮮血が滲んでいた。軽く噛みついて怯ませるつもりが、どうやら力加減を間違えたらしい。ユウは顔を青くする。しかし今馬鹿正直に謝罪を述べていれば再び捕まってしまうのは必至な上、怪我を負わせた報復まで待ち受けているだろう。
「ごめんなさいっ」
言うが早いか、ユウはソファーの下に置いていたカバンを引っ掴み一目散に走り出す。
苛立たしげな舌打ちを背中に受けた気がしたが、振り返ることはしなかった。
睡眠中にみる夢は変なものだと相場が決まっている。そのことを差し引いても今回の夢は妙なリアリティに溢れていた。
夢の中の自分は立ちながら無防備にも両目を伏せていた。かといって眠っているわけでもなく、意識ははっきりしている。証拠に視覚以外の四感は鮮明に誰かの気配を感じ取っていた。至近距離でかかる生暖かい吐息と、鼻腔を掠める爽やかなミントの香り。そして唇に押し付けられる柔らかな——。
「わあああああ!?」
瞬間、ユウは布団を跳ね除けて勢いよく起き上がっていた。バクバクと早鐘を打つ心臓を宥めつつ、眠気が吹き飛んだ目で辺りを見回す。悲しいかな、なんの変哲もないいつもの粗末な部屋だ。
(良かった、やっぱり夢だ)
侘しい部屋への悲壮感よりも、見慣れている光景の安心感のほうが今は勝っていた。ホッと安堵の息を吐く。
——そりゃそうだ、あんなことが現実に起こるわけがない。きっといつか見たドラマにでも影響されたに違いない。言い聞かせるかのようにうんうんと頷く。
「もう起きる時間なんだゾ……?」
すぐ隣から聞こえた寝ぼけた声。一緒に就寝していたグリムが、ベッドの上に座り込んで眠たそうに目を擦っていた。
「でっけぇ声で叫んでたけど、怖い夢でもみてたのか?」
「う~ん、そうかも? 忘れちゃった」
ふかふかの頭を一撫ですると、眠気に抗えなかったらしいグリムは「ったく人騒がせなんだゾ~……」とふにゃふにゃした声で言い残し、再び毛布に倒れ込む。アンモナイトのように丸まって眠る姿はネコそのものだ。微笑ましい気持ちで一瞥し、また起こしてしまわないよう静かにベッドから降りる。
所詮、夢は夢でしかない。気分を切り替えて、ユウはいつも通り身支度を整えていくことにした。昨日のうちに用意していた制服に着替え、歯磨きをしながら今日の予定を頭の中で確認する。
(魔法史のレポートは昨日のうちに纏めたし、忘れずに鞄に入れなきゃ。あとは……体力育成の授業は無かったから運動着は要らないな)
黙々と準備を進めれば、数十分もかからず完了した。しかし食堂の朝食にはまだまだ早い時間。二度寝をするには目もすっかり冴えてしまったし、それでなくとも遅刻の可能性を考えるととてもその気にはなれない。悩むこと数秒。コーヒーでも飲んで一息吐こう、という結論に至った。早速キッチンに移動し、ケトルに水を汲んで火にかける。沸騰を待つ間に、二個のマグカップと購買部で仕入れたインスタントコーヒーを棚から出す。一個はコーヒーの粉末のみ、もう一個は砂糖も入れて準備は完了だ。
ケトルがピーッと賑やかな音を立てると同時に、タッタッと階段を降りる足音が聞こえてくる。二度寝していたグリムが起きてきたのだろう。予想通り姿を現したグリムは、ひょいと軽い身のこなしでテーブルの上に着地すると、これ見よがしにマグカップを両手で掲げた。
「オレ様のはミルク多めにしてくれ」
「はいはい。火傷するからカップは置いてね」
両手からカップを取り上げるとご所望通りの砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを注ぐ。嬉しそうにカップを持ってとことこと歩くグリムの後ろ姿を見ながら、ユウもマグカップを持って談話室のソファに腰掛ける。
大きな窓から差し込む朝日。それを背に受け、熱々のブラックコーヒーを啜る。耳を澄ませれば歌を奏でるような鳥の囀りが聞こえてくる。早起きした日にしか味わえない贅沢な時間だ。隣に座るグリムは花より団子といった具合でコーヒーに夢中になっているようだが。猫舌の彼に合わせた温度にしたつもりだが、まだ少し熱かったらしい。一口飲む度にふーふーと湯気を吹いているのが横目に見えた。普段は生意気なことばかり言う口も、黙っているとネコみたいで愛らしい。
(口元……唇?)
ふわふわの毛で覆われた可愛らしい口が、一瞬だけ生々しいヒトの唇に変わり、元に戻る。言ってしまえばただの幻なのだが、それで片付けてしまうにはユウには既視感がありすぎた。あの唇の主は、今朝見た夢に出てきた『誰か』の正体に違いない。目を閉じていたのだからその色形など知りようがないはず。だがユウには妙な確信があった。微笑ましく眺めていた表情が緊張で強張る。
「子分? どうしたんだゾ?」
もう少しで掴めそうなのに、あと一歩が届かない。半ば意地になって凝視していると、マグカップをサイドテーブルに置いたグリムが徐々に遠ざかっていく。意味の分からない視線を浴び続け、さすがに居心地が悪くなったのだろう。そろそろと床に降りようとするグリムを、ユウはガッと両手で捕らえる。
「ふなぁ!? 離せー!」
ジタバタと抵抗する足を制しつつ、視線は口元から外さない。とはいえこのまま無策に見続けても思い出せるか怪しいところだ。何かアクションを起こさなねば、と考えたユウの脳内にひとつのアイデアが浮かぶ。
「ねぇグリム。ちゅーしよう」
「ハァ!? 絶対イヤ……ふなーっ顔を近づけるんじゃねぇ!」
「ツナ缶五缶……いや二十缶あげるから! お願い!」
「イヤなんだゾっ! 今はツナ缶よりオレ様の命のほうが大事だからな!」
両頬に肉球を押し付けられながら、ユウは愛らしい口へ唇を寄せようと試みる。対するグリムは必死の形相でユウの顔を遠ざけようとしていた。本能で命の危険を感じているのだろう、その身の毛は全身逆立っている。
「一瞬だけでいいから! 今なら何か思い出せそうなの!」
「絶対ロクな内容じゃねーんだゾッ! お断りだ!」
グリムの言うことはもっともだった。碌なものでないのは、ユウ自身も薄々気づいている。それでも、あの夢の内容は思い出さないといけない気がしたのだ。
「〜〜いい加減、諦めるんだゾッ!」
「いだっ!」
しばし膠着状態が続いたが、窮地に追い込まれたグリムの頭突きを額に受けこの戦いの決着がついた。小さい身体をしている割になかなかの石頭をお持ちだったらしい。正気に戻ったユウは、自身の額を両手でさすさすと労わる。
「食われちまうかと思ったゾ……」
安堵と呆れの混じったため息を吐き出すグリム。まるで怪物にでも襲われたかのような口ぶりは不本意だったが、強引な手段をとってしまったのは否定しようもない事実だ。
「すみませんでした……」
項垂れるように頭を下げると、腕を組んだグリムがやれやれとでも言いたげに首を振る。
「ったく。そんなにちゅーがしてぇなら、エースかデュースにでも頼めばいいじゃねーか」
「ヒト科はダメなんです」
魔獣にするのと、ヒト——ユウにしてみれば同族の異性——を相手にするのでは意味合いがだいぶ変わってきてしまう。だが魔獣の価値観ではそれは理解できないようだった。グリムは怪訝そうに顔を顰める。
「ならジャックはどうなんだ?」
「獣人属もダメ」
「……ユニーク魔法で狼になりゃいいんだゾ」
「どっちにしてもダメ。ていうかこんなこと頼んだ日には口利いてくれなくなっちゃうもん」
あのジャックに軽蔑の眼差しを向けられるのを想像し、思わず肩を震わせる。同級生である彼は、ユウと比較的近い価値観を持つ貴重な存在。そんな友人を失ってしまうのは、学園生活を送っていく上でかなりの痛手である。しかしユウの勝手な理屈など、グリムにとっては知ったことではないのだろう。
「なんなんだゾ、オマエ……」
もはや呆れて言葉も出ないらしい。グリムはやれやれとでも言いたげな顔で、サイドテーブルの上に移動し自分のマグカップを抱えた。
結局、夢の内容は分からず仕舞いだ。最初こそ別に思い出さなくていいかと諦めてもいたが、取っ掛かりを掴んだら全容を知りたくなってしまうというもの。それが困難であればあるほどに。難儀なものだと遠い目をしていると、再びコーヒーを啜り始めたグリムが「あっ」と声を上げた。
「獣人属がダメなら人魚の──」
「いっちばんダメッ!」
「ひぃっ!? まだ名前も言ってねぇんだゾ!」
咄嗟に大声が出てしまい、グリムのみならず本人も驚いた。両手で耳を塞ぐグリムに申し訳ないと思いつつ、何故こんなに必死になっているのかが引っかかった。そうして冷静に考え込む傍ら、心臓のほうはいやに早く脈打っている。まるで難解な事件の核心に迫っているかのようだ。
「人魚……あ、」
——完全に思い出した。思い出してしまった。夢と思い込んでいた、現実の出来事を。
「何がダメなの?」
「!?」
オンボロ寮にはユウとグリム、そして三人のゴーストしか住人がいない。だがその声はどの人物にも当てはまらなかった。先に声の主を見たグリムは、ただでさえ丸い目をさらに見開いている。答えを見る前から嫌な予感しかしなかった。
——どうか幻聴でありますように。ほぼ無いに等しい可能性を祈りながら、背後に立っている人物をユウはぎこちなく見上げる。
「フ、フロイド先輩……」
「なんでオメーがオンボロ寮の中にいるんだ?」
グリムが投げかけた疑問に、長身のその男は鋭い歯をチラつかせ笑う。
「窓から小エビちゃんの頭が見えたから。そんでー、二階の窓の鍵が開いてたから」
——戸締りはちゃんとしたほうがいいよぉ。忠告をしながら、フロイドはサイドテーブルに置いてあるマグカップを手に取る。それは私の、とユウが言い挟む間もなくカップに口をつけてしまった。
「うっわ、これ購買部で一番安いコーヒーじゃん」
げえ、と苦虫を嚙み潰したような顔で手に持ったマグカップを遠ざける。勝手に飲んだくせに酷い言いようである。寮の名に相応しくひもじい生活をしているのだから、ユウにとっては仕方のないことだ。それもこれもオンボロ寮の理念——節制の精神に基づく故だというのに(監督生権限で勝手に決めた)。
貶しながらもちゃっかり全部飲み干したらしい。カップは軽い音を立ててテーブルに置かれた。フロイドはソファーに座るユウの目の前に立つと、長い脚を折り曲げしゃがみ込む。
「それよりさぁ、
その緩い口調とは裏腹に、鋭い目つきで見上げられる。まさか昨日の出来事を夢に見ただけでなく、思い出そうと躍起になっていたなんてご本人を前にして言えるはずがない。どうこの場を切り抜けるべきかユウが目を泳がせていると、隣のグリムがフンッと鼻を鳴らす。
「子分がいきなりオレ様にちゅーしたいとか言い出し——もがっ」
「あーっはは! なんでもないです! も〜グリムってば寝てる時に変な夢みちゃったみたいで! こらこらっ、ダメだぞっ」
余計なことを言おうとするグリムを抱き寄せ、すかさず口を手で塞ぐ。自身の罪を他人に擦り付けるのは心が痛むが、今回ばかりは許してもらおう。ユウは心の中で手を合わせた。もがもがと反論の声を上げようとするグリムを抑えつつ、肝心の相手の反応を窺い見る。
「ふーん」
興味があるのか無いのか。納得したのかしてないのか。はっきりと判別しかねる声色と表情で呟くフロイド。ただ、部屋いっぱいに居心地の悪い空気が漂っていることは確実だった。たらりと冷や汗がユウの背筋を流れる。
「オレ様は先に行ってるからな!」
「ちょっ、グリム……!」
するりとユウの腕から脱出した親分は、あっという間に談話室から走り去ってしまった。子分を見捨てるのは薄情だが、賢明な判断である。
「あ、じゃあ私も……」
ちょうど食堂も開く時間だし、自分もさっさと寮を出ることにしよう。ユウがいそいそとソファーから腰を上げようとした時だ。
「なぁに逃げようとしてんの?」
ダンッ、と体のすぐ横に弾丸の如き勢いで何かが突き刺さる。横目でそれが長い腕だと認識すると同時に、ぐいっと顎を掴まれ強制的に上を向かされる。陽の光に照らされ輝いているのに、その奥深くには仄暗さが潜んでいる瞳。ずっと見ていると引き摺り込まれてしまいそうだ。なのにどうしようもなく惹かれて目が離せない。これが俗に言う人魚に魅入られるということなのだろうか。
ユウがぼんやり思考を巡らせていると、柔らかく潤いを孕んだものが唇に触れる。夢、もとい昨日味わった感触とまったく同じ。強いて言うなら、今はコーヒーの香りが強いことぐらいだ。ちゅっと軽快な音が響く。
「今日はちゃんとリップ塗ってんね。えらいえらい」
「確かめる為にわざわざしたんですか」
撫でてるんだか押さえつけてるんだか分からない手を頭の上から退かしながら、ユウは抗議の意を唱えてフロイドを睨む。明らかに格下な小エビに睨まれたところでウツボの人魚である男が怯むはずもなく、「イライラしたからだけど?」とあっけらかんに答える。
「えっ。先輩ってイラついた人みんなにキスしたくなる人なんですか」
それなら少なくとも学園の三分の一の生徒とはしていてもおかしくはなかった。コロコロ気分が変わりやすい彼なら、そのうち全校生徒制覇だってあり得る。フランクな先輩は親しみやすいものだが、いくらなんでも程があるだろう。
「ちっげーし。小エビちゃんが一番イライラするからしたの」
舌打ち混じりにそう言うと、悲鳴を上げるソファーなどお構いなしにどかりと隣に腰掛ける。
「……私って、そんなにフロイド先輩をイラつかせるようなことしてます?」
「してる〜。つーか目に入るだけでなんかイラっとする」
「それは……私のことが嫌い、ということですか」
言いながらユウは俯き、落ち着かない気分を紛らわすように膝の上で指を揉む。
フロイドの発言をまとめれば、ユウの頭には自然とその結論が導き出された。どう考えたところでプラスの感情にはなりえないのは明らか。それなのに彼に正解を委ねる形で投げかけてしまった。まるで否定してくれるのを望んでいるかのよう。
「そーかもね」
もとから一縷の望みにも満たなかったかもしれない。それでもその望みすら絶たれれば、残るのは絶望しかない。ユウは目頭が熱くなるのを堪えるように、へらりとにやけているフロイドを全力で睨みつける。
「っ、じゃあ私も嫌いで──んぅ」
不意に腕を引かれ、ユウの体が傾く。抵抗を試みるも後頭部を掴まれれば、容易に引き寄せられてしまう。押し付けられる唇はただ黙れと言わんばかりだ。そこに感情なんて露ほども込められてない。ユウが苛立ちながら固い胸を叩くと、何の惜しげもなくあっさりと離れた。
「さっきから何なんですか、もう!」
「小エビちゃんがキライとか言うからじゃん」
「嫌われてる相手に同じ言葉を返して何が悪いんですか」
「オレはいいの〜。でも小エビちゃんはダメ」
「意味がわかりませんよ……それより、遅刻してしまうのでいい加減離して下さい」
「やだ。離したら逃げるでしょ」
当たり前だ、と言いかけた口がまた塞がれる。
なんで嫌いな相手にこんなことをするのか。なんで先に嫌いだと告げた張本人のほうが怒るのか。ユウにはフロイドの考えていることがわからなかった。ただ、意味の分からない理屈で捻じ伏せられるのも、一喜一憂する自身の感情に翻弄されるのも、もう限界だった。
ユウはギュッと目を瞑り、わずかに口を開けると——。
「……ってぇ」
拘束していた腕が緩んだ隙に距離をとる。痛みに顔を歪ませるフロイドの口角にはじわりと鮮血が滲んでいた。軽く噛みついて怯ませるつもりが、どうやら力加減を間違えたらしい。ユウは顔を青くする。しかし今馬鹿正直に謝罪を述べていれば再び捕まってしまうのは必至な上、怪我を負わせた報復まで待ち受けているだろう。
「ごめんなさいっ」
言うが早いか、ユウはソファーの下に置いていたカバンを引っ掴み一目散に走り出す。
苛立たしげな舌打ちを背中に受けた気がしたが、振り返ることはしなかった。
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