♪ 嫌よ嫌よも好きと言え。
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彼の監督生は、自身の運の悪さには自信があった。
学園で起こる寮長のオーバーブロット事件の渦中には必ず監督生の存在があるし、その相棒もまた奔放すぎる性格故に大小問わず厄介事を招き寄せてはトラブルメーカーの名を縦にしている。
勿論、それらは監督生の本意とするところでは無い。
魔法学校として名の知れたこの男子校で、魔法が使えない、異世界から来た、おまけに女性、というリスクの欲張りアンハッピーセットを引き当ててしまった彼、いや彼女である。学園長の気遣い(もとい、事勿れ主義)の下、魔法が使えない人間以外の事柄は口止めまでさせられているのだ。故に、可能な限り不必要な面倒事は避けたいと考えてしまうのも当然だろう。
その意思の強さは、第一ボタンまで閉じ規範的に着用する男子用の制服と、胸を潰す為装着しているプロテクターにも示されている。
そうして今もまた、監督生はトラブルの素を避けるべく小走りで廊下を移動していた。生きている以上は避けようのない生理現象を膀胱に抱えて。
残念ながら立ったまま用を足すなんて器用なことは出来ない上、仁王立ちする男子の姿を横目に個室に忍び込むのは、余程の非常事態でない限り勘弁被りたかった。
その為、監督生は日頃から人の立ち入りが少ない学園長室の近くにあるトイレを愛用している。難点があるとすれば、一年の教室から結構な距離があることだ。魔法が使えたら瞬間移動でもしたいところだが、なかなかどうして現実はそうもいかない。
原始的に己の両足をせかせかと動かし、曲がり角で華麗にターンを決めた。
――その時だった。
明るかった視界が黒に包まれたかと思えば、ふわっとした感触が顔面を襲う。そう、それは例えるならば動物の毛並みのような。
「随分と行儀が悪いな。仔犬」
「ぎゃっ」
ピシィッ!と鼓膜に喝を入れるような破裂音がすぐ傍で響き、監督生は慌てて一歩後退り姿勢を正す。
あわあわと震える口で「クルーウェル先生」と呟けば、その人は教鞭を掌の上で叩きながら端麗な顔を顰めた。
監督生の担任でもある彼は、勤勉な生徒には懇意に教えてくれる親しみ易さがあるが、不真面目な者には躾という名の教育的指導を施すことは生徒たちの中で知らぬ者はいない。
今回の失態も躾に値するということは、監督生にも直ぐに察することができた。
「す、すみませんでした!」
迷うことなく直角に腰を折ったその頭上では、フン、と先生が鼻であしらう。
「本来であればクルーウェル様直々に躾をしてやりたいところだが、今は――」
監督生が顔を上げると、彼は既に前に向き直っていた。鋭い眼が自身から逸らされ、安堵の息を吐く。
しかし肝が冷えたせいだろう、膀胱が一層の悲鳴を訴え始めていた。危機感を抱いた監督生は「失礼します」と恐る恐るクルーウェルの横を通り抜けようと一歩踏み出すが、
「……ステイ」
侵入を阻む遮断機のように、白黒の教鞭が監督生の胸の前に横たわる。それを打ち破る蛮勇さは持ち合わせていなかった仔犬は、大人しく足を揃えて気をつけをした。
「俺は今、ある駄犬の躾の真最中だった」
「は、はい……」
「だがお前がぶつかってきたことで俺の気が逸れ、その隙に駄犬が逃げてしまった……この落とし前、どうつけてくれるつもりだ?」
「ヒッ」
ギロリと見下げられた目に、身体を縮み上がらせる。怒りオーラを一身に浴び、頭の先から血の気がひいていく。
落とし前、と言われても。まさか指を切り落として差し出すわけにもいかず、困り果てた監督生は改めて謝罪の言葉と共に前屈する勢いで頭を下げる。
「本当に反省をしているなら態度で示すことだな。……顔を上げろ」
言われた通りにすれば、眼前には暖簾の如く一枚の紙が下げられていた。おずおずと手を伸ばし受け取ると、書かれた文字に目を滑らせる。そこには魔法薬学のレポート課題が記されているようだった。しかし掲げられているテーマはまだ授業で習った覚えの無いものだ。
罰として与えられるのだから難しいのも当然か。肩を落としながらも監督生はこれで先生の怒りを鎮められるなら安いものだ、と気持ちを立て直す。それよりも今は、真っ先に解決しなければならない生理的問題が我が身に起きているのだから。
紙を握り締めた監督生がそそくさと退散しようとすれば、またしてもクルーウェルの〝待て〟がかかる。
「おい、誰が仔犬の課題だと言った?」
「え? 違うんですか?」
「当然だ。教えていない単元を課題に選ぶほど俺も悪魔じゃない」
今の私は近いものには見えます、とは言えるわけもなく。何故か悪い笑顔を浮かべるクルーウェルに、監督生は背中に悪寒を走らせた。
「お前に渡したその課題は逃げた駄犬に課したものだ」
「ああ、なるほど! ではこの紙は責任持ってその方に届け――」
「それも違う。話を最後まで聞け。届けるだけが仔犬の役目じゃないと言っている」
「え?」
「駄犬が課題を提出するまで、しっかりお前が監督しろ」
「ええぇっ!?」
躾の邪魔をしたとはいえ、何故自分がそこまでしなくてはいけないんだ。監督生が言いかけたのを、鋭く空気を裂く音が遮る。
「嫌なら断っても構わない。その代わり、仔犬が出していた予算申請は俺の独断で却下する」
「なっ……そんなぁ」
――なんという横暴だろうか。監督生はその場で膝を付きたい衝動は抑えたが、絶望感までは制御しきれず情けない声を漏らす。
クルーウェルの言う件の申請は、オンボロ寮の冷蔵庫を新調する為に監督生が出したものだ。
暮らし始めてから現在までお世話になっている冷蔵庫は、よく言えばレトロだがその実ガラクタ一歩手前である。証拠に、とうの昔に製造はおろか修理する為の部品も生産が終了している、というのを機械整備の得意なデュースから教えてもらっていた。
それでも監督生は不調を訴える度に「よしよし、頑張れ頑張れ」と励ましの声をかけつつ、電源を入れ直したりして誤魔化しながら何とか使っていた。だがそれもいよいよ限界まで来ている。となれば残された道はひとつ。新品に買い替えることだ。これから迎える季節を考えれば、冷蔵庫の存在は必須も必須。できる限り早めに申請を通したかったところにこの有様である。
天秤にかけるまでもなく、監督生は泣く泣く「やらせていただきます」と声を振り絞った。
「グッボーイ、いい返事だ」
大きな手が頭を軽く撫で付ける。監督生は恨めしく思いながらも黙って受け入れた。
仔犬のしおらしい様子を見届け、一度は毛皮のコートを翻したクルーウェルだったが「ああ、言い忘れていたが」とその足を止めた。
「〝課題を提出しなければ単位はやらない〟とフロイド・リーチにしっかり伝えておけ。いいな?」
「はぁい…………え?」
後ろ手に手を振る背中は、今度こそ振り返ることなく立ち去った。残された監督生は呆然とそこに立ち尽くす。頭の中では先生に告げられた言葉――厳密に言えばその一部を反芻していた。
フロイド・リーチ。その名を持つ生徒は一人しかいない。見てくれであれば似た人物はいるものの、どちらにせよ今の監督生を憂鬱な気持ちにしかしなかった。
オクタヴィネル寮の気分屋のヤバいやつ、というのが監督生から見た彼の印象だ。むしろ学園の共通認識と言っても過言ではない。持ち前の長い手足を活かした絞め技の威力は相当なもので、受けた者はもれなく死兆星を拝めると評判でもある。
そんな人物にレポート課題を提出させる使命、もとい罰を与えられた監督生。まだ自らレポートを作成するほうが億万倍マシなのは間違いない。
――恐らく、先生は私を過労死させるつもりなのだろう。念願のトイレに辿り着いても、心の底からスッキリした気分にはなれなかった。
*
「ま、ジゴージトクってやつだな」
夕飯のツナ缶を口いっぱいに詰めたグリムは、談話室のソファの上で丸まり不貞腐れている監督生に言い放つ。
「グリム親分〜可哀想な子分の代わりにお願いしますよ〜」
「何言ってんだ? オレ様は関係ねーんだゾ」
「子分の尻拭いは親分の役目ってよく言うじゃん。ね? お願い!」
この通り! と言わんばかりに両手を合わせる監督生を、グリムはジト目で眺める。
「フン、生憎オレ様は子分を甘やかさねえ主義なんだ。それに毎日オレ様のヒンコーホーセーな背中を見てる癖に、しょうもねえ面倒事を起こした子分が悪いんだゾ」
「品行方正な人はテーブルに座ってツナ缶食べないもん……」
「ふなっ!?」
小さな身体をギクリと揺らしたグリムは、ツナ缶を両手に抱えてそそくさとテーブルから一人がけの椅子に移る。「素直で可愛い親分だなぁ」と少しだけ癒された監督生は、横たえていた身体を起こして座り直した。
「わざわざ馬鹿正直にフロイドに頼まなくても、オマエが課題をやっちまえばいいじゃねえか」
「それも考えたけど無理。課題の内容はかなり難しそうだったし、もし出来たとしても先生にバレたら今後一切日の目を見られなくなっちゃうよ」
「それは困るんだゾ! オレ様のツナ缶の補充が出来なくなっちまう」
「私の存在ってツナ缶より下なんだ……」
衝撃の事実を知り、ズルズルとお尻を滑らせた監督生は天井を仰ぐ。雨漏りの跡がある種のアートのように点在する様は、ただでさえ落ち込んでいる気持ちをより深く沈み込ませた。
「いいよもう……冷蔵庫が壊れてロクに食事も食べられなくなった私は誰に気付かれることなくひっそりとこの世から去っていくんだ……」
「発想が飛躍しすぎなんだゾ」
ツナ缶を食べ終えたグリムは「ごちそーさま」と手を合わせる。モンスターの姿とは不釣り合いな人間らしいこの挨拶は、監督生と過ごすうちに身についた習慣だ。
猫特有のしなやかな動作で椅子から飛び降りると、ソファの空いているスペースへとその身を移した。しかし隣の子分は依然として天井一点を見つめたまま動かない。相当に参っているのは、異なる種族であるグリムにも察することができた。尻尾を下の方でユラユラと揺らし、小さな前足を躊躇いがちにそっと監督生の膝に置く。
暖かい感触に気付いた監督生は、上にばかり向けていた視線を心配そうに窺うグリムにうつした。
憎まれ口を言ったり、食い気が盛んでトラブルばかり巻き起こす手の焼ける相棒。だがいまいち憎めないのは彼のこういったところがあるからだ。本人が知らないだけで、温かい心をちゃんと持っている。それがどんなに歪で不格好な形をしていても、監督生にはとても尊く好ましかった。
「ヒッヒッヒ、なにを水臭いこと言ってるんだい?」
「ふなぁっ!?」
二人の間に割って入ってきたのは、ふくふくとした白い影。不意を突かれたグリムは驚いた拍子に後ろに転がり、監督生も危うくソファから滑り落ちてしまうところだった。
二人が何事かと体勢を整えて前を向けば、悪戯好きなゴーストたちが三人揃い、盛大な驚きようを笑っていた。
「やい、ゴースト! いきなり出てくんじゃねえ! 危うくオレ様のキュートな頭にタンコブが出来るとこだったじゃねぇか!」
「それはすまないねぇ。でもお前さんが薄情なことを言うものだから、こりゃいかんと思って慌ててしまったんだ」
「薄情?」
監督生が復唱すれば、ゴーストはにっこりと微笑んで頷いた。
「死んでしまったらワシらと一緒に暮せばいいじゃないか」
「ああ、そうしたら俺たちは本当のゴースト仲間だな。君ならいつでも大歓迎さ」
三人は『welcome!』と書かれた横断幕を広げて見せる。幕は煤けてところどころ破れており、作ってからの長い年月を感じさせた。
一体いつから準備していたのやらと呆れてため息を吐くグリム。同じ反応を期待して隣を見れば、呆れるどころか感涙しながら口を抑える監督生が居た。
「なんて優しいゴースト……いや、ゴースト先輩!」
「そりゃあいいなぁ。先輩なんて呼ばれるのは何十年ぶりだろう」
監督生はゴーストの手を握ると(透けているが)、きらきらとその顔を輝かせた。さっきまでの落ち込みようなどすっかり形を潜めている。心配して損したとばかりにグリムは脱力した。そんな相棒を尻目に嬉々として笑っていた監督生は、はたと大事なことに気づき、眉尻を力なく下げた。
「でも、私がゴーストになっちゃったらグリムが一人になっちゃうね……」
オンボロ寮に一人残されるグリムを憂い、気遣わしげに覗き見る。
「へっ、うるさいのが居なくなってせいせいするんだゾ」
「またまたぁ。寂しがらなくても大丈夫だよ。私が夜通しグリムの耳元で〝ツナ缶寄越せぇ〜〟って呟いてあげるから」
「ただの安眠妨害じゃねーか!」
両手を上げて抗議するグリムに、監督生とゴーストたちは楽しげな笑い声を上げる。すっかりガラ空きになったグリムの脇に手を差し込んだ監督生は、そのまま腕の中に抱きしめた。最初は「暑苦しいんだゾ!」と抵抗していた彼だったが、摺り寄せられる頬の温もりに、尖らせていた気持ちが否応なしに丸くなってしまう。
「ありがとうね、グリム」
フン、とそっぽを向きながらも尻尾はぶんぶんとご機嫌に揺れる。
この日の夜、寄り添うように眠った一人と一匹。その表情がとても穏やかだったことは、三人のゴーストだけが知っている。
そう。明くる日から始まる壮絶な戦いなど、この時は想像もしていなかったのである――。
学園で起こる寮長のオーバーブロット事件の渦中には必ず監督生の存在があるし、その相棒もまた奔放すぎる性格故に大小問わず厄介事を招き寄せてはトラブルメーカーの名を縦にしている。
勿論、それらは監督生の本意とするところでは無い。
魔法学校として名の知れたこの男子校で、魔法が使えない、異世界から来た、おまけに女性、というリスクの欲張りアンハッピーセットを引き当ててしまった彼、いや彼女である。学園長の気遣い(もとい、事勿れ主義)の下、魔法が使えない人間以外の事柄は口止めまでさせられているのだ。故に、可能な限り不必要な面倒事は避けたいと考えてしまうのも当然だろう。
その意思の強さは、第一ボタンまで閉じ規範的に着用する男子用の制服と、胸を潰す為装着しているプロテクターにも示されている。
そうして今もまた、監督生はトラブルの素を避けるべく小走りで廊下を移動していた。生きている以上は避けようのない生理現象を膀胱に抱えて。
残念ながら立ったまま用を足すなんて器用なことは出来ない上、仁王立ちする男子の姿を横目に個室に忍び込むのは、余程の非常事態でない限り勘弁被りたかった。
その為、監督生は日頃から人の立ち入りが少ない学園長室の近くにあるトイレを愛用している。難点があるとすれば、一年の教室から結構な距離があることだ。魔法が使えたら瞬間移動でもしたいところだが、なかなかどうして現実はそうもいかない。
原始的に己の両足をせかせかと動かし、曲がり角で華麗にターンを決めた。
――その時だった。
明るかった視界が黒に包まれたかと思えば、ふわっとした感触が顔面を襲う。そう、それは例えるならば動物の毛並みのような。
「随分と行儀が悪いな。仔犬」
「ぎゃっ」
ピシィッ!と鼓膜に喝を入れるような破裂音がすぐ傍で響き、監督生は慌てて一歩後退り姿勢を正す。
あわあわと震える口で「クルーウェル先生」と呟けば、その人は教鞭を掌の上で叩きながら端麗な顔を顰めた。
監督生の担任でもある彼は、勤勉な生徒には懇意に教えてくれる親しみ易さがあるが、不真面目な者には躾という名の教育的指導を施すことは生徒たちの中で知らぬ者はいない。
今回の失態も躾に値するということは、監督生にも直ぐに察することができた。
「す、すみませんでした!」
迷うことなく直角に腰を折ったその頭上では、フン、と先生が鼻であしらう。
「本来であればクルーウェル様直々に躾をしてやりたいところだが、今は――」
監督生が顔を上げると、彼は既に前に向き直っていた。鋭い眼が自身から逸らされ、安堵の息を吐く。
しかし肝が冷えたせいだろう、膀胱が一層の悲鳴を訴え始めていた。危機感を抱いた監督生は「失礼します」と恐る恐るクルーウェルの横を通り抜けようと一歩踏み出すが、
「……ステイ」
侵入を阻む遮断機のように、白黒の教鞭が監督生の胸の前に横たわる。それを打ち破る蛮勇さは持ち合わせていなかった仔犬は、大人しく足を揃えて気をつけをした。
「俺は今、ある駄犬の躾の真最中だった」
「は、はい……」
「だがお前がぶつかってきたことで俺の気が逸れ、その隙に駄犬が逃げてしまった……この落とし前、どうつけてくれるつもりだ?」
「ヒッ」
ギロリと見下げられた目に、身体を縮み上がらせる。怒りオーラを一身に浴び、頭の先から血の気がひいていく。
落とし前、と言われても。まさか指を切り落として差し出すわけにもいかず、困り果てた監督生は改めて謝罪の言葉と共に前屈する勢いで頭を下げる。
「本当に反省をしているなら態度で示すことだな。……顔を上げろ」
言われた通りにすれば、眼前には暖簾の如く一枚の紙が下げられていた。おずおずと手を伸ばし受け取ると、書かれた文字に目を滑らせる。そこには魔法薬学のレポート課題が記されているようだった。しかし掲げられているテーマはまだ授業で習った覚えの無いものだ。
罰として与えられるのだから難しいのも当然か。肩を落としながらも監督生はこれで先生の怒りを鎮められるなら安いものだ、と気持ちを立て直す。それよりも今は、真っ先に解決しなければならない生理的問題が我が身に起きているのだから。
紙を握り締めた監督生がそそくさと退散しようとすれば、またしてもクルーウェルの〝待て〟がかかる。
「おい、誰が仔犬の課題だと言った?」
「え? 違うんですか?」
「当然だ。教えていない単元を課題に選ぶほど俺も悪魔じゃない」
今の私は近いものには見えます、とは言えるわけもなく。何故か悪い笑顔を浮かべるクルーウェルに、監督生は背中に悪寒を走らせた。
「お前に渡したその課題は逃げた駄犬に課したものだ」
「ああ、なるほど! ではこの紙は責任持ってその方に届け――」
「それも違う。話を最後まで聞け。届けるだけが仔犬の役目じゃないと言っている」
「え?」
「駄犬が課題を提出するまで、しっかりお前が監督しろ」
「ええぇっ!?」
躾の邪魔をしたとはいえ、何故自分がそこまでしなくてはいけないんだ。監督生が言いかけたのを、鋭く空気を裂く音が遮る。
「嫌なら断っても構わない。その代わり、仔犬が出していた予算申請は俺の独断で却下する」
「なっ……そんなぁ」
――なんという横暴だろうか。監督生はその場で膝を付きたい衝動は抑えたが、絶望感までは制御しきれず情けない声を漏らす。
クルーウェルの言う件の申請は、オンボロ寮の冷蔵庫を新調する為に監督生が出したものだ。
暮らし始めてから現在までお世話になっている冷蔵庫は、よく言えばレトロだがその実ガラクタ一歩手前である。証拠に、とうの昔に製造はおろか修理する為の部品も生産が終了している、というのを機械整備の得意なデュースから教えてもらっていた。
それでも監督生は不調を訴える度に「よしよし、頑張れ頑張れ」と励ましの声をかけつつ、電源を入れ直したりして誤魔化しながら何とか使っていた。だがそれもいよいよ限界まで来ている。となれば残された道はひとつ。新品に買い替えることだ。これから迎える季節を考えれば、冷蔵庫の存在は必須も必須。できる限り早めに申請を通したかったところにこの有様である。
天秤にかけるまでもなく、監督生は泣く泣く「やらせていただきます」と声を振り絞った。
「グッボーイ、いい返事だ」
大きな手が頭を軽く撫で付ける。監督生は恨めしく思いながらも黙って受け入れた。
仔犬のしおらしい様子を見届け、一度は毛皮のコートを翻したクルーウェルだったが「ああ、言い忘れていたが」とその足を止めた。
「〝課題を提出しなければ単位はやらない〟とフロイド・リーチにしっかり伝えておけ。いいな?」
「はぁい…………え?」
後ろ手に手を振る背中は、今度こそ振り返ることなく立ち去った。残された監督生は呆然とそこに立ち尽くす。頭の中では先生に告げられた言葉――厳密に言えばその一部を反芻していた。
フロイド・リーチ。その名を持つ生徒は一人しかいない。見てくれであれば似た人物はいるものの、どちらにせよ今の監督生を憂鬱な気持ちにしかしなかった。
オクタヴィネル寮の気分屋のヤバいやつ、というのが監督生から見た彼の印象だ。むしろ学園の共通認識と言っても過言ではない。持ち前の長い手足を活かした絞め技の威力は相当なもので、受けた者はもれなく死兆星を拝めると評判でもある。
そんな人物にレポート課題を提出させる使命、もとい罰を与えられた監督生。まだ自らレポートを作成するほうが億万倍マシなのは間違いない。
――恐らく、先生は私を過労死させるつもりなのだろう。念願のトイレに辿り着いても、心の底からスッキリした気分にはなれなかった。
*
「ま、ジゴージトクってやつだな」
夕飯のツナ缶を口いっぱいに詰めたグリムは、談話室のソファの上で丸まり不貞腐れている監督生に言い放つ。
「グリム親分〜可哀想な子分の代わりにお願いしますよ〜」
「何言ってんだ? オレ様は関係ねーんだゾ」
「子分の尻拭いは親分の役目ってよく言うじゃん。ね? お願い!」
この通り! と言わんばかりに両手を合わせる監督生を、グリムはジト目で眺める。
「フン、生憎オレ様は子分を甘やかさねえ主義なんだ。それに毎日オレ様のヒンコーホーセーな背中を見てる癖に、しょうもねえ面倒事を起こした子分が悪いんだゾ」
「品行方正な人はテーブルに座ってツナ缶食べないもん……」
「ふなっ!?」
小さな身体をギクリと揺らしたグリムは、ツナ缶を両手に抱えてそそくさとテーブルから一人がけの椅子に移る。「素直で可愛い親分だなぁ」と少しだけ癒された監督生は、横たえていた身体を起こして座り直した。
「わざわざ馬鹿正直にフロイドに頼まなくても、オマエが課題をやっちまえばいいじゃねえか」
「それも考えたけど無理。課題の内容はかなり難しそうだったし、もし出来たとしても先生にバレたら今後一切日の目を見られなくなっちゃうよ」
「それは困るんだゾ! オレ様のツナ缶の補充が出来なくなっちまう」
「私の存在ってツナ缶より下なんだ……」
衝撃の事実を知り、ズルズルとお尻を滑らせた監督生は天井を仰ぐ。雨漏りの跡がある種のアートのように点在する様は、ただでさえ落ち込んでいる気持ちをより深く沈み込ませた。
「いいよもう……冷蔵庫が壊れてロクに食事も食べられなくなった私は誰に気付かれることなくひっそりとこの世から去っていくんだ……」
「発想が飛躍しすぎなんだゾ」
ツナ缶を食べ終えたグリムは「ごちそーさま」と手を合わせる。モンスターの姿とは不釣り合いな人間らしいこの挨拶は、監督生と過ごすうちに身についた習慣だ。
猫特有のしなやかな動作で椅子から飛び降りると、ソファの空いているスペースへとその身を移した。しかし隣の子分は依然として天井一点を見つめたまま動かない。相当に参っているのは、異なる種族であるグリムにも察することができた。尻尾を下の方でユラユラと揺らし、小さな前足を躊躇いがちにそっと監督生の膝に置く。
暖かい感触に気付いた監督生は、上にばかり向けていた視線を心配そうに窺うグリムにうつした。
憎まれ口を言ったり、食い気が盛んでトラブルばかり巻き起こす手の焼ける相棒。だがいまいち憎めないのは彼のこういったところがあるからだ。本人が知らないだけで、温かい心をちゃんと持っている。それがどんなに歪で不格好な形をしていても、監督生にはとても尊く好ましかった。
「ヒッヒッヒ、なにを水臭いこと言ってるんだい?」
「ふなぁっ!?」
二人の間に割って入ってきたのは、ふくふくとした白い影。不意を突かれたグリムは驚いた拍子に後ろに転がり、監督生も危うくソファから滑り落ちてしまうところだった。
二人が何事かと体勢を整えて前を向けば、悪戯好きなゴーストたちが三人揃い、盛大な驚きようを笑っていた。
「やい、ゴースト! いきなり出てくんじゃねえ! 危うくオレ様のキュートな頭にタンコブが出来るとこだったじゃねぇか!」
「それはすまないねぇ。でもお前さんが薄情なことを言うものだから、こりゃいかんと思って慌ててしまったんだ」
「薄情?」
監督生が復唱すれば、ゴーストはにっこりと微笑んで頷いた。
「死んでしまったらワシらと一緒に暮せばいいじゃないか」
「ああ、そうしたら俺たちは本当のゴースト仲間だな。君ならいつでも大歓迎さ」
三人は『welcome!』と書かれた横断幕を広げて見せる。幕は煤けてところどころ破れており、作ってからの長い年月を感じさせた。
一体いつから準備していたのやらと呆れてため息を吐くグリム。同じ反応を期待して隣を見れば、呆れるどころか感涙しながら口を抑える監督生が居た。
「なんて優しいゴースト……いや、ゴースト先輩!」
「そりゃあいいなぁ。先輩なんて呼ばれるのは何十年ぶりだろう」
監督生はゴーストの手を握ると(透けているが)、きらきらとその顔を輝かせた。さっきまでの落ち込みようなどすっかり形を潜めている。心配して損したとばかりにグリムは脱力した。そんな相棒を尻目に嬉々として笑っていた監督生は、はたと大事なことに気づき、眉尻を力なく下げた。
「でも、私がゴーストになっちゃったらグリムが一人になっちゃうね……」
オンボロ寮に一人残されるグリムを憂い、気遣わしげに覗き見る。
「へっ、うるさいのが居なくなってせいせいするんだゾ」
「またまたぁ。寂しがらなくても大丈夫だよ。私が夜通しグリムの耳元で〝ツナ缶寄越せぇ〜〟って呟いてあげるから」
「ただの安眠妨害じゃねーか!」
両手を上げて抗議するグリムに、監督生とゴーストたちは楽しげな笑い声を上げる。すっかりガラ空きになったグリムの脇に手を差し込んだ監督生は、そのまま腕の中に抱きしめた。最初は「暑苦しいんだゾ!」と抵抗していた彼だったが、摺り寄せられる頬の温もりに、尖らせていた気持ちが否応なしに丸くなってしまう。
「ありがとうね、グリム」
フン、とそっぽを向きながらも尻尾はぶんぶんとご機嫌に揺れる。
この日の夜、寄り添うように眠った一人と一匹。その表情がとても穏やかだったことは、三人のゴーストだけが知っている。
そう。明くる日から始まる壮絶な戦いなど、この時は想像もしていなかったのである――。
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